とある料理茶屋のそんな日常
ごんっ! 「あいたっ!」 (あ、またやってる。) 一日の営業を終えた店の片付けをしていた香夜は、店の奥から聞こえた鈍い音と小さな悲鳴に机を拭いていた手を止めて振り返った。 「大丈夫かい?九十九丸。」 「いやあ、面目ない。」 台所へ通じる入口のすだれ越しにそんな会話が聞こえて、香夜は手早く残っていた食器をまとめて持つと台所へと足を向けた。 そしてすだれを潜ってちょうど勝手口の前で頭を掻いている人物を見つける。 「店の方まで音が聞こえたよ?」 「なんと!それは恥ずかしいな。」 大丈夫?と確認するつもりで言ったのだが、一回目を見開いた後、九十九丸は言葉通り恥ずかしそうに苦笑した。 それがいかにも彼らしい仕草で、香夜もまた苦笑しつつ、流し台に食器を置いて九十九丸へ歩み寄った。 「もう、これで何度目?」 そう言いながら香夜は九十九丸の怪我の具合を見ようと見上げる。 ―― そう、今の九十九丸の額を見ようと思ったら、香夜は見上げなくてはならなくなった。 以前・・・・たった二月ほど前であったなら、九十九丸と香夜の背丈はとんとんだったから、見上げずとも確認出来ただろう。 けれど。 (今は、こんなに背も高くなっちゃったものね。) 思わずしみじみと香夜が見つめた九十九丸は、二月前のどこか少年の雰囲気を残す姿ではなく、しっかりとした一人前の青年だ。 もちろん、人間が雨後の竹の子のようににょきにょきと育つわけはないから、理由があるわけで。 この二月、二人が経験した事はまるでお伽噺のように信じられない事ばかりだった。 遠く恐ろしい存在であると思っていたマレビトが九十九丸の中にいると知った事。 そのマレビトに呑まれそうになる九十九丸の未来を探すために一緒に故郷の遠野へ向かった事。 そして常夜に下りかけて、それでもなお生きようともがき、現世へと戻って来た事。 (本当に、今考えると夢みたい。) それぐらいとんでもない状況を切り抜けて、現世で生きていく体を手に入れた九十九丸は、伸びた。 本来の年齢に追いつくようにあっという間に一人の青年の姿へと変わったのだ。 それはもう、旅から帰ってきて周囲の人間に説明するのが大変だったほどの変わりようだった。 そして周囲の人への説明以上に大変だったのが、九十九丸自身の慣れの問題だった。 成長期などを経て大きくなるのなら、次第に自分の大きさになれていくものだろうが、一夜で三寸以上も体が大きくなったのだから、慣れる所の話ではない。 特に、二月前まで働いていた香夜の家へ帰って来てから、つい以前の調子で低めの鴨居をそのまま通り抜けようとして頭をぶつけるなどざらだ。 特に、今夜もぶつかった勝手口は鬼門らしい。 「いや、その・・・・何度目だったかな。」 自分でもバツが悪いのだろう。 目を反らし気味にしてははは、とから笑いをする九十九丸に香夜も小さくため息をついた。 「なかなか慣れないものなのね。」 「面目ない。」 しゅん、として頭を下げる仕草は二月前と何ら変わらなくて、つい笑ってしまいそうになった香夜だが、その時、ちらりと前髪の間から見えたおでこに赤い物が見えて目を瞠った。 「九十九丸!怪我してるじゃない!」 「え?ああ、ぶつけた時に切れたか。」 「切れたか、じゃないでしょ!父様、ちょっと手当してきていい?」 そんなたいしたことじゃない、と慌てる九十九丸はさくっと無視してしっかりと彼の腕を捕まえると、香夜は事の成り行きを見守っていた父の方へ振り返った。 それに対して微笑ましそうに目を細めて父は言った。 「どうせ後は片付けだけだ。二人とも、もう休んでかまわないよ。」 「旦那さん、それは・・・・」 「いいから。九十九丸は働き者で助かるが、たまにはちゃんと夫婦の時間をとらないと、香夜に怒られてしまうよ?」 「「!」」 にっこりと冗談とも忠告ともつかない事を言われて香夜と九十九丸は思わず顔を見合わせる。 「と、とにかく傷の手当てをしに行きましょう!」 ものすごくいたたまれない空気に、香夜は急かすように九十九丸の腕を引っ張る。 さすがにこの空気には負けたのか、九十九丸もやや赤くなった頬で「ああ」と頷くと、香夜に引っ張られるようにして母屋へと足を動かしたのだった。 「・・・・もう、父様ったらからかって。」 祝言を挙げて以後、九十九丸と香夜の部屋となっている部屋へ戻ってきたところで、香夜は思わずそう呟いた。 ぷう、と頬でも膨らましそうな勢いの香夜に、九十九丸は口角を上げて答える。 「心配してくれているんだ、きっと。」 「それは、そうなんでしょうけど。」 (確かに九十九丸は毎日遅くまで料理の練習や、味の研究なんかもしているものね。) 遠野から帰って、香夜と夫婦になってから、九十九丸は本格的にこの店を継ぐべく修行を始めた。 そして剣の道を究めんとしていた時から薄々感じてはいたが、九十九丸は一つのことをやり始めると、かなり没頭する質らしく、料理人修行もかなりのめり込んでやっているのだ。 もちろん、香夜だって店を継ぐために九十九丸が頑張ってくれているのは嬉しいのだが、二人の時間が取れていないことは確かだった。 (・・・・ちょっと寂しいって思っていたのが、父様にばれていたみたいで恥ずかしい。) なんて、口に出して言えるわけがないので、香夜は思考を切り替えるように首を振って九十九丸を振り返った。 「とにかく手当をするから、そこに座って?」 「あ、すまない。」 香夜に言われて九十九丸がちょこんと座敷の真ん中に座る。 体つきが大きくなっても、その姿は大人しい犬のようでくすりと笑みがこぼれる。 「香夜?」 「なんでもない。」 (ちょっと可愛い、なんて言ったら九十九丸、困っちゃいそうだし。) そんなことを考えながら香夜は引き出しから傷薬を取り出すと、九十九丸の前に膝立ちで座った。 相変わらず大人しく座っている九十九丸の前髪を少し避けてみれば、額にすり傷が出来ている。 「やっぱり傷が出来てる。」 「あー・・・・思い切りぶつけたからな。あの勝手口、前は真っ直ぐ通れたから荷物を運んでいたりすると、つい高さを忘れてしまうんだ。」 実は、さっきぶつかった時はちょっと目の前に星が散った、と苦く笑う九十九丸に、その時の様子を思わず想像して香夜も笑ってしまう。 (きっと本当に真っ直ぐ進んで、ごんってぶつかったんだろうな。) 「刀を持たせれば田宮流居合いの使い手なのに、勝手口の鴨居は避けられないのね。」 「うーん、そうなんだよなあ。」 香夜の冗談に真面目に九十九丸が眉を寄せるから、香夜は余計に笑ってしまった。 「まだ体の大きさになれてないのよ。さあ、薬を塗るからちょっと我慢してね。」 「はい。」 笑いを納めてそう言うと、香夜は傷薬を少し指に取って九十九丸の額の傷へ塗ってやった。 幸い深い傷でもなく、ちょっと薬を塗っただけで手当は終わって、見ると、さすがに擦り傷切り傷には慣れているのか、九十九丸は同時もせずじっと座っていた。 おでこが見える距離にいるから、ほとんど正面からその九十九丸を見るような形になっていることに気が付いて、香夜はふと手を止める。 (なんだか、こんな風に正面から顔を見るのは久しぶりな気分。) 顔立ちは二十歳らしく精悍に変わってはいるが、二月ほど前はこの距離が普通だったのだ。 香夜がちょっと懐かしいようなくすぐったいような気分になっていると、どうしたんだろうというように九十九丸が首をかしげる。 二十歳の男がするには可愛らしすぎる仕草な気がするが、九十九丸には妙に似合っていて反射的に香夜の胸がきゅんっとなった。 (ず、ずるいわ・・・・男の人のくせに。) 妙な敗北感に襲われた香夜だったが、不思議そうにするものの香夜に言われた通り座ったままで大人しくしている九十九丸にちょっと悪戯心を誘われた。 「・・・・・」 「?」 じいっと見つめる香夜に目をぱちくりさせる九十九丸。 それを見ていた香夜は、おもむろに膝立ちのまま、九十九丸の肩に手をかけると体を前へ倒して。 ―― ちゅっ。 「!!!か、香夜!?」 傷のある場所を避けて口付けを額に落とした途端、驚いたように九十九丸が目を見開いた。 (・・・・そうよね、驚くわよね。普段はこんなことしないし・・・・) まん丸く見開かれた黒目がちの目に見つめられて、ジワジワと自分の頬が熱くなっていくのを香夜は感じた。 けれどそれ以上に。 「九十九丸・・・・真っ赤よ?」 「!そ、それはっ・・・・!」 香夜の意地悪な指摘にあわあわする九十九丸の顔は、見事に耳まで真っ赤に染まっていた。 夫婦なんだから、そんな大層なことをしたわけでもない。 それどころか、九十九丸から額に口付けられることなど最早日常茶飯事だ。 だというのに、香夜から口付けをしただけで、これほど動揺してくれるとは思わなかった。 「ふふっ」 「わ、笑わないでくれ・・・・」 悪戯が成功したような気分で思わず笑い声を零すと、九十九丸が赤い顔のまま困ったように呻く。 それさえもおかしくて、くすくすと笑う事を止められずにいると、ふいに九十九丸の手が伸びてきて。 「きゃっ!」 急に引っ張られたと思ったら、あっという間に香夜は九十九丸の腕の中へ転がり込んでいた。 「・・・・本当に、意地悪なお嬢さんだ。」 そうして渋い声で囁かれるかつての呼称は、ちょっぴり危険な色を帯びているような気がして、思わず香夜が顔を上げた瞬間、狙っていたように唇がふさがれる。 「ん、・・・・」 一瞬だけ重なった唇が離れて目が合った先にあったのは、かつては見せなかった、熱っぽい青年の眼差しで、どきん、と大きく香夜の心臓が跳ねた。 「九十九丸・・・・」 自然と口から零れ落ちた彼の名が、やはり僅かに熱を帯びている気がして香夜は恥ずかしくなる。 けれど、その声は九十九丸にとっては嬉しかったようで、愛おしそうに目を細めるとお返しとばかりに香夜の額に口付ける。 そして、にっこりと笑うと言った。 「旦那さんの言う通り、夫婦の時間はちゃんと取るべきだな。・・・・さっきは驚いたが、香夜が口付けてくれるなら額に傷を作るのも悪くない。」 「もう・・・・」 開き直った九十九丸の言いぐさに香夜は形ばかり眉をしかめて。 「怪我なんかしないで。・・・・傷がなくったって、時々なら口付けぐらいするから。」 後半はさすがに恥ずかしいから小さな声で。 けれどそれを聞いた瞬間、九十九丸がぱあっと嬉しそうに笑うから。 ―― まあ、いいか、と思ってしまう自分に苦笑しながら、香夜は降ってくる九十九丸の甘い甘い口付けを受け止めたのだった。 〜 終 〜 |