裏長屋診療所の噂話
『江戸で病か怪我に苦しんだら、商店通りの裏長屋へ行ってみるといい。若いけどそれは腕の良いお医者さんが貧乏人でもきちんと診てくれるから。 ただし・・・・』 「『美人の奥さんにふらつくような若い男には、きつい治療が待ってるよ』・・・・だとさ。」 とある天気の良い午後。 件の裏長屋にある診療所の板の間で出された白湯の茶碗片手に、神威が世間話を意味ありげに区切って見ると、向かいに座っていた香夜は頭を抱えてしまっていた。 「・・・・やっぱり。いつかは言われるんじゃないかとは思っていたんですけど。」 「へえ。あんたがその反応って事は、あながち根も葉もない噂ってわけでもないんだな。」 そんな香夜の反応が意外で神威は目を丸くする。 先日、裏長屋の診療所の噂を薬問屋で耳に挟んだ時、すぐにどこの誰の事を言っているのはわかった。 今年の春、五剣祭の頃にどこからともなく現れた若者が裏長屋に診療所を開いたのを知っていたからだ。 若者の名は鈴懸。 かつては神威自身が酷い嫉妬を覚えたほど、純粋で真っ直ぐで腕の良い医者だ。 だから、貧乏人でも云々の下りについては至って納得できたのだが、気になったのは『ただし』の先。 「俺はてっきり、鈴懸の奴がけなすところがないから、ちょっとからかってやる程度の話かと思ってたんだがな。」 人間というのは、同じ人間なのにあまりにも仏様みたいだと返って不安になったりする面倒な生き物だ。 だから裏長屋の医者を称賛しつつも、どこか小さな欠点をくっつけようとしたんだろうと思ったが、それが嫁の話とはなんとも面白い。 まあ、その程度に覚えていたのだが、今日、玄庵の用事があって鈴懸の診療所へ寄ってみたところ、肝心の鈴懸が留守で、先日祝言を挙げ今は鈴懸の妻となった香夜がいたので、待たせてもらいがてらそんな世間話を持ち出してみた、というわけだ。 しかし神威としてはただの笑い話程度の気軽な話題のつもりだったのだが、香夜は思いの他、本当に困った顔をしてしまった。 「それが・・・・意外とそうでもないんですよ。」 「噂が大げさじゃないって?あの鈴懸が?」 俄然面白そうに驚いてみせる神威に、香夜は苦笑する。 「やっぱり、そう思いますよね。」 「まあな。あいつって馬鹿が付くほど正直だからな。あんたにベタ惚れってのは知ってたが。」 かつて妬みに目が曇らされている時、鈴懸を苦しめようと香夜を傷つけてしまったことがある神威はその辺は身をもって体験していた。 普段は温厚な鈴懸だが、香夜が害されそうになった時の化け物じみた強さは早々忘れられるものではない。 が、あくまでそれは身の危険が関わるような事態の時だ。 診療に来た患者に思わずきつい治療をしてしまうようなやきもちを妬くとは神威には全然想像がつかなかった。 しかし、香夜は「そうですよねえ」と小さくため息をつきつつ言った。 「私もそう思っていたんですけど・・・・若い男の人はダメなんですって。」 「ダメ?」 「最初は普通に患者さんが誰でもお手伝いはしていたんですよ?」 香夜の言葉に神威は頷いた。 もともと嫁になる前から、香夜はこまめに診療所に通っては鈴懸の仕事を手伝っていたのは知っている。 「でも、その・・・・恋仲になった頃から、若い男の人はダメって言われて。」 「へええ・・・・」 (あいつでもそんなこと言うのか。) これはちょっと神威にとっては青天の霹靂だった。 神威の認識では鈴懸はとんでもなく真っ白で、およそ人の持っているような黒い部分などないように思えていたから。 「あいつがねえ。さすがに好きな女の事ともなれば嫉妬の一つもするのか。」 「そう・・・・なんですよね。私も意外でした。初めて男の人の手当をしている時に包帯を取り上げられた時なんか、私が失敗したんじゃないかと思ったぐらい。」 そう言って香夜はその時の事でも思いだしたのか、ふふっと小さく笑った。 「鈴懸ったら、ものすごく不機嫌な顔をしていたんですよ。」 「あいつが?」 「はい。いつもにこにこしているから、あんまり想像つかないでしょ?それで私、酷い失敗でもしたんじゃないかって怖くなって。しかもその後、包帯を巻かれた患者さんは痛い痛いって大慌てしていたし。」 「けど、失敗じゃなかったってわけか。」 「はい。理由はよくわからなかったんですけど、とにかく香夜は男の人の手当は緊急時以外はしなくて良いからって言われました。」 そう言われても困るんですけどね、と苦笑する香夜を見ながら、神威は大分ぬるくなった白湯を一口飲んだ。 (・・・・・・・まあ、気持ちはわからないでもない、か。) 茶碗の蔭からこっそり香夜をのぞき見つつ、神威は心の中でそう独りごちた。 もとから客商売をしていたせいか、香夜は笑顔が可愛らしい娘だった。 けれど、この診療所へ嫁いで来てから、香夜は日増しに綺麗になったと思う。 可愛らしいつぼみが美しい花を開かせたように。 鈴懸と香夜の絆の深さを知っている神威でさえも、ふとした仕草にどきりと鼓動が跳ねてしまうほど、今の香夜は間違いなく魅力的な女人なのだ。 (しかも・・・・その辺、こいつは自覚してないよな。) 他の事にはしっかり者だが、こと色恋に関しては疎いらしい香夜は、きっと己の変化など気がついていないに違いない。 「あんたのことだから、若い男でも構わず笑いかけたり、優しく励ましてやったりしたんだろ?」 「?それって普通の事ですよね?」 きょとんと首をかしげられて、「ああ、うん・・・・」と妙な相づちを打ってしまう。 確かに香夜が言う通り、性別や年齢で患者を差別するのは間違っているが・・・・彼女を愛している男としてはそうも言っていられないのだろう。 怪我や病気やらで気が弱っているところへ、香夜のような優しい娘が笑顔を見せてくれたら。 「・・・・そりゃ、触らせたくねえよな。」 思わず患者の心境、鈴懸の心境、共に想像してしまった神威がそう呟いた時。 「でしょう!?」 「うわっ!?」 がらっと表の戸が開くと同時に大きな声が響いて、思わず神威はびくっとしてしまった。 「あ、鈴懸。おかえりなさい。」 危うく湯飲みを落としかけた神威とは対照的に、香夜は神威を通り越して戸の方へ目をやるとにっこりと微笑んだ。 「うん、ただいま!香夜。」 元気の良い声で返事をしながら、待ち人であった鈴懸が診療所の中へ入ってくる。 「たく、驚かすなよ。」 「ごめん。でもちょっと黙っていられなくて。」 三和土で足の埃を落として板の間へ上がる鈴懸を目で追いながら神威が言うと、鈴懸が肩をすくめた。 「裏長屋の医者の噂って、僕も知ってるよ。」 「え!?鈴懸知ってたの?」 意外な鈴懸の言葉に香夜が目を丸くする。 しかし、それに対して鈴懸は何でもないことのように頷くと言った。 「僕に直接言ってくる人もいるしね。でも、そのままにしてる。だって、本当に具合の悪い人ならそのぐらいの噂気にしている余裕なんてないだろうし。それにね。」 思ったよりもっともなことを言う鈴懸に神威も香夜も少し驚いていると、鈴懸は一転、むうっと彼らしい可愛らしい仕草で頬をふくらませると言った。 「そのぐらい言われてないと、香夜に会うためにちょっとした怪我で来たりする人がいるんだよ!」 「あー・・・・」 香夜はぴんと来なかったようだが、神威は思わず同意していた。 「特にちょっとした怪我だと、香夜、自分で手当てしてあげちゃうでしょ?」 「え、だって鈴懸は忙しいし、私でも切り傷ぐらいなら・・・・」 「ダメ!絶対にダメ!」 控えめながらも反論しようとした香夜の言葉を遮って、鈴懸はいきなりぎゅーーっと香夜を抱きしめた。 「ちょ!?ちょっと、鈴懸!?」 神威さんいるから!と香夜は慌てるが、生憎、鈴懸の耳には入らない。 「香夜が優しいのも綺麗なのも、僕が一番よく知ってるけど、だからって他の人もそう思うのはなんだか嫌なんだ!香夜は僕のお嫁さんなんだから!」 「う、うん、わかった!わかったから!」 だから離して〜〜〜、と情けなく聞こえる声と僅かばかり鈴懸の腕の間から覗く香夜の顔が真っ赤に染まっているのが見えて、神威は微笑ましいのかやさぐれたいのかよくわからない心持ちに陥る。 (これはそろそろ俺の存在を主張すべきか?) 完全に忘れられてるよなあ、とそんなことを考えた時。 (・・・・ん?) ふと視線を感じて見れば、鈴懸の若草色の瞳とかちん、と視線がぶつかった。 (なんだ・・・・?) てっきり香夜とじゃれる方に集中しているものだとばかり思っていた神威が戸惑っていると、鈴懸は真っ直ぐその瞳で神威を射貫いたまま、言った。 「ね?そうだよね?神威。」 「!!」 (こ、こいつ・・・・!) 一見するといつもと変わら鈴懸の言葉。 それ故に、彼の腕の中でじたばたしている香夜は全然気がついていないようだが、今のは確かに。 (牽制してきやがった。) そりゃあもう、全力で。 ああ、そう言えば自分も確かに『若い男』で、くわえて鈴懸が帰ってくるまでの間、ずっと香夜を独占していたんだという状況に今更ながら気がついて神威は苦笑する。 そして、相変わらず向けられている若草色の視線に降参を示すように両掌を見せると、神威は立ち上がった。 「今日は玄庵様の使いで荷物を届けに来ただけだ。次はお前がいるときにでもまた寄るよ。」 「うん!そうしてくれると嬉しいな!」 にっこりとゆるんだ表情があまりにもいつも通りだったので、神威は腹の底から笑いがわき上がってくる。 まだ鈴懸に離してもらえない香夜は、戸惑ったような声を出していたが、構わず神威は戸口を開けた。 そして。 「じゃあな。・・・・がんばれよ。」 おまけに付け足した言葉は、鈴懸の愛情を目一杯注がれている香夜へ向けてか、それとも無自覚に綺麗になっていく香夜の言動にやきもきしなくてはならなくなった鈴懸へか。 どちらにしても。 すー・・・・ぱたん。 後ろ手に診療所の戸を閉めると、薄い長屋の玄関扉らしく、中からわいわい言い合う声が聞こえてくる。 そのおそらく本人達が自覚しているより甘ったるい言葉の応酬を遠くに聴きながら、 「・・・・ま、仏様みたいな医者も、一人の男だったってわけだ。」 そう呟いたところで、とうとうこらえきれなくなった神威の笑い声が、今日も日本晴れの江戸の空に響きわたったのだった。 〜 終 〜 |