君がいて僕がいる
香夜に出会って初めて知った感情はたくさんある。 笑顔を見られると、ただ嬉しいだけじゃなくて胸がどきどきすること。 その笑顔が誰か違う人に向けられていると、心がすうっと冷たくなって苦しくなること。 ふとした時に、理由もないのに触れたくなること。 そして何より、誰かを特別大切に思うこと。 みんなみんな、香夜と知り合うまで鈴懸にはなかった感情で、もっともっと感じたくなる。 だから ―― 「・・・・い、言いたいことはわかったんだけど、これはちょっと・・・・」 それまで大人しく鈴懸の言い分を聞いていた香夜だったが、さすがにもう限界というようになんとか抗議を絞り出した。 が、しかし。 「え?何?」 きょとんっとしたような声が耳の後ろから返ってきて、反射的に香夜は肩をぴくっと振るわせてしまう。 さて、ここで注目いただきたいのは、『耳の後ろから』。 そう、只今、香夜はがっちりと鈴懸に後ろから抱きしめられている状況なのだ。 (そ、そもそもここには薬草を採りに来ただけのはずだったのに・・・・) と、香夜が逃げ場を求めるように見渡した先には、森の中にぽっかりと野原が広がっている。 ここはよく鈴懸が薬草を採りに来る江戸郊外の野原で、最近は香夜が一緒に来ることも多い。 そして今日も、足りない薬草があるという事で、一緒に薬草を採りに来ようとここへ来たのだ。 まあ、目的の薬草はちゃんと手に入って、近くに置いてある籠にしっかりと入っているのだが。 (薬草が見つかって、あとは帰って加工しようって話をして・・・・) そこまでは至って普通の会話だったはずだ。 しかしその時に、爽やかな春の風が吹き抜けたのがまずかった。 否、まさかこんなことになろうとは思ってもいなかった香夜が、その風に髪をかき上げて「気持ちいいね。少しお昼寝したいぐらい」と言ったのがまずかったのかも知れない。 その言葉にぱっと笑顔を見せた鈴懸は「じゃあ少し休憩していこう!」と言うと、香夜の手を引いて木陰へ移動すると・・・・ものすごく自然に自分の足の間に香夜を座らせてしまったのだ。 しかも座ってしまってから、この体勢にあわあわしだした香夜をぎゅうっと抱きしめて鈴懸が言った台詞が冒頭のそれだったのだからたまらない。 (う、嬉しくない訳じゃないけど・・・・) なにせ鈴懸は香夜にとっても大切な人で、紆余曲折を経て今の形に収まった恋人である。 しかしだからこそ。 (心臓に悪いよ。) どきどきと跳ね回る鼓動を押さえるように、香夜は己の胸に手を当ててうう、と呻いた。 そんな香夜の声に、不思議そうに鈴懸がのぞき込んでくる。 「香夜?どうかした?」 「どうかっていうか・・・・」 「顔、赤いよ?熱でもでちゃったかな。」 ちょっと困ったように眉を寄せる鈴懸に、香夜は慌てる。 純粋で優しい鈴懸の顔を曇らせると無性に悪いことをしているような気がしてしまうのだ。 しかし香夜がなんと説明すべきか言いよどんだところで、「あ」っと鈴懸が何か思いついたように声を上げた。 そして。 「!」 「あ、やっぱりどきどきしてる。」 再度胸に抱きしめられて目を丸くしたのもつかの間、弾んだ鈴懸の声が聞こえて香夜は更に頬が熱くなるのを感じた。 「す、鈴懸・・・・」 「えへへ、どきどきしてたから赤かったんだね。」 「〜〜〜」 納得したと嬉しそうにのぞき込まれて、香夜は思わず頬を手で隠してしまった。 「もう・・・・鈴懸ってばからかってる?」 そんなはずはない、とわかっていながら口にしたのは、照れ隠しだったのだが、思った通り鈴懸は意外な事を言われたように目を丸くした。 「違うよ。香夜がどきどきして赤くなってくれて嬉しいなって思っただけ。だって僕が抱きしめたから、どきどきしてくれたんでしょ?」 「う、」 墓穴。 そんな言葉が頭に浮かんだ。 (からかってるなら適当にあしらうこともできるのに。) 例えば偽花嫁行列で護衛をしてくれていた縁のように、軽口ならば気にせずかわせる。 もともと幼い頃から父の手伝いで店に出ていた香夜は、お客さんの相手もしているのでそういう意味では免疫があるほうだったはずだ。 けれど、鈴懸の場合は軽口のかの字もないほど、まっすぐ直球なのだ。 まっすぐ直球に、自分に向けられた気持ちを隠すことなくありのままに告げてこられる事が、これほど心臓に悪いとは香夜は知らなかった。 ふう、とため息をついた香夜に何を思ったのか、再び鈴懸が眉を寄せて不安そうに言った。 「嫌だった?」 「!ううん、そんなことない!」 慌てて振り返った香夜は首を横に振る。 嫌ではないのだ。 嫌ではないけれど・・・・。 「よかった!」 ぱっと顔一杯で安心したように笑う鈴懸に、また香夜の鼓動がどきんっと跳ねる。 しかも今回はそれだけでは終わらずに、鈴懸の手が香夜の頬をすっぽりと包んでしまった。 「あったかいね。」 「そ、それは・・・・鈴懸が照れるような事を言うから。」 「僕?」 きょとん、と首をかしげる鈴懸の表情はおそらく本物で、きっと口説き文句を並べている気などないのだろう。 だからこそ、香夜は困るのだ。 「そっか。僕の気持ちを伝えると、香夜はこんな風に照れてくれるんだ。」 へへっと笑った鈴懸の笑顔は、出会った頃と同じように無邪気に見えるけれど、子どものそれとはいつの間にか色合いを変えた。 「なんだか不思議だな。香夜がそうやって照れてくれるとなんだかくすぐったい。」 そう言って目を細める鈴懸は、確かに男の顔をしていて、香夜の胸がぎゅっと締め付けられる。 それだけだって困ってしまっているというのに。 「ね、香夜。」 いつの間に、こんな甘い声で香夜の名前を呼ぶようになったのだろう。 頬を滑る手からは、染みついた薬草の匂いがして、それさえも香夜の鼓動を加速させる。 (出会った頃は無邪気でちょっと心配な弟みたいな人だったはずなのに。) 何事にも純粋で一生懸命な鈴懸は、面倒見の良い香夜にとって気にかける存在ではあったが、こんな風に振り回されるなんて思ってもみなかった。 けれど、いつの間にか多くの人を治療する手だと思っていた手が、香夜の頬をすっぽり包み込める事を知った。 「香夜、可愛い。」 微笑みをこぼすようにそう呟いて、風が触れるように額に口付けを落とされる。 戯れのようなふれあいなのに、そこには確かな熱がある。 「鈴懸・・・・」 「どうしよう。香夜が困ってるってわかってるけど、もっと触れたいよ。」 どうしよう、と問うていながら鈴懸の表情は嬉しそうで、香夜はちょっと悔しくなる。 鈴懸に駆け引きをしている気なんてきっとないから、振り回されているのは香夜だけなのだ、と。 そう思ったらちょっと江戸っ子らしい負けん気が顔を出して、香夜はむ〜っと考えると。 「鈴懸!」 「え、わっ!?」 えい!っとばかりに首に抱きついてきた香夜の不意打ちに、こらえきれずに鈴懸は香夜を受け止めるような形で野原へひっくり返る。 「びっくりした?」 「うん、」 「ふふっ」 逆襲の成功に気を良くして香夜は鈴懸の胸に顔を寄せる。 「ほら、鈴懸もどきどきしてるじゃない。」 ことんことん、と耳に届く鼓動が確かに平素より早いと主張する香夜に、鈴懸は苦笑した。 「それはそうだよ。驚いたし。それに」 そこで言葉を切った鈴懸は、おかえしとばかりに香夜を抱きしめて、頬に唇を寄せた。 「!」 「香夜から抱きついてくれたんだもん。」 「〜〜〜」 再び墓穴。 やりかえしたつもりが、やりかえされてなすすべもなく赤くなる香夜に、鈴懸は声をたてて笑った。 「香夜、可愛い!すごく可愛い!」 「〜〜〜、もう、やっぱりからかわれてるみたい。」 「からかってないよ。ほら」 そう言ったが早いか、鈴懸はくるんっと体を起こすと、あっという間に香夜と空の間に入ってくる。 暖かい春の日差しを遮る鈴懸の影の下で慌てる香夜を逃がさないように、顔の両横に手をついて鈴懸が笑った。 「こんなに」 「!」 「・・・・可愛いよ。」 言葉の間に落とされた口付けは、戯れとは違う確かな熱を帯びていて、香夜の鼓動が大きく鳴り響く。 「もっと触れたいし、もっとどきどきしてほしいんだ。」 追い打ちをかけるように紡がれる言葉に、心臓は痛いぐらいなのに・・・・本当はもっと聞きたい。 「十分・・・・どきどきさせられている気もするけど。」 「じゃあ、もっと!もっとどきどきしてよ、香夜。」 嬉しそうにそう告げてくる鈴懸に、ああ、これはもう降参だ、と香夜は息を吐いた。 「ねえ、香夜。僕は香夜と会ってから知らなかった事をいろいろ知ったんだ。それがとても嬉しくて幸せだから、香夜にもそう思ってほしい。」 そう言って鈴懸は香夜の髪に口付けを落とす。 「大好きだよ、香夜。」 目を細めてそう告げてくる鈴懸に、香夜も微笑んで「私も」と返した。 そうして、もう一度、と降ってくる口付けを受け止めながら。 ―― 私も鈴懸に出会って知った感情がたくさんあると伝えたら、どんな顔をするだろう、と小さな反撃を考える香夜だった。 〜 終 〜 |