しかめっ面の恋
―― 思えば、彼は出会った時からしかめっ面ばっかりだった。 東海道の偽花嫁行列を勤めた時、薄闇の江戸城を出て最初に顔を合わせた護衛と言われたお侍様達の中で、彼だけが酷くしかめっ面だったのを良く覚えてる。 黒羽様や、半蔵さんも笑いはしなかったけど。 でも彼みたいに、あからさまに不機嫌そうな様子はなかったし、どちらかと言えば慣れぬ事をする私を気遣ってくださる余裕を感じた。 なのに、あの人ときたら・・・・。 『足手まといにだけはなるなよ』 ・・・・今考えてもあれはちょっと酷かったんじゃないかと思う。 って、後で密に抗議したら、あの時はお里さん達の借金のことで頭がいっぱいで、気を回す余裕なんかなかったんだって慌てたように言い訳されたけれど。 そんなわけで、彼の印象たるや、私にとっては決して良いとは言えない・・・・むしろ悪い方だったと思う。 九十九丸さんや鈴懸さんが優しく話しかけてくれるのに、やけにいらいらしては怒ってばかりで。 それなのに、ちょっとした瞬間に手をさしのべてくれるんだもの。 厳しい事を言いながら、それでも誰よりも生真面目に稽古を欠かさず、偽花嫁の私を守るために気を張っていてくれた。 シグラギに攫われてしまった時も真っ先に駆けつけて、痛めつけられた私のために怒ってくれた。 正直に言えば、優しいのか怖いのかわからない人って思っていたんだと思う。 ああ、こないだそんな事を話したら、不機嫌になっちゃって大変だったんだよね。 俺より九十九丸や鈴懸のが良かったのかよ、だって。 ・・・・偽の花嫁をやってる時だったらそう答えたかも。 もちろん、そんなことは言わなかったけど。 でも、そのぐらいあの緊張した状態ではあの人のしかめっ面って怖かったし・・・・。 考えてみたら、いつから変わってたのかな? 江戸に無事に帰ってきて、日常に戻って、それっきり偽花嫁の事は思い出になっていくものだって思っていたとこで、彼と偶然再会して。 その後も喧嘩やすれ違いばっかりだったよね。 だって彼はとにかく言葉が足りなくて。 人の心配したり、面倒見がよかったりするくせに、そういう気持ちを上手く言葉に出せないんだって気がつくまで随分かかっちゃった。 だから、その間は喧嘩ばっかり。 謝ったと思ったらまた言い争いになったりして・・・・本当に、なんであの人とばっかりこうなっちゃうんだろうって思っていた気がする。 ・・・・でも、多分その頃から。 喧嘩して怒らせたり怒ったりしても、やっぱりどこか気になって、なんとか仲直りしたいって思うようになってた。 相変わらずしかめっ面ばかりのあの人の、他の表情を見てみたいって、思い始めてたのかもしれない。 矢ノ彦やかむろに見せたみたいな面倒見のいいお兄さんみたいな顔とか、ちょっと照れくさそうな顔とか、そういう表情を私にも向けてくれないかなって・・・・。 不機嫌そうにこっちを見る顔ばっかり記憶に残ってて、そうじゃない顔が見てみたいって思うようになったんだと思う。 ―― だから、初めて私に笑いかけてくれた時には、とっても嬉しかった。 自分でもなんでこんなに嬉しいのかわからないぐらい嬉しくて・・・・。 多分、きっとその頃にはもう、恋をしてたんだと思う。 それから、貴方の隠してる事や苦しかった過去の事も知って、胸が痛くなるような御前試合を戦い抜いて。 気持ちが通じたのだって奇跡みたいだった。 そうやって辛い時や悲しい時も一緒に乗り越えていく内に、あなたは随分変わったと思う。 うん、変わった。 しかめっ面ばっかりだった貴方の記憶は、あっという間にいろんな貴方の表情であふれかえった。 拗ねた顔、落ち込んだ顔、楽しそうな顔、悪戯っぽい顔・・・・でもね。 それはずるい、っていつもいつも思う ―― 「香夜」 少しかすれた、どこか切実な声が紡いだ自分の名に香夜はうっと息を詰めた。 上からのぞき込む金の光彩を持つ瞳に吸い込まれるような錯覚を覚えて、香夜は声にならない声で呻いた。 「け、螢・・・・その、見回りの途中じゃなかったの?」 思わず流されてしまいそうになる自分も現実に引き戻すように、ついさっきの螢の様子から推測した現実的な事を言ってみる。 そう、ほんの僅か前に店の前を掃除している最中に螢を見付けた時、彼はまさにどこかへ向かっている最中のように見えた。 (時間的にはお奉行所へ向かっている頃だったよね。) なんとか螢の視線から逃れようと、ちらっと走らせた路地の向こうに見える通りに降り注ぐ光は、午後の日差しに違いなく、その時分、十手持ちの彼はいつも奉行所へ報告へ行くはずだ。 しかし逃げかかった香夜の視線は、残念ながら逃げ損ねた。 というのも、螢がその頬へ無造作に手を伸ばすと、自分の方へと向けさせたからだ。 「っ!」 再び金色の視線にさらされて、香夜の鼓動がどきんっと跳ね上がった。 そう、視線一つで鼓動を跳ね上がらせるだけの熱が、そこにはあった。 「見回りは終わったよ。これから報告も行く。けど」 そこで言葉を切って、半歩螢が香夜へ近づく。 それに押されるように半歩下がると、とん、と背が板塀についた。 「け・・・・」 螢と名を呼ぶ前に、逃がさないとばかりに囲むように板塀に手を付かれる。 触れているわけでもないのに、視界の端に映る褐色の肌から熱を感じたような気がして、香夜の鼓動は加速するばかりだ。 「螢、こ、ここ、路地だから・・・・」 「知ってる。」 「そこ、家、だし・・・・」 「ああ。」 「その、誰か来ちゃう、かも・・・・」 「別にかまわねえだろ。」 (わあ、これはダメかも。) 最後の返事に、香夜はかなりこのまま解放される可能性が低い事を悟った。 普段の照れ屋な螢なら、こんな場面を人に見られるのは絶対にごめんだと思うはずだから。 (構わないことは構わないんだけど。) なんせ、螢と香夜は先日めでたく夫婦になる約束をした恋仲同士だ。 正式な婚儀がまだとはいえ、誰はばかる関係ではない・・・・が、しかし、真っ昼間から路地裏に引っ張り込まれているというこの状況はいかがなものか。 そもそも、香夜は螢に声をかけた時、こんな状況になるなんて想像もしていなかったのだ。 (ただ・・・・最近、ちょっと会えなかったから、姿が見えて嬉しくなって) 店の前を掃除しようと外へ出た時、螢の姿が見えて、それで嬉しくなって声を掛けた、ただそれだけだった。 なのに、螢は香夜の声に振り返った途端、目を丸くして・・・・早足に近づいてきたと思ったら、あっという間に店の横の路地へ引っ張り込まれて、今の状態なのだ。 久しぶりの螢の匂いとぬくもりにくわえて、誰かに見られるかもという不安で心臓はもはや限界を訴えている。 さて、これは本気で螢を引き離すべきか・・・・と香夜が悩んだ刹那。 「おい」 「え・・・っ!」 やや焦れたような声に無防備に顔を上げた瞬間、額にぬくもりが降ってきた。 それが螢の唇だと気づいたと同時に、両頬が螢の掌に包まれる。 「け、螢っ」 「なんだよ、嫌かよ。」 「そ、そうじゃないけどっ」 ちょっと拗ねたような顔に、わけもなく香夜は動揺した。 嫌なわけはない。 ただちょっと心臓が危機的状況なだけで。 けれど、その返事に螢は僅かほっとしたような顔をすると、ならば遠慮無くと言わんばかりに米神へと唇を落とした。 「ひゃっ!」 「ん・・・」 「ちょ、ちょっと螢!くすぐった、・・・っ!」 抗議しようとした唇に軽く口付けを落とされて、出しかけた言葉はあっさり霧散してしまう。 そして触れるだけで唇をはなした螢は、くてんと寄りかかるように香夜の肩へ頭を乗せてしまった。 「え?ど、どうしたの?」 「・・・・わりい。」 驚いて持てあましていた手で螢の背中をぽんぽんと叩くと、耳元で小さく声がした。 なんで謝ってるんだろうと首をかしげていると、ぼそぼそと螢がそのまましゃべる気配がして。 「・・・・お前が」 「?」 「ここんとこ、江戸へ出てきた鬼連中の面倒やなんかでお前の顔みられなかっただろ。」 「うん。」 御前試合で一番刀となり、人と鬼を繋ぐと宣言した事で螢は今まで隠れ住んでいた鬼達に頼りにされる存在となり、一気に忙しくなっていた。 それが原因で、距離ができてしまった二人を、東海道の仲間達や周囲の人達が一芝居打って夫婦の約束をさせてくれたのはまだ記憶に新しい。 それにくわえて最近は。 「俺も・・・・お前と所帯を持つからには、もっと頑張って認めてもらおうって思ってたからさ。」 「うん、知ってる。」 今までは奉行所のお手伝いの十手持ちだった螢だが、一番刀となり人と鬼の間に立つ存在としても重要になった螢に新しい仕事や立場を与えようとする動きがあると香夜も知っていた。 螢がそれを得ようとする理由の一つに、香夜があることも。 (だから、少し寂しくても頑張ろうって思ってた。) 会えない日が寂しくないわけではないけれど、きちんと約束をしたせいか前のように不安になることは少なくなっていたから。 しかし、そう思った香夜の耳元で、「でも」と小さな声がして、ぎゅっと抱きしめられた。 「・・・・ちょっと、お前が足んなくて、限界が来てたんだよ。」 「え?」 「会いてえな、とか、抱きしめたいな、とか、気を抜くと考えてて・・・・そしたら、さっきお前が急に声を掛けてきて笑うから。」 我慢とか無理だろ、と本当に囁くような声で紡がれた言葉に、香夜は自分の耳が赤くなっていくのを自覚した。 (それって、私が会いたかったみたいに、螢も会いたいってずっと思っててくれたって事よね。) ドキドキと耳元でまで聞こえる心音に言葉を失っていると、少し腕をゆるめて螢がのぞき込んできた。 「・・・・何、赤くなってんだよ。」 「なるよ!け、螢だって赤いんだから。」 「まあ、そりゃ・・・・」 指摘されて誤魔化しまぎれに言い返したのに、螢は少し困ったように眉を寄せた。 その目元が照れくさそうに赤く染まっているのが、香夜にはまた心臓に悪い。 (前だったら絶対怒ってるみたいに言い返してきたのに。) ―― ほら、変わった。 頭のどこかで声がする。 いつの間にか、怖かったはずのしかめっ面も、怒る声もなりを潜めて、代わりに。 「ほんとに会いたかったんだよ。だから、ちょっと強引な事しちまったけど。」 ばつが悪そうに頭を掻く照れた顔は、香夜の心を甘く締め付けるばかり。 「・・・・もう、ずるい。」 「ん?」 「そんな風に言われたら・・・・だめって言えない。」 普段、どちらかというと気の強いほうで、物事きっぱい言う香夜とは思えないほど、蚊の泣くような恥ずかしげな声。 けれど、それを捕まえた瞬間。 ―― 雲間からお日様が顔を出したように螢が笑う。 (―― ・・・・ずるい。) しかめっ面ばっかりだった頃には見せてくれなかった、それどこか、他の誰にも見せているのを見たことがない、この笑顔。 いやがおうにも気を許しているとわかってしまうこの笑顔が。 (ずるい・・・・けど、大好き。) 「香夜。」 幾分か甘さを含んだ声に名前を呼ばれて、顎を持ち上げられる。 (これから、ずっと一緒にいたら、もっと見たことのない顔が見られるのかな。) そんなことを思っていたら、余所見をするなとばかりにこつんと額をぶつけられた。 見上げれば、焦点が合わないほどの近さに、どこか焦燥を湛えた熱い金色が目に入る。 ―― ほら、また一つ。 新しい初めて見る顔が心に中に転がり込んで、鼓動が幸せな音を奏でる。 目をつむってしまうのがもったいない、なんて考えていた香夜は知らない。 ―― 香夜の唇が描いた、初めて見る嬉しそうな微笑みを、そのまま自分のものにしてしまいたい衝動に、螢がその柔らかい唇を奪ったことを。 しかめっ面から始まった恋の、幸福な結末のお話。 〜 終 〜 |