狭間に咲く華
―― 紅い紅い華が咲き乱れる。 河岸を埋め尽くさんばかりの紅い華を照らすは、微弱な明かり。 川でありながら、鏡のような水面にぽつりぽつりと浮かぶ灯籠と、遙か彼方に青白い月。 そしてそれらすべてを包み込むのは、とろりとした深い闇。 『・・・・もっとも』 すべては、人であるこの身・・・・九十九丸の目を通して視ての光景だ。 『彼』自身はこの光景の本質を知っている。 『彼』は静かに身をかがめ、足下に咲く紅蓮の華を一輪摘み取った。 ただそれだけ。 その仕草だけで、あっという間に『彼』の手に摘み取られた華は止めていた糸が解けたように崩れ『彼』の手から零れ、周囲の闇へ飲み込まれていく。 『それも道理。』 この光景には実態などない。 あるのは深淵の闇と永久の時間のみ。 そう考えれば、人の子が付けた常夜とはよく言ったものだ。 『人とはまことに不可思議な物だ・・・・なあ、九十九丸。』 そう戯れに呼びかければ、刀の柄にかけていた手がぴくりと『彼』の意志とは無関係に動いた。 今は深くこの身の中に沈んではいるが、九十九丸と呼ばれた本来のこの体に生まれた魂がなくなってしまったわけではない。 生を諦め、大切な者の手を手放したのだから、目の前のこの川を渡って彼岸へと消えてもおかしくないのに、未だにこの身の中で眠る魂。 『・・・・お前も大概諦めが悪いな。』 鼻で笑うように言えば余計な世話だと言うように指が軽く刀の柄を叩いた。 九十九丸は常夜から離れられぬ『彼』とは違う。 この体さえ離れてしまえば彼岸へと渡り輪廻に加わることもできる人の子だ。 おそらく生を諦めた時から、その選択肢があることはわかっているだろうに、九十九丸はこの川を渡ろうとはしない。 その理由も『彼』は知っている。 『あの娘の側にいたいか。』 ぴくり、と腕が止まった。 『あの娘が好いてくれた体を捨てられぬか。』 腕は動かない。 否、おそらくは否定する気も答える気もないだけだろう。 あの娘 ―― 香夜。 九十九丸が生涯たった一度の恋をした相手。 路銀が尽きて当座しのぎの仕事で東海道の偽花嫁行列の警護を請け負った時から、『彼』もまた、九十九丸の目を通して香夜を見ていた。 『あれは、不思議な娘だな。』 これといって大きな特長や取り柄があるというわけではない。 柔らかそうな黒髪や、凜とした目は美しいが、飛び抜けて誰よりも美しいというわけでもない。 けれど。 『あの娘は、光だった。』 ぴくっと片手が揺れた。 おそらくは僅かばかりの同意であろう。 そう、香夜は柔らかい朝日のように、九十九丸の存在を受け入れ、笑ってくれた。 それがどれだけ九十九丸にとって特別な事だったか、きっと今でも彼女は知りはしないだろう。 『彼』が身の内に居る事を意識しておらずとも、己が闇に寄った存在であったことは九十九丸も感じていたはずだ。 だから、手を差し伸べてくれる光に惹かれずにはいられなかった。 香夜の笑顔に、愛情に、手を伸ばしてしまった。 『故に、お前は彼岸にいけない。』 共に生きることを諦めたくせに、彼女が愛してくれた姿を、体を諦められない。 『それほどまでに執着する相手ならば、引き込んでしまえばよいものを』 呆れたように『彼』が言った刹那。 「――・・・・っ、 そんなことはさせないっ!」 ざっと、悲鳴のような声に足下に紅蓮の華たちが揺れた。 華を揺らした声を発した口もとは、僅か一呼吸あって、似つかぬ笑みを刻む。 『・・・・勘違いをするな。我があの娘に手を加えるわけではない。』 マレビトである『彼』は、人の子である九十九丸よりも常夜において存在が強い。 にもかかわらず、体の主導権を奪わせるだけの力が香夜にはあるのだと思うと、『彼』は不思議な心持ちになる。 何故、人はこんな想いを持つ事ができるのだろうか、と。 誰かのために己の生を捨て、けして手が届かなくなったとわかってからも、僅かな繋がりを諦めきれない。 そこまでしてなお、九十九丸は香夜の事を想っているのだ。 常夜の淵に沈み、永遠に変わらぬ景色を眺めながら、香夜の笑顔を、香夜の声をくり返しくり返し想い出している。 それは永久の闇の中で生きてきた『彼』にとって、理解しがたいことであり・・・・同時に酷く羨ましいと思わせるものだった。 『あの娘は、常夜に下ってなお、笑みを見せるだろうか。』 ぽつり、と呟いた言葉に反応したのか、片手がぐっと己の胸を掴んで。 「お嬢・・さん、は、常夜に・・・など・・・・」 『下らない、か?お前が護ったから。』 あっさりと言葉の主導権を奪ってやると、九十九丸が沈黙した。 そうだろう。 今、彼の支えとなっているのは、様々なものを諦めても、彼女を現世へ返すことができたということだから。 けれど、『彼』に言わせれば。 『お前は、あの娘の前に恋の一つでもしておくべきであったな。』 「なっ・・・!」 カッとなったように片手がどんっと胸を叩くが、『彼』は難なく口角を上げた。 『我とて恋など知らぬが、恋をした人がどうなるかぐらいは知っている。』 常夜に存在していれば、人というものに触れる事も少なくない。 愛した者を亡くした人が、どれほど嘆き悲しみ、どのような行動に出るか、それは永久を生きなければならぬマレビトの良い暇つぶしでもあった。 だから。 『・・・・あの娘は常夜に下る。』 「っ・・・・!」 冷酷な宣言に、九十九丸が息を飲んだのがわかった。 しかし同時に、体の奥底で蠢いた感情に、『彼』は嗤う。 『ほら、お前とて、それを望んでいるではないか。』 「だ・・・まれ・・・・!」 絞り出すような声に、さっきほどの力はない。 それはそうだろう。 香夜が常夜に下ると、そう言ってやった時に衝撃と悲嘆の影で蠢いたのは ―― 確かな歓喜。 「お嬢さん、は・・・強い、から・・・・」 きっと生きて行ってくれる、そんな淡い人としての希望を『彼』はせせら笑う。 『だが、お前を喪った。彼女が生きて行くということは、お前の喪失を乗り越えるということだ。誰か他の男を選び、お前とは最早けして交わらぬ生を歩んでいく。』 「―― っ、」 ぎりっと片手がもう片方の腕を締め付ける。 食い込まんばかりに握られたその力が、九十九丸の中の矛盾だ。 香夜を愛しているから、人として幸せに生きて行って欲しい。 香夜を愛しているから、誰にも渡したくない。 ああ、なんと人の中の感情というものは複雑で単純で、強く苦しいものなのだろう。 そして九十九丸にこれほどの感情を抱かせる香夜という存在が。 『我も欲しい』 あの娘は、永遠の闇に落ちても笑うだろうか。 あの優しい手をのばすだろうか。 あの光に満ちた存在が、ゆるゆると闇に染まっていく様は、どれほどか美しいだろう。 「や、め・・・・」 微かに九十九丸が呟いたが、その抵抗が弱くなっている事は隠しようもなかった。 『無駄だ。お前とて、この手に再びあの娘を抱きたいのだろう?』 反応は沈黙。 切望と罪悪感がちろちろと心の底を炙る。 『我は何もしない。』 さっき言った事を同じ事をくり返す。 そう、何もしない。 だが、きっと。 『あの娘は魅入られて、この地へやってくるだろう ―― ほら』 予言のような言葉を呟いた刹那、足下の華が一斉に揺れた。 強い風ではない。 けれど確かな、現世の風。 『蓮台野への口が開いた。』 「まさ、か・・・・・・」 もし動く心の蔵があったなら、大きく波打っていただろう。 それが期待か不安かはわからないが。 そんな身のうちの様相などかまわず『彼』は風に向けて足を踏み出す。 「なに、を・・・・」 『会いたいだろう?』 腕を掴んでいた手が再び震えた。 会いたい? 会いたい・・・・会いたくないはずがない・・・・! 切なさに心が震える。 一歩一歩、踏みつぶす紅蓮の華は闇へと消えていく。 会ってはいけないのに、会えるはずがないのに。 いくらそうくり返しても、体は止まることを知らない。 それは『彼』のせいなのか、それとも ―― 『九十九丸』 温度を感じない声が喚ぶ。 けれど、冷淡であるはずのそれが、どこか喜んでいるような気がした。 『さあ、行こう』 冷たく青い月が招くように道を照らしている。 ああ、その先にもしあの人が・・・・香夜がいたなら、自分は。 「お嬢さん・・・・」 一目でいい、会いたい。 会ってはいけない、現世へもどさなければ。 会いたい、会いたい・・・・離したくない。 矛盾する感情が渦巻いて、闇がぞろりと背を這い上がる。 『さあ、行こう・・・・我らの花嫁を迎えに。』 『彼』の声が誘う。 常夜の紅蓮の華たちが揺れる。 やがて青白い月が、蓮台野の景色を照らし、その真ん中に佇む忘れ得ぬ少女の姿を、瞳に映した時。 ―― 湧き上がったのは、確かに歓喜だった・・・・・・・ 〜 終 〜 |