夜桜染める想い色
夜の桜は白く輝いているようだ。 月明かりに白い袖を広げたような優美な姿を見上げて、九十九丸はほう、と息をついた。 「店じまいをしてから来たから、やはり夜になってしまったが、夜桜は夜桜で綺麗だな。」 「そうね。」 九十九丸の言葉に隣を歩いていた香夜も明るく頷いた。 昼間に見ればもっと明るくて見通せるかもしれないが、夜の月とわずかばかりの町の灯りで見る桜もまた違った趣があって美しい。 そんな桜を眺めながら、いくらか無言で歩いていたが、ふいに香夜はおかしくなって小さく笑みを零した。 「?どうしかしたか?」 夜の空気を僅か振るわせた声に、九十九丸は首をかしげて香夜を見た。 その漆黒の瞳を見返して、香夜は答える。 「あのね、ちょっと不思議な感じがしたの。」 「不思議?何が?」 「同じなのに、こんなに違うなあって。」 わざと謎かけのように言うと、九十九丸は思ったとおり眉を寄せて首を捻った。 「同じなのに違う?」 何が?と問うような顔が妙に無防備で、そんな顔で見られた香夜は思わず「可愛い」などと思ってしまった自分を誤魔化すように大げさに頷いた。 「うん。まず同じなのは、桜があって九十九丸がいること。」 「あ」 その言葉で香夜が何を言いたいかわかったのだろう。 「一年前とか!」 「正解。」 寺子屋で算術の答えを言い当てた子どものように目を輝かせる九十九丸に香夜は笑いながら頷いた。 そう、ちょうど一年前、香夜は九十九丸と一緒に夜桜を見たのだ。 思いがけず勤める事になってしまった偽花嫁行列で護衛をしていた九十九丸が、江戸で剣取り試合の間の生活費と寝床を求めて香夜の店へやってきて数日後の事だった。 同じ時のことを思い出したらしい九十九丸が「そうか・・・・」とため息のような呟きを零すと目を細めて桜を見上げた。 「もう一年たったんだな・・・・いや、でもまだ一年前か、という感じもするな。」 「そうね。この一年でいろいろあったもの。」 (遠野へ行ったり、九十九丸を常夜から連れ戻したり。) 頷きながら香夜の脳裏にこの一年の代表的に大変だった事が浮かんだ。 「一年前桜を見ていた時には、九十九丸の事をまだ何もわかってなかったから。」 「そうだな。俺自身も知らなかったこともたくさんあったし。」 九十九丸がそう言うのももっともで、実際、九十九丸の中にマレビトという常夜の希有な存在がいて、そのため黄泉へ彼の命が傾きかけているという事を知ったのは、花見の後の御前試合の最中だったのだ。 「ふむ・・・・そう考えると、違う事の方が多いかもしれない。」 立ち止まってしばし考えるようにした九十九丸はくるりと香夜を振り返って言った。 「まず、俺が成長した。」 胸をとん、と叩いてそう主張する九十九丸に香夜は微笑んで頷いた。 「一年前は同じぐらいの背丈だったものね。」 そう、一年前の九十九丸はマレビトの影響か十五の歳で体の成長が止まっていたらしく、香夜ととんとんの体格の青年というより、少年に近かった。 「一年前は一年前で目線が近くて親しみやすくて、結構好きだったけど。」 多分、花嫁行列の時から九十九丸と鈴懸には比較的気安い感情を持ちがちだったが、その辺はあの少年めいた体格のおかげもあったのだろう。 そして今の九十九丸はというと、すっかり青年と呼ぶに相応しい体格とすっきりとした面差しにやや複雑そうな表情を乗せて香夜を見下ろしている。 「うー・・ん、成長したのは嬉しいんだが、前も好きだったと言われるのは意外と複雑なものなんだな・・・・。」 「ふっ、あははっ!」 しゅん、と耳をたれた大型犬のような風情にこらえきれず香夜は吹き出してしまった。 (こう言うところは変わっていないんだけど。) やっぱり可愛いと香夜が笑っていると、九十九丸はむう、と顔を顰めると少し思案して。 「笑っているが、君だって変わったぞ。」 「え?私?」 そう指摘に香夜はきょとんっとした。 「私は一年じゃたいして変わってないよ。」 九十九丸ほどでないにしろ、成長期の男子のような変化も女子にはないのでそう言ったつもりだったのだが、九十九丸は首を横に振って言った。 「いや、変わったよ。まず・・・・お嬢さんから、俺の妻になった。」 「!」 思わぬ言葉に香夜は目を見開いた。 まだなじみきらない妻という単語に、俄に鼓動が早まって頬が熱を帯びてしまう。 「お嬢さんから妻って・・・・」 「そうだろ?一年前、ここで桜を見た時の君は俺にとっては「お嬢さん」だった。」 にっこりと笑う九十九丸の笑顔に悪戯めいたものを見付けて、香夜はやられた、と唇をとがらせた。 「それを言うなら九十九丸だってうちの茶屋の使用人だったって事じゃない。」 「まあ、そういうことだ。」 思いがけぬ不意打ちを食らって赤くなってしまった自分が悔しくて不機嫌な顔を作ってみせる香夜の機嫌を取るように、九十九丸は笑うと香夜の手を握った。 まだ少し寒さを残す夜風の中で繋がれた手から伝わるぬくもりに、ふっと心がゆるんでしまって、そんな単純な自分に香夜は溜息をついた。 (・・・・ああ、でもこんなところが一番一年前と違うかしら。) 一年前、同じ桜を見上げていた時、ぬくもりを感じただけで幸せになれるほど九十九丸を好きになるなんて、思ってもいなかったかもしれない。 と。 「一年前はこんなに「お嬢さん」を好きになると思ってなかったかもな。」 「!」 まるで自分の考えをなぞったような九十九丸の言葉に香夜は驚いて顔を上げた。 見れば自分を見下ろす漆黒の瞳と目があった。 香夜の勢いに驚いたのか少し見開かれたその瞳は、継いであわあわとしたように泳いで。 「い、いや、その、別にその前は好きでなかったとかそう言うわけではなくて。うん、むしろ好ましいとは思っていたんだが、まさかこれほど好きになるとは思っていなかったというか・・・・」 「・・・・私も。」 「へ?」 「私も今、そう思っていたところ。」 「あ、ああ。そうだったのか。」 ほっとしたように息を吐いて目を細める九十九丸に、香夜は微笑んだ。 「そうよね。それが一番違うかもね。」 一年前、この桜を見た時は香夜にとっても九十九丸にとっても、互いは好ましい程度の関係だったはずだ。 だからまさか一年後、夫婦としてこの夜桜を見上げる事になるなんて予想もしていなかった。 「そう考えるとすごいな。」 「え?」 「だってそうだろう?ほんの少し何かが違っていたら、きっと俺はこうして香夜と並んでこの桜は見られなかったと思う。」 「うん。」 九十九丸の言葉に香夜は頷いた。 ほんの少し・・・・もし九十九丸が御前試合を諦めなかったら、もし香夜が遠野へ一緒に行っていなかったら、もし常夜へ傾いている九十九丸に香夜の声が届かなかったら。 どこをほんの少し違えても、今、この時はなかっただろう。 そう思うとなお繋がれた手のぬくもりが愛おしくて、香夜はきゅっと手に力を入れた。 そうしてぬくもりを感じながら桜へ目をやれば、ひらりひらりと舞い踊る桜の花びらさえも輝いて見える気がして香夜は目を細める。 「本当に・・・・綺麗ね。」 ため息をつくように香夜は呟く。 生まれてこの方、毎年見ていた桜が今年はなお美しく見えるような気がして、目に焼き付けるように桜に見入る。 と。 「・・・・・あ」 「?」 急に九十九丸が上げた何か思いついたような声に、香夜は我に返った。 「どうかした?」 何かあったのだろうか、と首をかしげる香夜に九十九丸は一つ頷くと言った。 「もう一つ、一年前と違う事を思いついた。」 「?」 一度話は途切れたと思っていたので、なんだろうと首をかしげる香夜の頬へ九十九丸が手を伸ばす。 (桜の花びらでもついてる?) 取ってくれるのだろうか、とそんなことを考えていた香夜の予想は、無造作に頬をすくい上げる仕草に裏切られて。 「え ―― 」 ―― ちゅっ 「!?」 ごくさりげない動作で身をかがめた九十九丸の唇がついばむように落とした口付けに、香夜は目をまん丸く見開いた。 「つ、九十九丸!?」 香夜が思わず口元を押さえて真っ赤になってしまったのも無理はない。 昼間ほどは多くないとはいえ、夜桜見物の人はまだ周りにちらほらいるのだ。 見られていたらと慌てる香夜とは対照的に、九十九丸はへにゃっと笑顔を浮かべると香夜の髪を梳いた。 「いいんじゃないか。俺達は夫婦なんだし。それに・・・・一年前と違うところ、思いついたって言っただろ?」 「い・・・・今の口付けが?」 「ああ!一年前の俺なら桜と言えば真っ先に桜餅か花見団子だったんだぞ。でも、今の俺が食べたいのはこっちだ。」 言葉だけは無邪気だが、そう言って香夜の唇をなぞる九十九丸の仕草は、妙に艶っぽくて香夜の鼓動は否応なしに早まる。 本来なら食べ物と同列!?と怒っても良いところだが、なまじ九十九丸の食欲と性格を知っているだけに、色気のないはずの例えが意味深に思えて香夜は煮詰まって、えい、と九十九丸の胸に抱き付いた。 「!」 「もう、九十九丸のばか。・・・・桜どころじゃなくなっちゃったじゃない。」 どきどきさせられて振り回される悔しまぎれにそう呟いた言葉に、頭の上で小さく笑う気配がする。 「それはお互い様だな。俺も香夜の視線を桜に取られっぱなしでは面白くなかったんだ。」 「〜〜〜!」 まさかの追い打ちに香夜は呻くが九十九丸はなお嬉しそうに笑うばかり。 ―― 結局、その後頬の熱が冷めるまで顔をあげられなかった香夜は夜桜を堪能することは叶わず、おまけにご近所からは料理茶屋の若夫婦は仲が良くて結構だとからかわれて、その頬を桜色に染め上げることになったのだった。 〜 終 〜 |