一人限定特効薬
吉備の国で婚儀を終えた後、江戸に戻ってからの螢は今までにもまして、忙しくなった。 嫁取りをして、吉備の国の鬼の首領の座を継いだのだから、本来は吉備の国に残ってもよかったのだが、まだ江戸では鬼が受け入れられたとは言い難いし、螢自身に剣取りという夢も残っていたので、江戸へ戻ることにしたのだ。 国元の方は今まで通り螢の祖父が名代としてまとめているので問題はないが、吉備の鬼の首領になったことで、他の地域で行き場をなくした鬼達が螢を頼ってやってくる事が格段に増えていた。 『オレを頼って来たってんだから、面倒みてやらねえとな。』 頼られると頑張ってしまう、螢のそんなところは香夜も好きな部分ではあるのだが・・・・。 「―― ただいま。」 お勝手で家事をこなしていた香夜は、玄関の方から聞こえた声に顔を上げた。 「おかえりなさい!」 返事を返して、前掛けで手を拭きながら、香夜はお勝手を出る。 もともと螢と祖母が二人で住んでいた家なので、あまり広いわけではなく、お勝手を出て廊下に出ると、すぐに玄関を上がろうとしている螢の姿が目に入った。 「おかえりなさい。」 「おう、ただいま。」 顔を見て、もう一度声を掛けると、螢は顔を上げて少し笑う。 その顔を見て。 (あ、) ちょっと疲れてる。 なんて事はない、ほんの少しの笑顔の違いだけれど、香夜はぴんっと来た。 そしてその予想通り、螢は三和土を上がると一つ大きく息を吐いて、居間へ入って行ってしまう。 (いつもなら、何があったとか話すんだけど。) 夫婦になってから、螢は仕事から帰ってくると、いつも今日何があったとか町の様子とか話してくれるようになった。 それに香夜が相づちを打ったり、自分もしたことを話したり、他愛もないおしゃべりがほのかな幸せの時間でもあるのだが、そんな事を忘れたように居間へ引っ込んでしまう日は、たいてい。 (何か、辛いことがあったのかしら。) 大変な事、辛い事、香夜には少し話したくない事、そんなことがあると、螢はこんな反応をする。 もちろん、話してくれないわけではなくて、後で話してくれるのだけれど、嫌な事というは話すことにも気力を使うからだろう。 だから、何があったか聞きたいという気持ちより、螢を支えたいという気持ちの方が勝って香夜はお勝手を一度見て、家事が一段落しているのを確認すると小走りに居間へ向かった。 居間へ入ると、螢が壁に背をもたせかけて座っていた。 その様がいつもは力強い螢が、少し弱っているように見えて、香夜の胸が痛む。 「螢。」 「ん?」 呼びかけると、螢が視線を上げて香夜を見た。 金色の瞳が少し躊躇ったように揺れるのを見て、香夜はまだ話したくないんだなと悟る。 (それなら、それでいい。) 螢は大事な事を自分に隠したりはしない、と香夜は信じている。 だから、話せと言うのではなく。 「えっと・・・・何かして欲しいことない?」 「あ?」 これはちょっと予想外だったのか、螢が訝しげに目を見開いた。 「なんだよ、急に。」 「うん、急でもなんでもいいから、してほしいこと。」 「だから、なんで・・・・」 さらに問いかけようとして、螢はふと何かに気がついたように、ああ、と顔をゆがめた。 そして渋い顔で頭を掻くと言った。 「いいんだよ、気使わなくて。」 「違うよ、螢。」 螢の言葉に香夜は首を横に振った。 疲れている螢を見て、何かしたいと思った・・・・それは確かに気を遣ったことになるのかもしれないけれど、香夜にとってそれは。 「螢が辛そうなのは私が嫌なの。少しでも元気になってほしいって、そう思うのは私のわがままでしょ?」 よく、螢が香夜に笑っていて欲しいというように、香夜だって螢に笑っていて欲しいのだ。 だから、そのために何かしたい。 そんな理論を突きつけてどうだ、と胸を張ってやると、螢は驚いたような顔をした。 「わがままって・・・・」 そう呟いて、しばし。 「わがまま、ってなあ。くくっ」 小さく螢が押さえたように笑って、香夜の鼓動がとくんっと細波だつ。 (ちょっと突拍子もない言い方だったけれど、少しでも螢の気が紛れたなら、それでいいわ。) 支えるというには微かでも、それでも螢の気持ちが少し上向いたのなら嬉しい、と香夜が思っていると、螢がさっきより少し力の付いた表情で見上げてきた。 「なあ。」 「うん?」 「なんでも、してくれんのか?」 「え?ああ、うん。いいよ。」 「じゃあ・・・・名前、呼んでくれ。」 この提案に、香夜はきょとんっとした。 「名前?そんなのいつも呼んでるじゃない。」 ちっとも特別なことじゃない、と首をかしげる香夜に、螢は少し焦れたように言った。 「いいから。」 「?うん。」 (いいのかな?) 例えば好きな物を作って欲しいとか、肩もんで欲しいとか、そんなことを想像して提案していただけに、簡単すぎる要求に香夜は首をかしげる。 しかし、螢がそれがいいというのなら、別に断る理由もないし、と香夜は小さく息を吸った。 (・・・・でも、なんだか改めて呼ぶのは少し恥ずかしいかも。) ほんのちょっとだけ恥ずかしいと思いつつ、香夜はそれでも螢の瞳を見つめると、螢が元気になりますようにと願いを込めて言った。 「螢」 ―― とくん、と震えた胸に、螢は僅かに苦笑した。 (たかが名前なのに、な。) 自分の名前なんて、今までの人生で何百回も聞いているはずだ。 それなのに。 「もう一回。」 壁に背をもたせかけたまま、香夜を見上げてそう言うと、香夜は驚いたように目を丸くする。 「え?もう一回?」 「ああ、もう一回。なんだよ、嫌なのかよ?」 「別にそんなことない、けど。」 戸惑ったようにもごもごしながらも、香夜は再び螢の方を見ると。 「螢。」 (ほら、まただ。) 香夜の声で、香夜に名前を呼ばれるだけ。 それなのに、心に穏やかな波紋が広がる。 「もう一度。」 懲りずに強請ると、何か諦めたのか苦笑して、香夜がその願いをかなえてくれる。 「螢。」 「もう一度。」 「螢。」 前掛けを外しながら、目線を合わせるように座る香夜に、自然と背が壁を離れる。 さっきまで、気分が沈んで寄りかからずにはいられなかったのが嘘のように。 「もう一回。」 「えっと、螢。」 いい加減恥ずかしくなってきたのか、少しはにかんで香夜が紡ぐその名の響きが螢にどんな効果をもたらしているかなんて、きっと香夜は気がついていないに違いない。 以前に四六時中自分の名前を呼ばせたいと言った事があったが、それは誇張でもなんでもなく、そのぐらい香夜に自分を呼んで欲しいと思うのだ。 (それだけで、どんなことでも乗り越えられる気がする。) 「螢?どうかし・・・・ひゃっ!」 螢が黙ってしまったので不審に思ったのか、上半身を伸ばすようにのぞき込んできた香夜を、問答無用で抱き寄せる。 勢い余って、螢の胸に飛び込んでくるその体を抱き留めて、柔らかい黒髪から覗く小さな耳へ唇を寄せて。 「・・・・もう一度。」 「っっ!」 自分でも甘ったるい声が出たな、とは思ったが、それ以上に香夜に対する効果は絶大だったようで、香夜は一瞬固まった後、みるみるうちに真っ赤になった。 「こ、こんな状態じゃ言えないわ。」 「なんでだよ、言えよ。」 「だ、だって・・・・」 おろおろとする香夜の反応が可愛くて、煽るように耳に口付けると、まだびくっと跳ね上がるのが愛しい。 すべての反応が、香夜が螢の腕の中に居る事を感じさせてくれるから。 (だから、もっと口付けたくなるし、反応させてみたくなる、なんて言ったらもっと赤くなるよな、きっと。) こっそりとそんなことを思いながら香夜を腕に閉じ込めていると、それだけで今日あった嫌な事も、そうたいした事でない気がしてくるから不思議だ。 (考えてみりゃそうかもな。) 螢にとって一番大事な幸せは、たった今、この腕の中にあるのだから。 「なあ、香夜。」 「っ、だから、耳元で囁かないで!」 「やだね。何でもいいっつったのはお前だろ?」 「そ、それは・・・・う〜〜〜〜。」 反論の手段を失って呻く香夜に、螢はこらえきれずに笑い声を上げる。 「螢!」 「ほら、呼べるじゃん。もう一回。」 「う〜っ。」 抗議したつもりが、嬉しそうに返されて香夜は呻きながら螢の腕の中に顔を半分沈み込ませる。 でも、その顔が、本当に拗ねている時のそれではなくて、ちゃんとどこか嬉しそうな事に気がついたから。 「香夜。」 名前を呼ばれるのと同じくらい好きな、大切な名前を口にして、螢は香夜の額へ口付けを一つ。 「オレは、お前が名前呼んでくれんなら、何でもできそうな気がする。」 「・・・・そんなのでいいの?」 「ああ。あ、けど」 「?」 ふともう一つ思い出して言葉を切った螢を香夜が不思議そうに見上げてくる。 そのあどけない表情に、少しだけ悪戯心をくすぐられて、螢は香夜の耳元へ再び唇を寄せると・・・・。 「―― 好きだって言ってくれてもいいんだぜ?」 「!」 ぱっと顔を真っ赤に染めて目を見開いた香夜の反応に、螢はこの日一番の笑みを浮かべたのだった。 〜 終 〜 |