季節忘れ、恋の中
剣取り五剣祭が終わると、江戸は夏の様相に変わる。 店の使いをするために通りを歩いていた香夜は、金魚売りや気の早い氷売りの声を聞いて、ああ、と空を仰いだ。 (そう言えばもう文月なんだ。) 剣取り五剣祭の時期は江戸に来る人も増えて、料理茶屋をやっている香夜の家も忙しくなるのは常だったが、今年はそれ以上に色々な事があったせいか、春を一足飛びに飛び越えてしまったような気分だ。 (・・・・本当に、色々あったから。) 事の起こりは冬の終わり。 上様の妹御にうり二つだとかいう理由で、東海道の花嫁行列の替え玉をやることになった事から始まっている。 もちろん、それだけだって早々在る事ではないのだが、それに加えて、香夜はその花嫁行列で一人の侍に出会ってしまった。 縁 ―― 最初に出会った時から軽口上等のつかみ所のない青年。 (最初は本当に不思議な人だったものね。) 通りを行き交う人の間を抜けながら、香夜は抱えた風呂敷包みの影でくすっと笑った。 個性豊かな偽花嫁行列の護衛の中でも、飛び抜けてちゃらんぽらんで・・・・と見せかけて、上手い事、気を張りがちな一行を和ませてくれていた縁の姿は、最初は香夜の目には面白い人と映ったものだ。 しかし、本来なら偽花嫁行列の終わりとともに、二度と会う事はないはずだった彼に江戸に戻ってきて再会したのは偶然だった。 再会は偶然・・・・だったけれど、その後は店に入り浸られたり、不意打ちで口説かれたり、かと思えば他の女性と親しくしている姿を見せられたり。 (・・・・考えてみると散々だわ。) 微笑みが苦笑に変わるぐらいには、縁に振り回された事を思い出す。 一見、中味などないように振る舞う縁の言葉を、真意を、掴むことが出来ずに、それでも時折見せる寂しそうな笑みに気が付けば惹かれていった事を。 (質の悪い人。) 面白い人の次の印象がこれなのだから、どうなのかと思う。 けれど、そうとしか言いようがなかったのだ。 明かせない秘密を沢山抱えていたくせに、香夜に向けてくる気持ちだけは本物のようで、けれど、その気持ちを信じようとすれば、明かせない秘密が疑いの幕を掛けてしまう。 かといって、本当の事を明かされた時には、絶望的な身分差に目の前が真っ暗になった。 現将軍の義理の息子、松平信春。 それがつかみ所のない浪人、縁の中味だった。 からころと下駄を鳴らしていた香夜は、ふと足を止めて通りの先に目をやる。 すると江戸の町にあって、どこからでも見える白漆喰に重厚な黒瓦の天守閣が目に入った。 そう、今、日の本で最高の地位にある徳川家光の居城である江戸城が、あの縁の住まいだったのだ。 もっとも ―― 縁が本当に質が悪かったのは、それを知った後からだった。 (ただ身分を隠して町娘をからかっていた、とかなら私だってあっさり諦めもついたのに・・・・) 本当の身分を明かして、本当の気持ちを明かしてきた縁は、距離を開けようとする香夜に必死に追いすがってきた。 城に居る事が苦しい事、背負っている使命が果たせない己に苛立っている事、打ち明けられる縁の心の内は、本当は意外と真面目で人の事を良く考えている縁にとってはどれほど辛かっただろうかと簡単に想像出来てしまって、香夜の心を揺さぶった。 どうせ届くはずのない身分の人、と思う反面で、この優しくて脆い人を支えてあげたいと思う気持ちが育っていくのを止められなかった。 どんなに思っても絶望的な恋、そう思っていたけれど・・・・。 「―― あ、」 春を飛び越えてしまった経緯を思い出しながら歩いていた香夜は、人混みの向こうに、その『原因』の姿を見つけて思わず小さな声を上げた。 相変わらず遊び人風の縁の姿は、人の多い江戸でも良く目立つ。 一間ほど先にいるので縁は香夜に気が付いた様子はなく、路地に体を入れて、誰かと話している風だ。 (お役目中かな?) 香夜がそう思った『お役目』とは、かつて彼が背負い、彼を苦しめていたそれではない。 春も終わりに、腰に刷いていた三日月宗近と共に『お役目』にそれなりの決着を付けてきたと言った縁は、今は何故か螢の家に転がり込んで、御用聞きのようなことをしている。 奉行所の金四郎などは縁の本当の身分を知らないので、結構いいように使われているらしい。 最初は縁が何を考えているのかわからず戸惑った香夜だが、螢のお小言もどこ吹く風で御用聞きの仕事をしている縁が、以前よりもすっきりした顔をしているのを見て、これでよかったのだろうと思えるようになった。 そうして春とともに、困難山積みだった恋はやっと小さな華を咲かせたばかりなのだ。 そんな相手の姿を見れば、仕事中とわかっていても心が躍ってしまうのが恋する乙女の性というもの。 お使い途中の風呂敷に、ほんのちょっとだけ、と言い訳をして香夜は縁の方へ足を向けた。 (ちょっとだけ。声をかけられそうなら挨拶するだけ。) 今、ここでそんなことをしなくても、夕方にはご飯を食べに店にやってくるのが常なのだが、それでも出来る物なら顔が見たい。 そんなささやかな誘惑に抗えず、香夜はそろそろと縁に近づいていく。 通りを行き交う人のおかげか、こちらには気が付いていない縁を見つめながら彼が話している相手のいる路地が見えたところで。 「え・・・・」 ぴたり、と香夜の足が止まった。 というのも、縁が話しかけていた相手は若い町娘だったからだ。 いつぞやのように、遊女とかそういう女性でないことは一目でわかるような普通の町娘に、縁は何やら熱心に話しかけている。 その姿に、ぎゅっと胸が縮む想いがした。 (縁さん・・・・) 誰か若い娘と話しているからといって、行き成り浮気を疑ったりはさすがの香夜だってしない。 あまり褒められたことではないが、縁が女性にやにさがった顔で話しかけている姿は・・・・本人は情報を聞き出しやすくするためだったと言いつのっていたが、実際に何度か香夜だって見かけていた。 (・・・・そうよ。私だって出会った時から気軽に可愛いとか言われていたし。) そうやって場を和ませるのが縁のやり方の一つだから、もしかして今だって、と頭では思う。 頭ではそう思うのだが・・・・心はちくちくと痛んで香夜はぎゅっと風呂敷包みを抱きしめた。 (どちらにしろ、今は話しかけられないよね。) そう思って、また気分が一段落ち込む。 どちらにしろって、もしお役目じゃなかったらどうするんだろう、と己に問いかけそうになって、香夜が一人首を振った ―― その時。 「・・・・何やってんだ、お前。」 「わあっっ!?」 急にぽん、と肩に手を置かれると同時に聞こえた声に、香夜はぎょっとして振り返った。 その勢いが予想外に激しかったせいか、今まさに声をかけてきた螢がきょとんっとした顔で香夜を見ていた。 「け、け、螢さん?」 「すっげー驚きようだな。なんか後ろ暗い事でもしてたんじゃねえだろうな?」 眉を寄せてそう言われて、香夜は慌ててぶんぶんと首を横に振った。 縁の見てはいけない場面(?)を目撃してしまった事は確かかもしれないが、螢の言うような後ろ暗い事などしていない。 しかしその反応もまた大袈裟だったからだろう。 「ほんとかよ?」と訝しげな顔をした螢は、今まで香夜が見ていた方向を確かめるように目をやって。 「・・・・・・・・・ああ、あいつか。」 「・・・・」 妙に中途半端な間の後に出た、見たくない物を見たと言わんばかりの螢の言葉に香夜はちょっと苦笑してしまった。 硬派な螢は、縁のように女性をおだてて情報を聞き出すようなやり方は眉をひそめる事も多いからそのためだろうと思った・・・・のだが。 「あー・・・・その、あんま気にすんな。」 「え?」 香夜が予想していたのとは違い、螢はわずかにバツが悪そうに頭を掻くと目を逸らしてそう言った。 (気にすんなって、何?) その言い方ではまるで、目の前の光景が香夜が気にするとまずい展開であるかのように聞こえる。 いつもの螢であれば、縁に呆れた目を向けて香夜に「早くあいつどうにかしろ」と苦言を呈してくるので、これは明らかに普段と違うおかしな反応だ。 と、そんな違和感に香夜が戸惑っているのにおそらく気が付いていず・・・・むしろ何か誤解したのか、螢は慌てたように言葉を付け足した。 「あいつがしょーもねー奴だって事はお前だってわかってんだろ?いや、まあ、その・・・・とにかく、気にすんな!」 「・・・・・」 本当に螢は隠し事には向いていないらしい。 (何かあるって言っているようなものだよ。) 心の底から口に出して突っ込みたかったが、それでは珍しく螢が縁を庇おう(?)としているのに無駄になってしまうとなんとか踏みとどまった。 そんな葛藤を香夜が繰り広げている間に、間に耐えられなくなったのか螢が「あー・・・・!」と意味不明な呻き声を上げて言った。 「もう良いだろ!お前、使いの帰りか何かだろ?早く戻れ!」 「は・・・はあ。」 「ほら!後ろ向け!でもって、とっとと行け!」 ものすごく面倒くさいものでも追い払うような言い方に首を捻ったものの、勢いに押されて香夜は回れ右してしまう。 どちらにしても、少しだけと言い訳したお使いの途中である。 素直に足を踏み出してみたものの、気になる思いに引っ張られて思わず振り返ってしまった。 肩越しに見えたのは、何故か仁王立ちして渋い顔をしている螢の向こうで、まだこちらに気が付いた様子もなく町娘に話しかけている縁の笑顔。 それが、気のせいかも知れないがひどく嬉しそうに輝いているように見えて。 「・・・・・」 ずきん、と痛んだ胸の痛みを誤魔化すように、また風呂敷包みを抱きしめて、香夜は逃げるように人混みの通りを駆けだした。 ―― そんなことがあってから、早二日後。 「・・・・・・・・はああ・・・・・・・・」 初夏の日差しが強く降り注ぎ始めた店の前に打ち水をしていた香夜の口から、限りなく重いため息が零れ落ちた。 普段の香夜であれば、店の前でこんな辛気くさい顔をしたりはしない。 誰だって店に入るなら明るく元気に迎えてもらいたいものだ。 しかし、看板娘だって人間である。 加えて恋する乙女である。 ということで。 (あれから、顔を出さないってどういう事なのよ・・・・) となれば、深々としたため息が思わず零れてしまうのも、しかたがないところだろう。 なにしろ、二日前、縁が町娘と話すのを目撃してしまった日から、縁は香夜の店に姿を見せていないのだ。 問い詰める気があったわけではないが、顔を出して何事もなく話してくれたなら気分も晴れたかも知れないのに、顔を出さないとなると、嫌な想像ばかりが広がっていく。 (・・・・あの子、可愛い子だったな。) 苦しい思いをするだけ、とわかっているのにそんなことを考えてしまって香夜は顔をしかめた。 いつか、吉原で見たような着飾った花魁とは違うけれど、夏に似合った着物も可愛らしい町娘だった。 そう思うだけで、ずん、と心が重くなる。 (縁さん、笑ってた・・・・) 去り際に見た縁の、妙に嬉しそうな笑顔が浮かんで、またもやっとした気持ちがわだかまる。 妙に重く感じる柄杓から、水をまいて香夜はため息をまた一つ。 この感情を何というかぐらいはもうとっくに知っている。 (縁さんの気持ちを疑うわけじゃない、けど。) こんな短期間で手の平を返したように、他の人を好きになったとか言われるとはさすがに思ってはいない。 それでも、珍しく螢が何か隠そうとした事や、顔を見せないことが、香夜の漠然とした不安に拍車をかけていた。 「・・・・はあ。」 もう幾度目かわからないため息をついて、それから香夜は己を諫めるように首を振った。 (だめだめ!こんな顔してたらお父さんも心配するし、第一いつまでも悩んでても解決するわけじゃないんだから!) 昨日だって、父やお客さんからちょっと暗い顔をしていると指摘されてしまったのだ。 今日はしっかりとしなくちゃ!と香夜らしい発破を自分に掛けて、景気をつけるように、香夜は桶から水を掬うと、勢いよくまいた。 と、―― 「わっっ!?!?」 「え!?」 思いがけず驚いたような声がして香夜ははっとした。 どうも、考えに没頭しすぎていて、周りが見えていなくて、近くにいた人に水をぶっかけてしまったらしい。 「ごめんなさい!・・・・、て、え!?」 慌てて、目の前で頭から水を被ってしまった人に謝りながら近づいて、香夜は目をまん丸く見開いた。 というのも。 「縁さん!?」 そう、香夜が水をかけた人物こそ、ここ二日、香夜を悩ませていた縁その人だったのだから。 「そうですよ、縁ですよ〜。ああ、久しぶりに会う姫は可愛いなあ。」 「なっ、何言ってるんですか!それよりも、水!ああ、びしょ濡れになっちゃった。」 香夜に覗き込まれるなりへにゃっと相好を崩す縁に、香夜はなんだかもう、何と言っていいかわからず取りあえず慌てた。 そんな香夜の様子に縁は相変わらずへらっと笑って見せる。 「そんなに焦らなくても大丈夫だよ。天気も良いし、ほら、水も滴るなんとやらってね。」 前髪から雫を垂らしながらそんなことを言う縁に、香夜は思わず脱力してしまう。 (なんだかもう・・・・) 縁にあったらどう話したらいいのかとか、どんな顔をすればいいのかとか、この二日悩んでいた事が酷くどうでもいいことだったように思えてきて、香夜はため息をつきながら言った。 「何言ってるんですか。風邪引いたらどうするんです?」 「え〜?そしたら姫が看病してくれるでしょ?付きっきりで。」 縁は香夜よりは大分年上のはずだ。 はずなのに・・・・この期待に充ち満ちた子犬のような目の可愛さはなんだろう。 螢あたりが聞いたら「アホか!!」と突っ込まれそうな事を考えて香夜が言葉に詰まっていると、縁がさらに追撃をかけてくる。 「してくれない?」 「っ!し、しますけど!今はそれより風邪を引かないようにするのが先決です!!!」 自らの顔が赤くなっていくのを自覚しつつ、ほとんど叫ぶようにそう言って、香夜は桶を置くと手拭いのある店の中へと縁を引っ張り込んだ。 「うわわ、って姫。姫の着物も濡れちゃうよ?」 「いいですから、早く入って。」 「あー、うん。」 歯が浮くような台詞はさらさらと出てくるくせに、変なところで遠慮がちな縁に半ば叱るようにそう言えば、縁は大人しく店に入ってくれた。 自分がまだ水を滴らせているので店の中でもどこへ行けばいいのか迷っている風情の縁に、香夜は座敷の上がりがまちを指さす。 「ちょっとそこへ座って下さい。」 「え?でも・・・・」 「畳は拭けば大丈夫ですから、早く!」 「は、はい!」 びしっと言えば、慌てて縁が上がりがまちに座る。 座ったことで近くに来た縁の頭に、香夜は問答無用で懐から取り出した手拭いを被せてふき出した。 「!姫、拭いてくれるの?」 「拭いて下さいって渡しても縁さん、結構適当に拭くでしょ?」 普段の香夜だったら、手拭いを渡すだけでこんな強引な事はしなかっただろう。 しかし、ここ二日ずっともやもやとした感情が溜まっていたせいで、少し縁に触れてみたくなっていた。 だから、恥ずかしいのは「適当に拭いて縁さんが風邪を引くと困るから」という理由で誤魔化して、癖のある縁の髪をわしわしと拭いてみる。 髪の水気を丁寧に取って、次は着物の方へ、と移ろうと手拭いを外したところで。 「・・・・なんでそんなに嬉しそうな顔してるんですか。」 思わず香夜がそう突っ込んでしまうぐらい、ふにゃふにゃな縁の笑顔と目が合ってしまった。 もちろん、突っ込みは照れ隠しで・・・・そう、香夜が照れてしまうほど、縁は無防備に幸せそうな顔をしていたのだ。 「そりゃあ、幸せだもん。」 この顔と台詞を左京あたりが聞いたら「駄目ですね。本当に末期です。」とため息をつきそうなほど、ゆるんだ顔でそう言う縁に、香夜は何とも言えずに困った。 この二日、ずっと先日見かけてしまった光景に感じる嫉妬で苦しんでいたというのに、髪を拭いてあげた程度でこんな顔をされたら。 (・・・・悩んでた私がばかみたい。) いつも笑っている縁だけれど、自惚れを差し引いてもこんな無防備で幸せそうに笑う姿は自分の前以外では見たことが無いと思ってしまうぐらいなのだから。 (やっぱりお役目だったのかな。) 浮気じゃないとしたら、という呟きは心中でとどめてそう思うが、だとしたら螢が妙な反応をした理由がわからない。 未だ釈然としない部分は残る物の、それでも気分も大分浮上した香夜は自分もつられたように笑みを浮かべて、縁の着物を拭きに掛かる。 幸いな事に柄杓一杯はかなり髪に掛かっていたようで、着物の被害は軽そうだ。 「よかった。すぐ乾きそう。」 「だから、そんなに気にしなくてもよかったのに。」 「そういうわけにはいきません。そんなことを言っていたら、縁さん、川に落ちるかもしれないし。」 「あれは・・・・」 冗談半分にかつて川に落っこちた時の事を持ち出してやれば、縁がバツが悪そうに笑った。 「あれは格好悪かったなあ。」 「格好悪いというか驚きました。」 「えー?どきっ!とかしてくれなかったの?」 「それより、早くどうにかしないと風邪を引いちゃうって思うほうで精一杯でした!」 本当に縁さんは無茶するんだから、とわざとらしく睨んでみせたのに、縁は嬉しそうににこにこ笑うばかり。 (もう、結構危なっかしい人だから。) 心配は本気でしているんだけれど、と思ったがそれ以上言っても仕方ないと諦めて香夜は最後に着物を拭うと「終わりましたよ」と声をかける。 「ただの水だから染みにはならないと思いますけど。」 「うん、ありがと、姫。」 お礼を言われてしまって香夜は苦笑する。 (そもそも私が水をかけちゃったんだけど。) こういうところは縁らしいな、と思って香夜が濡れた手拭いを畳もうと目を逸らした、その時。 「これ、お礼。」 「え・・・・」 予想外の言葉と共に、不意に髪に何か差し込まれた。 (え?何?) 顔を上げれば縁がまるで悪戯が成功した子どものような顔をしていて。 「??」 「ほら、鏡で見て見て?」 「あ、はい。」 促されて、香夜は素直に懐から手鏡を取り出すと、自分の頭を映してみて・・・・。 「!縁さん、これって・・・・!」 香夜が目を丸くしたのも無理はない。 いつも上でまとめている香夜の髪に挿してあったのは ―― 五剣祭の屋台で縁に買ってもらった簪とうり二つの簪だったのだから。 (でもあの簪は壊れちゃったはず・・・・) 縁がかつての役目のために花魁と言葉を交わす様を見て衝撃を受けた時に、あの簪は香夜自らが捨ててしまったはずだった。 その後、踏んで壊してしまったのだと縁に聞いて少し残念には思っていたのだが。 「へへ、そっくりだろ?」 どこか得意げにそう言う縁に、香夜は頷いた。 (確かによく見ると前のと翡翠の色が微妙に違うけれど、意匠はそっくり。) 「これ、どうしたんですか?」 これほどそっくりな物をどうやって手に入れたのか純粋に不思議に思ってそう問いかけた香夜に、縁はよくぞ聞いてくれましたとばかりに言った。 「探したんだ。」 「探したって・・・・」 あの簪を買ったのは五剣祭の屋台だったはずだ。 流行の意匠なら店の小間物屋にもあるかもしれないが、大概は屋台の物は一品物が多い。 そんな香夜の疑問を汲み取ったかのように、縁は答えをくれる。 「最初は町の店も探したんだけど見つからなくてさ。だから、人伝手を頼ってあの五剣祭の時の屋台のばあさんを見つけて作ってもらったんだ。」 「ええ!?」 これには香夜も目を丸くした。 江戸の五剣祭と言えば日ノ本でも屈指のお祭りで、屋台の数だってそれこそ星の数ほど出るはずだ。 その中から一人の小間物売りのおばあさんを見つけるなんて、不可能に近い。 「よく見つかりましたね?」 「そりゃ大変だったよ〜。螢に心当たりの伝手を探ってもらったり、似たような意匠の簪つけた町の女の子に聞き込みしたりさ。」 「あ・・・・」 さりげなく縁が言った言葉に、香夜は思わず声を上げていた。 その反応に縁がきょとんっと首をかしげる。 「何?」 「あの、もしかして二日ぐらい前にもその聞き込みしてました?」 「え!?ああ、もしかして見られてた?」 「やっぱり・・・・。」 ここへ来て、合点がいった。 あの香夜が見かけた場面は、役目でも浮気でもなく、縁がこの簪を探して聞き込みをしている場面だったのだ。 そして心当たりを聞かれていたというからには螢もそのことに気が付いていたのだろう。 一人納得していると、縁が妙にあわあわと言葉を重ねてくる。 「ちょうど、あの時の子がその屋台のばあさんの居場所を知ってたんだよ。やっと見つかったって嬉しくなっちゃってさ。」 「ああ・・・・」 (それであの笑顔・・・・) この二日香夜をずっと苛んでいた縁の笑顔がぽん、と脳裏に浮かんで、なんだか脱力してしまった。 おそらく縁は香夜に内緒でずっとこの簪を探してくれていたのだ。 それを螢も知っていて、だから、不器用ながら一生懸命隠してくれた。 (全然・・・・浮気なんかじゃないじゃない。) そう思ったらなんだか気が抜けておかしくなって、香夜はくすくすと笑い出してしまった。 もちろん、そんな反応は予想外だったのだろう。 縁が驚いたように目を丸くするから、香夜は慌てて誤魔化すように言った。 「でも、どうしてそこまでして探してくれたんですか?あの簪を返したのは私なのに・・・・」 壊してしまったと縁から聞いて残念には思ったけれど、結局は自業自得だと思っていた。 なのに、縁は少し切なそうに目を細めて、肩に零れている香夜の髪をそっと梳いて言った。 「あの時と同じ気持ちをきちんと姫に渡したいと思ったから。」 「同じ気持ち・・・・」 思わず言葉をなぞると、縁がすっと立ち上がる。 今まで下だった目線が引っ張られるように上がって、見下ろされた空色の瞳に自分が映るのを香夜は魅入られたように見つめていた。 どきどきといつの間にか早くなっていた鼓動は、縁の手が頬を滑って余計に跳ね上がる。 「縁、さん」 存外しっかりとした手の無骨な温度にぎゅっと胸が苦しくなって、思わず名を呼ぶと、縁が嬉しそうに目を細めた。 「・・・・香夜。」 いつもの呼称ではなく大切そうに呼ばれた自分の名の響きに息が詰まりそうになる。 返事のかわりに見上げれば、縁が香夜の髪に挿した簪に触れた。 そして、香夜の夜色の瞳を覗きこむようにして笑った。 「ね、あの時に言った様に、この簪を挿している時は俺が髪に触れていると思って。俺が居ない時も、俺の事を考えて。そのためにこの簪を探し出したほど・・・・愛してるんだ。」 (―― ・・・・ああ) もう、なんなんだろう、と香夜は少し腹立たしくなった。 春が一足飛びにわからなくなってしまうぐらい振り回されて、やっと少し落ち着いたのだと勝手に思っていた。 けれど ―― (縁さんの行動一つで嫉妬して落ち込んで、縁さんの言葉一つでこんなに舞い上がっちゃうなんて。) ああ、本当に振り回されっぱなしでどうかしていると思う。 思うけれども。 「姫?」 多分、今、自分はすごく妙な顔をしているに違いないと香夜は思った。 そのせいかほんの少し不安げな顔をする縁を見つめて香夜は思う。 (もう・・・・後でいろいろ言ってやらなくっちゃ。) あんな場面を見かけて苦しかったとか、螢に迷惑かけちゃいけないとか。 でも ―― 今はとりあえず。 「ひ、―― っっ!?」 本格的に不安そうな顔になって覗き込んできた縁の胸ぐらをがしっと香夜は掴む。 正直、言葉で上手く伝えられる気がしなかったのだ。 この ―― 零れ落ちそうなほどの嬉しさと愛しさを。 だから、ありったけの気持ちを、目をまん丸くしている縁に向ける笑顔に篭めて香夜は背伸びをして。 縁の頬に、えいっとばかりに口付けをしたのだった。 ―― 不意打ちの口付けに驚いた縁は上がりがまちに引っかかって転んで、開店前の店で大惨事を起こし、螢にこっぴどく叱られたらしい。 〜 終 〜 |