―― そんな感情が「自分」の中にあるなんて、気が付いていなかった。 「おいし〜!」 「それは良かったです。」 菩提樹寮のラウンジで華奢な作りのカップを両手で持ったかなでが歓声を上げるのを見ながら、向かいに座った芹沢睦は頷いた。 その比較的感情が表に出ない表情に、僅かな微笑みが交じっている事に気づく人間は少ないだろう。 彼と付き合いの長い神南の部長と副部長、それから。 「嬉しそうですね、芹沢くん。」 「「八木沢さん」!」 二人だけだったラウンジに響いた穏やかな声に、かなでと芹沢は同時に顔を上げた。 その二つの視線を向けられた八木沢の方は少し驚いた顔をして、けれどすぐににっこりといつもの微笑みを浮かべる。 そして二人のいるテーブルに近づいて言った。 「休憩中ですか?」 「はい!練習の合間に戻ってきたらちょうど芹沢くんがお茶を入れてたんで、ごちそうになっちゃってます。」 「それはいいですね。良い香りがします。」 「そうでしょ〜。レディ・グレイなんですよ。レディ・グレイってちょっと癖があるから上手く入れるのが難しいんですけど、芹沢くんが入れるとすごく美味しいんですよ!」 自分の事のように胸を張って言うかなでに、八木沢は目元を和ませ、芹沢は少し居心地が悪そうに眉を寄せた。 「別に大した事ではないですから。」 「いいや、いつも千秋が褒めてるよ。芹沢くんの紅茶の腕はプロ顔負けだって。」 「そうだよ!こんなに美味しいんだもん。」 すごいよね〜、とほわほわとした笑みを浮かべるかなでから少し目を逸らして芹沢は八木沢に言った。 「八木沢さんもどうですか?」 「え?いいのかな?」 同じセリフを土岐あたりが言ったなら確実に他意ありまくりにしか聞こえないだろうが、驚いたようにそう言う八木沢に他意はまるでないのだろう、と芹沢は思った。 ―― 無意識がどう働いているかは別として。 もちろん、そんなことを考えもしないかなでは笑顔で空いている椅子を勧める。 「どうぞ!芹沢くんの紅茶は味わわなくちゃ損ですよ。」 「それは楽しみですね。」 「ではお湯をかけてきますから。」 そう言って芹沢が腰を浮かせると、代わりに座ろうとしていた八木沢が小さく「ああ」と声を上げた。 「そういえば少し前に作っておいたゼリーが冷蔵庫に入れてあったんですが、食べますか?」 「八木沢さんのゼリー!?」 周囲に光りでもさしたかのようにぱああっとかなでの笑顔が輝いた。 「はい。まあ、僕が作るものなので少し和風ではありますが、和菓子よりは紅茶に合うかと。」 「食べたい!食べたいです!」 期待感と喜びにきらきらした笑顔が八木沢に向けられる。 ―― その瞬間、八木沢の笑顔と芹沢の表情が僅かに変わった。 片方には僅かばかりの悔しさが、片方には愛おしそうな喜びが。 「では出してきますね。」 「はーい!」 大人しく言いつけをまつ子犬のようにちょこんっと椅子に座っているかなでを残して、八木沢と芹沢は同タイミングで席を立った。 芹沢は新しい紅茶のためのお湯をかけるべくガスコンロへ。 八木沢は冷やして置いたゼリーを器に盛るべく冷蔵庫へ。 芹沢も八木沢もそれほどおしゃべりな方ではないから、しばらくは台所に作業をする音だけが聞こえていたが、ふと芹沢が口を開いた。 「八木沢さん。」 「?なんだい?」 「俺はわりと貴方の気持ちがわかります。」 「え?」 かちゃ、とゼリーをガラスの器に移していた手を止めて八木沢は振り返った。 見ればいつの間にか芹沢はヤカンをかけたコンロを背に八木沢を見ていた。 「部長や副部長のように無理矢理近くに連れてきたいとは思いませんし、演奏の話を聞いたり時々話すだけで十分だと思っていました。」 「それは・・・・」 言いかけて、八木沢は口をつぐんだ。 誰の事を、何の事を言っているかなど、愚問もいいところだ。 かわりに、八木沢は背筋を伸ばして芹沢に対峙する。 「そうだね。僕もそう思うよ。・・・・でも、先がありそうだね?」 「はい。」 芹沢は八木沢の真っ直ぐな視線を怯まず見返す。 彼らを知る者が見たら少し驚きそうな張り詰めた空気の中で、芹沢は言った。 「でも、さっき確信しました。」 「・・・・多分、僕もだよ。」 薄紫と漆黒の視線がぶつかった間に浮かぶのは、ただ一人の少女の笑顔。 高級な物をプレゼントしたところで申し訳ない顔をする彼女が、唯一屈託もない笑顔を見せてくれる瞬間。 『美味しい!すごい!』と言ってかなでが輝くような笑顔を見せてくれるあの瞬間は。 「絶対に譲れません。」 「悪いけど譲れないよ。」 自分だけが「幸せにしたい」 ―― 次の瞬間、ピーッとヤカンの笛がスタートの合図のように鳴り響いた。 〜 Fin 〜 (シリアスのようなコメディのような・・・穏やかな二人に争ってもらいました) |