永遠に、ひとつ
夏が行き、初秋になると山は薬師にとって宝の山になる。 もちろん、他の季節がそうでないわけではないが、秋は田畑と同じように山にとっても実りの秋なのだ。 難点を言えば秋の日はつるべ落としで、日が暮れるのが早くなってしまうところだろうか。 暗くなってしまえば薬や木の実を見分けることもできないから、山の恩恵にあずかろうとするものは人でも獣でも短くなっていく日のあるうちにとこの時期はひたすらに忙しい。 そんなわけで、最近江戸の町で評判の薬師夫婦 ―― 鈴懸と香夜もまた、ここしばらくは連日山に足を運んでいた。 江戸の町には薬屋もあるが、手間賃が入る分だけどうしても高くなってしまう。 幸い鈴懸には薬学の知識もあるので、できるものは自分たちで作っておこうとなると、秋の山でしなくてはならないことは山積みだった。 先日嫁いできたばかりの香夜と、実はほんの少し江戸の近くに住む妖怪たちの力も借りて、今日も背負い籠一杯に薬草が集まったところで、鈴懸は手を止め大きく背中を伸ばした。 「うーん、だいぶ集まったかなあ。」 今日は地面に近いところにある薬草を集めていたせいか、背筋を伸ばすと妙に気持ちが良い。 その勢いで空を振り仰いだ鈴懸ははっとした。 いつの間にか空がもうあかね色を帯びてきていたからだ。 「わ、もうこんな時間だ。」 慌てて籠の中をまとめ始める鈴懸に、水に水滴を落とすような不思議な声が降ってきた。 『鈴懸ー、もう終わり−?』 『まだ大丈夫でしょー、日が暮れても鈴懸なら』 声につられて見上げれば、透き通るような不思議な童たちが梢から少しつまらなさそうに見下ろしていた。 木霊、と呼ばれる彼らの声や姿を普通の人間は見られないと言うことを鈴懸が知ったはもつい半年ほど前のこと。 高尾の山で妖怪に育てられ妖怪と共に育った鈴懸にとっては、確かに木霊たちの言うとおり日の落ちた山を降りることだってたやすい。 けれど。 「ダメだよ。僕はいいけど、今は」 そう言って視線を滑らせた先、少し離れた茂みで一生懸命、鈴懸が教えた実を摘んでいる娘の姿に鈴懸の心にぽっと暖かい想いが灯る。 偽花嫁と護衛という不可思議な出会いから、様々な困難を経て、今は自分の隣を選んでくれた大切な大切な人。 「今は、香夜がいるからね。」 そう言った言葉は自分でも照れくさくなるほど嬉しそうで、それがわかったのか、枝にいた木霊たちがからかうように一斉に梢を揺らす。 『そっかー、お嫁さんに怪我させちゃだめだよねー』 『そうだねー、おーい、お嫁さーん』 「あ、僕が呼ぶからいいのに・・・・」 お節介な木霊たちに鈴懸は思わずそう言ったが、木の葉の音に気がついたのだろう。 香夜が向こうで顔を上げた。 そして鈴懸を見つけて、ふわっと笑う。 この瞬間が、鈴懸は好きだ。 香夜が自分を見つけて真っ先に微笑んでくれるのを見ると、胸の中が暖かくなって、やっぱり自分も微笑んでしまう、そんな瞬間が。 そして今日もまた思わず微笑んでいると、香夜が足早に近くへ戻ってきた。 「今、呼んだ?」 「あ、今日は木霊たちの声は聞こえなかったんだね?」 不確定な形の香夜の問いに鈴懸はまだ梢にいる木霊たちをちょっと見た。 鈴懸と共にいる時間が長くなったせいか、香夜にも最近では時々木霊の声が聞こえるようになっていたのだが、今日はそうではなかったらしい。 (今日はそういう日だったのかな?) その不安定さが変わらず木霊の声が聞こえる鈴懸には不思議で、小さく首をかしげていると、香夜はちょっとばつが悪そうに言った。 「今日は、少し邪なこと考えてたからかも。」 「邪?」 「だって、ほら。」 そう言って香夜が差し出したのは、手籠の中。 そこには鈴懸が収穫を頼んだヤマブドウの紫の実が一杯に入っていた。 「これを採ってたら・・・・ちょっとつまみ食いしたいなあ、なんて思っちゃって。」 「それが邪?」 きょとんとして聞き返すと、香夜はいたずらっぽく笑って言った。 「だって、お薬にしようとしてるのにつまみ食いなんてお医者様の奥さんとしては、ダメじゃない?」 その言い方と、香夜が言わんとする冗談に気がついて、鈴懸は声を立てて笑った。 「大丈夫だよ!ほら、香夜。口あけて?」 「え?・・っ!」 手籠かとったヤマブドウの実を香夜の口の中へぽんと放り込むと、香夜が驚いたように目を丸くする。 その様が可愛くて、また笑いながら鈴懸はたくさんの収穫を入れた籠を背負うと言った。 「それは頑張ってくれた香夜へのお礼!さあ、そろそろ山を下ろう。日が落ちるからね。」 鈴懸の読み通り、山を降り里に出る頃には、あたりはすっかりあかね色に染まっていた。 「わあ、綺麗な夕焼け!」 田畑や民家を一面に赤く染める夕焼けに香夜が歓声を上げる。 鈴懸も連れだって歩きながらうなずいた。 「そうだね。こんな風に真っ赤になるんだ。」 「?鈴懸はこういう夕焼けは見たことはないの?」 初めてのようなため息をついたせいだろう。 香夜が不思議そうにのぞき込んでくるので、鈴懸はうん、と一つうなずいた。 「高尾の山からはたくさん夕焼けを見たけど、里で夕焼けを見ることはなかったから。」 「ああ、そうか。」 鈴懸の言葉に香夜が納得したようにうなずく。 今年の春、江戸の町へ出てくるまで鈴懸は高尾の山で暮らしていたのだ。 「里に来ることはなかったの?」 「全然なかったわけじゃないよ。着物を手に入れたり、お金の使い方を覚えたりするんで、マダラやハチモクと市へ降りたことはあったし。」 話しながら、鈴懸は懐かしい思い出をたどる。 「カルラはいずれ僕を人の世界に戻す気だったから、ちゃんと人の世の中のことも勉強できるようにしてくれたんだ。」 そのおかげで、江戸へ出てきても一応は基本的な生活で困ることはなかったのだから、養い親には感謝してもしきれない。 「最初に市に出た時は何もかも珍しかったな。」 「もしかして、それであっちの店、こっちの店ってのぞいているうちに迷子になったりしなかった?」 「えっ!?どうしてわかったの!?」 「やっぱり。」 くすくすと笑う香夜に見抜かれた鈴懸の方は目を丸くする。 彼女の言ったとおり、まだマダラやハチモクに手を引かれるぐらい小さかった時、最初に市に行って迷子になったから。 しかし何でばれたんだろうと思う鈴懸を見ながら香夜はこともなげに言った。 「鈴懸って好奇心がとても強いから。きっと子どもの頃からそうだったんじゃないかなって。」 「すごい!香夜、すごいよ!」 すごいすごい、と手放しに賞賛する鈴懸に、香夜はさすがに照れくさくなったのか、たいしたことじゃないわ、とさすがに苦笑する。 「それで、マダラとハチモクに怒られてしばらくは市はお預けになったとか?」 「うん!そうなんだ!もうマダラがものすごく怒ってさ。それから一年は里へ連れて行ってもらえなかったよ。」 今になって思えば、あの時のマダラの気持ちもよく分かる。 母のような姉のような存在だった妖孤は、養い子の姿が見えなくなってどれほど慌てただろうか。 (改めて今度謝っておかないとね。) あの頃は、興味津々だった人里へ連れて行ってもらえなくなって拗ねたりもしたが、思い返すとやっぱり申し訳なかったとも思うのだ。 「それから、何度か人里へ降りたりしたの?」 くすくすと笑っていた香夜が隣を歩きながらそう問うてくる。 なんとなく揺れている手籠の中のヤマブドウも、あかね色を帯びているような気がしながら鈴懸はうなずいた。 「うん。でもこんな夕焼けになるぐらいまでいたことは・・・・あ」 ない、と言おうとして鈴懸の脳裏にわずかばかりの記憶が引っかかった。 伸びる影法師、子どもたちの声、それから、目にしみるほどのあかね色・・・・。 「鈴懸?」 急に黙ってしまった鈴懸を不思議に思ったのか、香夜がのぞき込んでくる。 その黒曜石のような瞳が視線に入って、はっと我に返った鈴懸は淡く笑んで言った。 「一度だけあった。」 「え?」 「人里でこんな夕焼けを見たこと。まだ小さかった時だと思うんだけど」 ―― たぶん、幾度か人里に来た後で、人の世界というのがどうやら山の世界とは違うらしいと朧気ながら感じ始めた頃だったと思う。 その頃、それなりに成長をしていた鈴懸はマダラやハチモクに連れてきてもらわなくても、人里の近くまで降りられるまでになっていた。 もっとも普段は山に友達もやることもあったから、人里にわざわざ降りようという気もなかったのだが・・・・その時は、何故か不意に人里が見てみたい気分になったのだ。 夕暮れ時だったと思う。 夜の妖怪たちはまだ起きてきておらず、獣たちは巣へと帰ってわずかばかり高尾の山が静寂に包まれる時間だったからかもしれない。 なんとなく思うままに、鈴懸は一番近い人里へと足を向けた。 とはいえ、市が立っているわけでもない日に、見慣れぬ者がいれば目立つということは知っていたので、山際に建てられている神社の境内の木まで行ってみたのだ。 そこで・・・・。 「神社の境内では子どもたちが隠れん坊をしてたんだ。友達同士で。賑やかだったな。」 その時の光景を思い出しながら言うと、香夜が静かにうなずいた。 「私も昔は近所の友達とやったわ。」 「そうなんだ!僕も山ではやったことがあったんだけど、あんな風に社の陰とかお賽銭箱の後ろとかに隠れたことはなかったから、なんだか見ていて面白かったな。」 なんせ山のみんなと隠れん坊をすると、そんなところじゃすぐに見つかっちゃうからね、と言うと、香夜は目を丸くしてそれから笑った。 「そうなんだ。」 「うん。それでずっと見てたんだけどね、そのうち日が暮れてきて・・・・」 少しずつ境内があかね色に染まり出す。 夢中で遊んでいた子どもたちが、一人二人と足を止めて。 「こんな感じに真っ赤になる頃だったかな。」 目を細めて鈴懸は今、目の前に広がっている夕焼けの光景を見た。 そう、ちょうどこんな風に田畑もあかね色に染まって、遠くに見える民家から淡い紅色に染まった煙が出ていた。 「『もう帰らなくちゃ』って、子どもたちが境内から走り出したんだ。『うちへ帰らないと母さんに叱られる』って。それが、僕にはちょっと驚きだった。」 「え?」 鈴懸の言葉に香夜が首をかしげる。 それももっともだろう。 人ならば、ごく当たり前のことだから。 でも。 「妖怪はあまり家って考え方はないからね。」 もともと妖怪は個で存在するもので、家族を持つことは希だ。 「僕にとってカルラやマダラたちは家族だったけど、人のように同じ家に住んでみんなそこへ帰ってくるっていうような習慣はなかったから。」 だから、夕焼けの中、急ぎ足に子どもたちが帰って行くのがどこか不思議だった。 子ども心に彼らが帰って行く先には、何かとても暖かいものが待っているような気がしたのも。 (高尾の山で寂しい思いをしたことはあまりなかったけど、あの時だけはもしかしたら少し寂しかったのかな。) わずかに過ぎ去るような感傷だったかもしれない。 けれど、あの時夕暮れを見ながら感じたのは、自分が妖怪にも人にも入っていない曖昧なところに存在しているというかすかな寂しさだったのだろう。 そんなことをとりとめもなく思い出していたら、不意にぴたりと隣を歩いていた香夜が足を止めた。 「?どうしたの?」 急に視界の端から香夜の黒い髪が消えたことに驚いて自分も足を止め鈴懸は振り返る。 けれどわずかにうつむいているせいか、香夜の表情がよく見えなくて、鈴懸は少し戸惑った。 (どうしたんだろう?もう山は降りてきているから、足下は大丈夫だけど、もうすぐ暗くなっちゃうのに。) 実際、山から下りてきたばかりの頃よりあかね色は深みを増しているし、もう山の稜線に夕日がかかろうとしている。 「香夜?行かないの?」 もしかして急に具合でも悪くなったのだろうか、という心配も含めての問いかけだったが、その言葉を聞いた香夜はぱっと顔を上げたかと思うと、ぶんぶんと首を横に振った。 「違うよ、鈴懸。」 「え?」 「違うの。行こう、じゃなくて・・・・」 首をかしげる鈴懸に香夜はもどかしげに言うと、数歩の距離を縮めて隣へ戻ってくる。 そしてきょとんとしている鈴懸の手を取って。 「帰ろう、鈴懸。」 秋の深いあかね色に縁取られた笑顔が柔らかく胸を突いた。 「帰る・・・・」 「そうだよ。帰ろう、私たちの家へ。」 香夜の優しい声が心を震わせる。 それがどれほどか、きっと目の前の彼女はわかっていないに違いない、と鈴懸は少しおかしくなった。 (いつだってそうだよ。香夜は、僕の知らなかったこと、欲しがってたことを教えてくれる。) 今だってそうだ。 幼い頃にかすかに感じた寂しさのうちで、本当は自分がどれほど帰る家を欲していたのかを、たった一言で教えてくれた。 そして、それが今あることへの幸せも。 握られた手から感じる香夜の体温が、しみこんでくるように暖かくて嬉しい。 ああ、きっとあの時、朧気に帰って行く子どもたちの行く先に待っているであろうと想像していた暖かいものはこれだったのだろうと今ならわかる。 「・・・・そうだね。」 うなずいて、鈴懸は心の中からわき出してくる感情そのままに笑うと、ぎゅっと香夜の手を自分からも握った。 「そうだね。帰ろう、僕たちの家へ。」 口に出した言葉がくすぐったくて嬉しい。 そう思っていたら、香夜もまた嬉しそうににっこり笑ってくれた。 その笑顔があまりにも綺麗で可愛いから。 「ああ、もう!」 「え?・・・ひゃっ!?」 繋いだ手を軽く引っ張って、額に口づけると香夜が目を丸くする。 その頬が、沈んでゆく夕日に負けないぐらい赤く染まるのを見てこの上なく幸せそうに鈴懸は笑った。 夕暮れの畦道に落ちたしっかりと手を繋いだ影法師が帰路につくのは、もう少し後になりそうだ。 〜 終 〜 |