つれない後頭部と新妻の野望
眠り、というものは安らぎである。 と、少なくとも香夜はそう考えている。 一日忙しく働いたのだから、布団に入って眠る時はゆっくりと、体を休めればいい。 よくご近所の井戸端会議では、旦那の寝相が酷すぎるとか、いびきがうるさいとかいう話が普通に出ていたが、結婚前の香夜はそういう事があったら大変だな、と思いつつも、本人が安らかであるならば、頑張って我慢しよう、と思っていた。 ―― が。 「・・・・いつもながら、これはどうなの?」 ちゅんちゅん、と朝の鳥の声が障子越しに爽やかに聞こえる部屋で、自分の布団に身を起こした香夜は、隣の布団を見下ろして思わず呟いた。 というのも、隣の布団には、見慣れない人なら思わずぎょっとしてしまうような光景があるからだ。 もっとも、布団があらぬ方向へ飛んでいっているとか、そう言う事ではない。 むしろ布団は掛け布団敷き布団ともに、ぴしっとしていて、まるで敷きたてのような美しさだ。 掛け布団から出ている人の姿も目もあてられないほど寝乱れているとか、そんなことはまったくない。 それどころか、人間、こんなに綺麗に寝られる物かと感心してしまうほどに乱れはない。 ただし、それが。 「・・・・うつぶせでなければ。」 そう、香夜の隣の布団では完璧なまでに乱れのない布団に、完璧なまでに乱れのない姿で、横たわる人の姿―― これが、香夜の夫、実彰の寝姿であった。 (大分見慣れては来たけれど、相変わらず不思議な寝方。) 料理茶屋の一人娘であった香夜の元へ、婿にくるという形で実彰と祝言を挙げてしばらくたつ。 最初の頃は朝起きて隣の布団でこの寝方をしている実彰を見て、ぎょっとしたものだが、最近はようやく慣れてきた。 慣れては来たが。 (やっぱり、不思議・・・・) まだ結婚当初に実彰が不思議な寝方をする、と零した香夜に、「いや、アレは怖えだろ!」と言ったのは螢だったか。 聞くに東海道の旅の間もこんな風に眠っていたらしい。 「とすると、昔からの習慣?」 思わず心に浮かんだ疑問をぽつりと零したちょうどその時、ふよふよと視界の端を白っぽいものが横切った。 はっとして見れば、雑紙が一枚と細身の筆が空中に支える物もなく浮かんでいる。 知らぬ物が見れば、すわ、物の怪か!?と腰を抜かすところだが・・・・。 「ハバキちゃん?」 香夜の問いかけに頷くように筆が揺れた。 そう、実は本物の物の怪だったりする。 香夜には見えないけれど、実彰の愛刀に憑いているハバキ憑きという妖怪らしい。 けれど、最初は驚いた香夜も、最近ではすっかり慣れ、筆談で会話までするようになった仲だ。 だから紙と筆が飛んできたということは、ハバキ憑きが何かしゃべりたいことがあるんだろう、と判断してその動きを見ていると、細身の筆がさらさらと動いた。 『あたしが憑いた時からずっとこうだったよ。』 「あ、寝方の事?」 したためられた一文を読んで問い返すと頷くように筆が揺れた。 朝からぼんやりと実彰の寝姿を見つめていたところを見られた気恥ずかしさに、香夜は少し頬を赤くするが、それ以上に好奇心が勝った。 「ていうことは、きっとハバキちゃんが憑く前からもこうだったんだよね?」 『たぶんね。』 その答えに、香夜はうーん、と唸った。 「そうなんだ・・・・。うん、別に悪いわけじゃないんだけど・・・・。」 そう、別にうつぶせで寝るのが悪いとは言わない。 けれど。 「・・・・普通うつぶせに寝る時って、顔を横に向けるよね?」 わざわざそう問うたのは、目の前の実彰がそうではないからだ。 うつぶせで寝る時、顔を横に向けて呼吸を確保している姿は良く見る光景なのだが、実彰の寝方はそうではなく、実に単純に、顔面を布団に押しつけたような格好で寝ているのだ。 これで多少手が掛け布団から出ているとか、足が出ているとかなら不自然さももう少し経るのだが、実彰は見事なまでに直立不動の体勢でうつぶせている。 ・・・・正直、近くに血痕でもあったら見た目は完全に死体だ。 (螢さんが怖いって言ったのも、少しわかっちゃうのよね。) なにせ、その格好でぴくりともうごかないのだから。 夫婦になった当初は、何かあったのかとぎょっとして揺り起こしてしまったことも何度かあったぐらいだ。 『変な寝方よね〜。』 笑い声が聞こえてきそうな文字に、香夜もつられて苦笑する。 「具合が悪い訳じゃないならいいんだけど、ね。」 実際のところ、実彰の寝方は実に静かで、隣で寝ていて起こされるようなこともない。 だから、眠る姿勢ぐらいは個人の自由、と割り切っても良いのだが。 「・・・・でも、なんだか苦しそう。」 何分、完全に顔を布団に押しつけて寝ている上に、実彰の長めの髪があるので、その寝顔はうかがい知れない。 だからあくまでも香夜の印象なのだが、どうにもこの寝方は苦しそうに見える。 『自虐的な奴だから、いいんじゃない?』 「自虐的って。」 さらりと言ってくるハバキ憑きに、香夜は困ったように眉をよせた。 これまでの人生で様々な苦難にあったせいか、確かに実彰にはそんな傾向がある。 けれど、それが無意識に寝姿にまで出ているとしたら、それはなんとかしてあげたい、と思ってしまう。 「でも、きっと、単純に上を向いて寝てくださいって言ってもそうはならないよね・・・・。」 苦しそうだから、上を向いて寝てくださいと言えば、実彰はきっと「わかった」と頷いてくれるだろう。 しかし、わかったと言って簡単に直せるというものでもないはずだ。 「寝方なんて個人の自由だし、私が言う事でもないのかもしれないけど・・・・」 ハバキ憑きに聞かせるというよりも、ちょっと自分に言い聞かせるようになったのは、自分でも寝相を上向きにして欲しいと願う中に、実彰を気遣う思いと、ほんの少しの下心が混ざっていることを自覚しているせいだった。 しかし、そんなことは妖怪のハバキ憑きにはあっさり見通されたようで。 『実彰の寝顔が見たい?』 「っ!」 さらさらっと書かれた言葉に、香夜はさっと頬を染めた。 そう、実は夫婦になってこのかた、香夜は実彰の寝顔を見たことはなかった。 あまり寝起きの良くない実彰を起こすのは香夜の日課なのだが、なんせうつぶせで寝ているものだから、一向に寝顔というものが拝めない。 普段、すごく頼りになって冷静な実彰の無防備な寝顔を見てみたい、というのはちょっとした香夜の野望にもなっていた。 『赤くなっちゃって。かわいい。』 「ハ、ハバキちゃん、からかわないで。」 自分の周りをくるくると回る筆と紙を弱く睨んでそう言うと、笑うように紙と筆が揺れた。 これは笑われているな、と思ったが、どうしようもなくて様子を見ていると、やや間があって、また紙に筆が走った。 『でも、あんたの気持ちもわかるから、あたしが作戦を考えてあげる。』 「え!?本当に?」 『まかせなさいって!そうね・・・・』 そこで筆が思案するように止まった。 (実彰さんの寝顔を見られる方法・・・・) 自分には妙案は思いつかないけれど、ハバキ憑きは何か策があるのだろうか、と筆を見つめていると、ややあって『こんなのはどう?』と、前置きした上で、さらさらと紙に文字が並んでいく。 それを読んで。 「え、ええ!?むぐっ」 思わず声を上げかかった香夜の口を、飛んでいた紙がぼすっと押さえた。 『こら!実彰が起きちゃうじゃない。』 「だ、だって・・・・」 紙面上で怒られて自分でも肩をすくめながら、香夜は再度、ハバキ憑きが記した『作戦』に目をおとした。 「・・・・これで、実彰さんの寝相、変わるかな?」 半信半疑で問いかける香夜に、迷いのない文字が書き付けられる。 『本当に変わるかはわかんないけど、少なくとも上向きで寝ようと必死にはなると思うよ。』 続いて書き付けられた『あいつ、むっつりだから』という一言は見なかったことにして、香夜は会話をしていた紙から、隣の布団へと再び視線をもどした。 そこには、さっきの香夜の声にも起きず、変わらぬ実彰の後頭部がある。 (・・・・こ、このままうつぶせで寝てると、苦しそうだよね。) 自分への言い訳か、それとも勢いづけか、わからなくなりながらも、覚悟を決めるように香夜は一つ息を吐いた。 そうして、布団に座ったままだった姿勢を実彰の方へ向けると、、そっと前へ傾ける。 零れる自分の髪を片手で押さえて、片手は実彰の布団へ着いて。 (どうかハバキちゃんの作戦が当たりますように・・・・!) どきどきと高鳴る鼓動を押さえるようにそう祈って、香夜は思い切って身をかがめると。 ―― 実彰の後頭部に、口付けを一つ落とした。 刹那 ―― 「ひゃっ!」 「っ!?」 香夜の襟首がぐいっと引っ張られて身を起こすのと、実彰がものすごい勢いで跳ね起きたのは、ほぼ同時だった。 慣れぬ事をしたのと、思いがけぬ激しい展開に香夜が飛び跳ねる胸をなだめていると、後頭部を押さえた実彰がこちらを向く。 その目は、いつになく丸く見開かれていて。 「香夜、さん・・・・今・・・・」 何を?と続きそうな言葉に、香夜が返しに困っていると、とんとん、と背中に軽い衝撃。 (あ、そっか。ここで・・・・) さっきの『作戦』を思い出して、香夜は反射的にハバキ憑きの書いた台詞を口に乗せた。 「あ、あの!実彰さんが仰向けで寝ていたら、その、く・・・・口付け、したかったんですけど、うつぶせだったから・・・・」 自分から口付け、などと言うのが恥ずかしくて自然と口ごもり気味になり、頬も熱くなる。 しかしそれは、結果的に・・・・。 「〜〜〜・・・・・・・香夜さん。」 「は、はい!?」 「貴女は、自分の言葉と行動の威力をわかっていない。」 「??威力??」 何故か顔を半分手で覆ったまま、大きく息を吐く実彰に、香夜ははしたないと思われただろうかと慌てる。 「あの、ごめんなさい!実彰さんがうつぶせで寝てて苦しくないのかなってずっと気になっていて・・・・!」 「わかっている。私の事を気遣ってくれたのは嬉しいんだ。」 だからこその威力なんだが、と呟かれた意味はいまいちわからなかったが、すっと伸びてきた実彰の腕に抱きしめられて、香夜はほっとした。 少なくとも怒ったり呆れたりはされてないらしい。 朝から何かやりとげた気分で、香夜が肩の力を抜くと、それを見計らっていたように、ぽつっと耳元で実彰が呟いた。 「ところで、香夜さん。」 「はい?」 「その・・・・私が、仮に・・・・仮に、だが、仰向けで寝ていたら、口付けをしてくれるか?」 「え!?」 思いがけぬ問いかけに香夜は目を丸くして実彰を見上げるが、ぶつかった瞳には真剣そのものの表情が浮かんでいて。 「あの・・・・・・・・はい。」 ハバキ憑きの作戦とはいえ、さっき、そのような事を言ったのは自分だ。 かなり恥ずかしくはあったが、香夜が頷くと、実彰は「そうか」と大きく一つ頷いた。 そして。 「遅くなったが、おはよう。香夜さん。」 「あ、はい。おはようございます、実彰さん。」 ようやくいつも通りの朝の挨拶を交わしたのだった。 『あれは、文献とか調べて今夜から特訓するよねー。』 若夫婦の床もしまわれ、店に行ってしまった後の部屋で、にやにやとハバキ憑きが呟いた通り、その日から実彰が仰向けで寝る特訓を始めたのは、言うまでもない。 〜 終 〜 |