信頼と愛情の弊害
朝靄の蓮台野で、生きて常夜から帰ってきたのだと実感できるまで、互いを抱きしめていた九十九丸と香夜が、やっと立ち上がる気になったのは、もう朝日が完全に登り切った後だった。 それでも繋いだ手を離す気にはならなくて、手を繋いだまま師匠の家へ戻った二人に、師匠はものすごく驚いた顔をしたものの、二人から事情を聞いて、とても喜んでくれた。 『よく帰ってきた。よく連れ戻してくれた。』 そう言って二人で抱きしめられて、嬉しさとくすぐったさに顔を見合わせて二人も笑った。 しかし人の身になったとはいえ、九十九丸が禁呪で蘇った事実は変わらない。 事の顛末はいずれ心配してくれているであろう人達に文を書く、と言うことにして九十九丸と香夜の選択は決まった。 江戸へ帰ろう。 朝靄の蓮台野で約束した言葉通り、九十九丸と香夜は師匠の家の掃除をすませ、荷物をまとめると、早々に江戸へと奥州街道を旅だった。 それは、来た時とはまるで違う、明るく楽しい旅立ちだった。 ―― が。 (な・・・・なんで、こんな事になってるんだ。) 遠野を発って最初の宿場町の小さな宿屋の一室で、九十九丸は内心頭を抱えていた。 さて、なんで幸せなはずの道行きの最初の最初から九十九丸が頭を抱えているかというと、原因は目の前にしかれた二組の布団だったりする。 「い、いや、一組だったらもっとまずい・・・・って、俺は何をっ!」 あああ、ととうとう実際に頭を抱えるその様は、はっきり言ってちょっと人には見られたくない。 幸い、この部屋のもう一人の客である香夜は今、風呂に入りに行っているので不在だ。 ・・・・そう、実はこの部屋は九十九丸一人に割り当てられた部屋ではなく、香夜と九十九丸のための部屋なのだ。 一応、九十九丸の名誉のために言っておくと、この宿場に入って宿を取ろうという話になった時に、彼は二部屋取ることを提案した。 しかし。 (・・・・お嬢さんが、あんな心細そうな顔をするのは初めて見たかも知れない。) ふと、この状況の発端を思い出していた九十九丸は、その時の事を思い出して眉を寄せた。 二部屋取ればいいか、と確認した九十九丸に対して、香夜は「え・・・・」と表情を揺らしたのだ。 どうしたのだろうと首をかしげる九十九丸に、香夜は少し躊躇った後、ちょん、と九十九丸の袂を握って、小さな声で言ったのだ。 『一緒じゃ、だめ?』 (―― 多分、あの時点で八割方勝敗は決していたな。) 死の淵からも生還しても共にいたかった愛しい人の不安げなお願い・・・・断れる男がいたら正直おかしいと思う。 おまけに、さすがに恥ずかしかったのか慌てて香夜は言ったのだ。 『ご、ごめんね。その・・・・夜寝てて、知らない間に九十九丸が蓮台野へ行ってしまったから。もちろん、もう大丈夫ってわかってるんだけど、ちょっと不安で・・・・。』 信じてない訳じゃないんだけど、ごめんなさい、と頼りなげに謝る香夜の姿に、九十九丸は胸が痛んだ。 いつもしっかり者のの香夜がこんな事を口に出すほど、自分は彼女に心配をかけたのだ、と。 申し訳なさと同時に、そこまで香夜が自分を想ってくれていると伝わってきて嬉しくもなる。 『だからね、できれば側にいて欲しいの。』 (・・・・やはり、あそこでダメだと押し切る事はできなかったよな。) はああ、と回想を終了して九十九丸は大きくため息をついた。 本当は断るべきだったのかも知れない。 蓮台野で互いの思いを確かめ合ったとはいえ、九十九丸と香夜はまだ夫婦でもなんでもないのだから。 けれど、あそこまで想ってもらって、願われたら無碍になどできるはずもない。 宿を取る時に一部屋と頼んだら夫婦と間違われて二人であわあわしたりしたことも、かなり恥ずかしかったけれど悪くはなかった。 二人で膝をつき合わせて夕食を食べて他愛ない話をして。 本当に他人から見たらささやかすぎることが、何もかもくすぐったくて嬉しかった。 ・・・・と、まあ、ここまではよかったのだが、実際に九十九丸が一緒の部屋に香夜がいるという事に慌て始めたのは、布団が敷かれてからだった。 夕食も済んでやってきた仲居は、最初に頼んだとおり布団は二組しいてくれた。 が、当たり前だが二組隣同士である。 (こ、この距離で、香夜が眠るのか?) いや、そりゃ眠るだろ。 どこかから、そんな呆れた突っ込みが入りそうなほど当たり前だが、香夜が眠る予定の布団は、九十九丸が手を伸ばせば簡単に届いてしまう距離だ。 (お嬢さんが・・・・) 不意に、東海道中の時に見てしまった白い夜着姿の香夜がちらついてどきんっと鼓動が跳ね上がった。 「な、な、な、何を考えているんだ!俺はっっ!」 慌てて自分の想像を打ち消そうと思わず声を上げた瞬間。 「・・・・九十九丸?どうかしたの?」 「うわああっ!?」 からっと襖が開く音と同時に、ものすごく怪訝そうな声が聞こえて九十九丸は文字通り飛び上がった。 「お、お、お嬢さん!?」 ど、ど、ど、ど、っと全身に鳴り響いているのではないかと思う脈打っている心臓を思わず押さえて振り返ると、部屋に入ってきた香夜が驚いたように目を丸くしていた。 「えっと、何かあった?」 「い、いやいやいや!何でもない!」 「それならいいんだけど・・・・。」 心配そうに見つめられて、心臓がまた妙な方向に鳴った。 (うう、多分香夜は純粋に俺の心配をしてくれているんだろうな。) なにせ、九十九丸はこの世に再び戻ってきてたった数日だ。 それまでいつマレビトに飲み込まれてもおかしくないような状況だったのだから、ちょっとしたことで香夜が何かあったのではないかと心配するのも道理だろう。 だからこそ。 (・・・・絶対言えん。) まさか二組の布団を前に懊悩していたなど、言えようはずもない。 そんな確固たる決意を九十九丸が固めた事が伝わったわけではないだろうが、香夜はそれ以上聞き出すことは諦めたのか、手ぬぐいで髪をぬぐいながら、丹前を脱ぐ。 するり、と丹前が滑って白い夜着を纏った肩が現れるのを、半ば呆然と九十九丸は見つめてしまった。 いつぞや見た時のように上等な白の夜着ではないが、あの時とは比べものにならないぐらい、黒い髪が滑る香夜の肩は細く美しく見えた。 どきん、とまた鼓動が跳ねる。 「?九十九丸?」 「あ、ああ!」 と、視線を感じたのだろう。 香夜が振り返って、九十九丸はまたも慌てて返事を返す羽目になった。 (あああ、もう、俺は本当に何をやってるんだ。) せっかく悩みだった体も二十歳に相応しいものになったのに、余裕の欠片もない自分が情けなくなっていると、くすっと小さく笑う声がした。 一瞬笑われたのかと顔を上げると、行灯の光に照らされた香夜はどこか嬉しそうに笑っていて。 「お嬢さん?」 「あ、ごめん。ちょっと嬉しくて。」 「?」 「だって九十九丸、急に大きくなっちゃったじゃない?」 そう問われて頷いた。 確かに数日前の九十九丸は十五で時を止めた姿だったのだから、一気に五年分成長したようなものだ。 「だからね」と、言葉を切って香夜は少しはにかんだように笑った。 「本当はちょっと緊張してたの。でも、そうやってると九十九丸ま九十九丸だなあって思えて少しほっとしたかも。」 「それは・・・・」 (喜ぶべき、なのか?) 真面目に反応に困った。 確かに香夜に警戒されるのも嫌だが、十五歳と二十歳では確かに違っているのを九十九丸自身感じているからだ。 実際 ―― 多分、十五歳の体なら、ここまでこの状況に困ってはいないだろう。 しかし、そんな事はもちろん口に出せるはずもなく。 「明日も早いし、もう寝ましょうか。」 そう言って微笑んだ香夜は、何の疑いも持っていないように、一つの布団に寝転がる。 「あ、ああ・・・・」 その動きに促されるように九十九丸も隣の布団に入る、が。 (っ、近い・・・・!) 実際に寝っ転がってみると、悶々と悩んでいた時以上に隣の布団が近かった。 さらにその上。 (風呂上がりの香夜の匂いもする気がする・・・・っ) 男の自分が持ち得ない、柔らかい匂いをかいだ気がして妙に頭がくらくらした。 けれど幸か不幸か香夜にはそんな動揺は伝わらなかったらしく、「明かり消すね」という小さな声と共にふっと部屋が闇に包まれた。 (もうこれは早く寝るしかない。) すごく無理そうだけど、と思いつつ九十九丸は少しでも気を紛らわせるために香夜に背を向けた。 これで少しは・・・・と思ったのも束の間。 「ね・・・・」 静寂に香夜の声がぽつんと響いて、どきっと鼓動が跳ねた。 答えるべきか寝ているふりをすべきか迷っていると、香夜の方でもう九十九丸が寝てしまったものと判断したのか、小さく息を吐く音がして。 「―― 生きててくれてありがとう・・・・大好き。」 伝えるというほどの意志も持たず、ただ囁かれただけの言葉に、ぎゅうっと心臓を捕まれたような衝撃を受ける。 (香夜・・・・っ) 愛しさが衝動的に駆け抜けた。 ありがとうと伝えたいのも、大好きも、自分の方なのだ。 そして振り返れば、手を伸ばして抱きしめる事もできる距離に香夜がいる。 (〜〜〜、やっぱり無理だっ!) 愛しい、抱きしめたい、口付けたい。 今までなら不完全な己の存在が枷になって伸ばせなかった手を今なら伸ばせる。 その衝動に勝てずに、九十九丸はとうとう振り返って。 「香・・・・!」 「・・・すーーーー・・・・」 「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」 伸ばしかかった腕の先には、安らかに寝息を立てる香夜の姿があった。 「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・はあ。」 深く零れるため息は落胆か、安堵か。 どちらかは深く考えない事にして、九十九丸は香夜の寝顔に目を細めた。 「・・・・本当に、香夜にはかなわないな。」 それも道理か、と苦笑を一つ。 なにせ、自分を現世へ引き戻してくれた誰よりも愛しい人なのだから。 だから。 (寝不足ぐらい、我慢しよう。) 安心しきったような寝顔で吐息を零す唇を、今すぐ塞ぎたくなる衝動を抑え込む覚悟を決めて、九十九丸は布団に潜り込んだのだった。 ―― 九十九丸、二十歳。現世に戻って最初の試練が理性と煩悩の戦いだったことは、一生涯の秘密である。 〜 終 〜 |