花の中に華咲く春
卯月を過ぎ、桜の花びらが風に舞う頃には、山城は本格的な春を迎える。 冷たい冬を堪え忍んだ草花は、一斉に芽吹き野を一面の若草色に染め、小鳥や獣たちも暖かい春の日差しに浮かれたように姿を見せる。 もちろん、人とてその例外ではない。 まして今年の春は、長らく不在となっていたこの地の番方である鷺原家が見事家族の仇討ちを遂げた新当主によって再興し、僅かの間に荒れていた所領を立て直す手腕を見せたばかり。 さらにこの春を待ってその当主に、仇討ちの間彼を支えたという娘が江戸から花嫁としてやってくるというおめでたい話まで重なれば、それは浮かれるなと言う方が無理な話であろう。 実際、近隣の村では春を迎える祭がいつもよりも華やかに行われたり、再興された鷺原家の家臣達もやってくる奥方様の噂話を明るく話す姿が見うけられ、外の陽気に相まって、それは華やいだ雰囲気であった。 ―― ただ、一箇所をのぞいては。 「・・・・・・・・・・遅い・・・・・・・・・・!」 開け放した襖の外から柔らかな春の風が舞い込んできているというのに、それさえも一瞬で凍り付かせてしまいそうなほどに、地を這うような呻き声に、まだ鷺原家に仕えて日の浅い青年はびくっと震えた。 世間では鷺原家に入った新当主は若い上にたおやかな女子のような容姿だ、と侮る輩もいるらしいが、彼に言わせれば、そんな事を言う連中はきっと新当主の上辺だけしか知らないのだ。 確かに目の前で文机を前に座っている新当主は男の目から見ても実に美しく気品がある。 すっと伸びた背筋も曇り一つない白い肌も、涼やかな目鼻立ちもまるで人気役者顔負けだ。 が、美しい故に、その顔が押さえきれぬ苛立ちを浮かべる時の壮絶さたるや・・・・! ・・・・そう、鷺原家の美しき新当主、鷺原左京は、只今、超絶不機嫌真っ只中であった。 しかし、人が聞けばそれはおかしいというに違いない。 何故なら、左京は今、もっとも幸せな時期といっても良いはずだからだ。 「あ・・・・の、当主様。遅い、とは・・・・奥方様、で、ございますか?」 近習の青年が意を決して話しかけたように、左京の花嫁、香夜は今、まさに江戸から東海道を通って山城へと一路向かっている最中である。 まあ、もちろん、花嫁行列が予定を過ぎても着かないという様な事ならば、苛立ちのほども理解出来るのだが。 「しかし、その・・・・花嫁行列の出立は十日ほど前の事では・・・・?」 江戸から花嫁の行列が出発したという知らせは確かに十日ほど前に届いていた。 だとすれば、花嫁行列は今頃駿府あたりにいるわけだから、どんなに急いだところで山城まではあと数日かかることは子どもが考えてもわかることだ。 しかし、なんとか当主の苛立ちを緩和しようとした近習の青年は次の瞬間向けられた左京の恐ろしく底冷えする視線に氷ついた。 「ええ、そうです。確かに十日ほど前に連絡が来ていましたね。」 一見納得したような冷静そのもののお応えなのだが・・・・なんでこんなに部屋の温度が低く感じるのだろうか。 外からは小鳥のさえずる声も春の野の匂いもするのに、何故か左京の周りには吹雪が吹いているようにしか思えない。 近習の青年がぶるぶると内心で怯えているのに気づいているのかいないのか、左京は僅かに自嘲気味な笑みを浮かべた。 「私とて、わかってはいます。十日なら急いだところでまだ駿府。ましてあの人にとっては思い出ぶかい旅路だろうから、普通より時間がかかることぐらい覚悟はしていた。」」 そう口に出して左京はふっと小さく息を吐いた。 ―― 東海道を駿府まで。 それは確かに左京にとっても香夜にとっても思い出深い道行きだ。 幕府の命で偽花嫁行列を仕立てて、その偽花嫁を演じた香夜が今度は本当の花嫁として花嫁行列をすることになったのだから、運命とはおかしな悪戯をすると最初にこの計画を立てた時は苦笑したものだ。 家族の仇の情報を、偽花嫁行列を囮にして得ようと参加した仕事であったのに、その中で香夜に出会った。 真っ直ぐで無垢で眩しく笑う香夜は、あの時は自分とはまるで隔たった所にいるかのように感じていたのに、江戸で不覚にも傷を負った時に再会して。 それからはもう、あっという間だった。 あっという間に、左京は香夜に恋をしたのだ。 仇討ちをするために後ろ暗い事に黒く染めた手で触れていい相手ではないと己を諫める暇さえもなく、一生懸命自分の事を気遣う香夜の存在は左京の中へと入り込んでいた。 それはもしかしたら乾いた大地が降り注いだ水を必死に吸い込むのに似ていたかも知れない。 幼い頃に家族を失って以来、誰かを欲することなどなかったのに、香夜の傍は酷く心地が良くて、気が付いた時にはもう、誰にも渡したくないと思うようになっていた。 一度はその思いを封じようと離れた事もあったが、斬鉄に破れたり、行くべき道を見失ったりして迷った左京を支えてくれたのもやはり香夜で。 仲間の助けを得て無事に仇討ちを果たした後、香夜に想いを打ち明け、同じ想いを返してもらった時、どれほど嬉しかったか。 そして、江戸生まれ江戸育ちで大切な父親がそこにいるのに、左京の妻として山城へ嫁いでくれると言ってもらえた時、どれほど左京が内心舞い上がっていたか、きっと彼女は気が付いていないのだろう。 だから。 「・・・・この一年、本当に辛かった・・・・」 ぼそっと零れてしまったのは本音だ。 何せ、お家再興といっても八年も前に俸禄取りあげになった家を再興するのだ。 かつての家臣や使用人を探したり、親戚やお上に対しての挨拶や手続きがあったり、でとにかく忙しかった。 それをまだ恋仲の香夜に手伝わせるわけにはいかないから、自然と左京は江戸と山城を言ったり来たりするはめになり、せっかく想いが通じたというのに、ろくろく会う時間もとれなかったのだ。 (けれど、やっと香夜さんが妻として嫁いで来てくれる。) そうすれば、当たり前だが毎日顔は見られるし、声も聞けるし・・・・何より余計な心配をせずにすむ。 (・・・・あの人は本当に無防備だからな。) 香夜の何から何まで好きだとかなり確信をもって言える左京だが、こればかりは眉をひそめざるをえない。 とにかく香夜は警戒心が薄いのだ。 近所でも評判の看板娘だというのに、香夜目当てで店に通っている男がいることにもさっぱり気が付いていないし、少し親しくなった男だと無防備に笑いかけるし。 (江戸には油断ならない男がたくさんいるというのに・・・・) 特に縁とか、縁とか、縁とか。 仇討ちに力を貸してくれたことには心から感謝しているが、それ以外に関してはとにかく苛立たしい男のなれなれしい所行を思い出して、無駄に手に力が入ってしまったのか、筆がみしっと妙な音を立てた。 もっとも左京のいらん心配を煽ったのは縁だけではない。 見回りと称してちょこちょこ香夜の店に顔を出す螢も。 しょっちゅう狙ったように香夜の店の前で行き倒れて香夜に助けられている九十九丸も。 下心などまるでない爽やかな笑顔で香夜に会いに来る鈴懸も。 香夜の父親といつの間にか仲良くなったらしい実彰も。 多かれ少なかれ、香夜に特別な好意を持っていることは間違い無いとしたくはなかったが、左京は確信していた。 ・・・・さて、このあたりで話を元へ戻そう。 山城は盛春のみぎり。 華咲く季節におめでたく、鷺原家の花嫁行列が東海道をやってくる。 ・・・・が、しかし、まだ到着していないその一行は、花嫁の香夜を護るべく、腕利きの護衛達が万全の護りを固めている。 すなわち、偽花嫁道中の全員が、今、まさに春の盛りの東海道を香夜と一緒に旅しているのだ。 「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」 左京は顔には出さなかった。 顔には出さなかったが・・・・笑顔のまま、目だけ笑っていないというのは、下手に恐ろしい顔をされるよりも部屋の温度を下げる。 実際、後ろで控えていた近習の青年はわけがわからぬうちにまた一段階下がった当主を包む空気に「ひっ」と肩を竦めた。 しかし左京の頭の中は、そんな事を気にする余裕など、残念ながら欠片もなかった。 (東海道の皆さんは腕は絶対に確かですし、あれにまさる護衛はいなかった・・・・けれど。) 多分、偽ではなく本当の花嫁として花嫁衣装を着た香夜は、それは嬉しそうに笑っているに違いない。 そして、きっと鈴懸あたりは手放しでそれを賞賛するだろう。 (そうしたら、貴女は照れてその頬を染めるのでしょうね。) ・・・・いら。 どんなに順調に旅路を歩んでも、おそらくはまだ半分と言ったところ。 きっと九十九丸はしょっちゅうそこいら辺の名物に捕まっては、香夜と分け合って美味しい美味しいと食べているのだろう。 (きっと、香夜さんはそれを見て楽しそうに笑うんでしょう。) ・・・・いらいら。 偽花嫁道中の時には、やけにぴりぴりしていた螢も、元来面倒見のいい質だから、今回の旅ではきっとあれこれ香夜の面倒を見てくれるに違いない。 (・・・・ありがとう、と微笑むんでしょうね、貴女は。) ・・・・いらいらいら。 冷静沈着で人を思いやれる実彰は、遅くなりそうな道中をそれなりにはまとめてくれるだろうが、思いやりがあるがゆえに、楽しげな香夜を急かすような事はしないだろう。 (博識な彼に話を聞いては、驚いた顔をする香夜さんが目に浮かぶ。) ・・・・いらいらいらいら。 まして、縁は。 (・・・・縁殿は) 『姫、ほんと可愛いね〜!』 人間というものは、どうして別に想像もしたくないのにいらん想像をしてしまうものなのか。 頭の中で容易に想像出来た香夜に迫る縁の姿にさらにみしっと筆が歪む。 もうそろそろ、湾曲と言っていいぐらいだ。 『本物の花嫁衣装を纏って幸せそうな姫があんまり綺麗だから、俺、惚れ直したよ〜。』 考えなければいいのに、やに下がった縁が花嫁衣装の香夜に笑いかける様が浮かぶ。 もはや、外の陽気はどこへ行ったのか、当主の部屋だけが極寒の真冬だ。 『ねえ、本当に左京のところへ嫁に行っちゃうの?今からでも遅くないよ。俺の ―― 』 がたんっっっ!! 「!」 唐突に、文机が大きな音を立ててびくっっと跳ね上がった近習の青年が顔を上げると、何故かそこにはすっくと立ち上がった左京の姿があった。 「と、当主様・・・・?」 問いかけが完全に恐る恐るになったのは、左京が放つ何やら禍々しい空気と、しっかりと握られた蛍丸の存在感のせいだろう。 なんかうっかりしたことを言ったら、ばっさりやられそう・・・・という恐ろしい雰囲気のままくるりと振り返った左京は。 「あの・・・・」 どうしたんですか、と問う事もできずに見上げてくる近習の青年に、何か吹っ切れたように・・・・否、何か切れたようににっこりと笑って言った。 「迎えに行ってきます。」 「―― は・・・・?」 その言葉の意味を、近習の青年が捉えられなかったのも無理はない事であろう。 しかしそんなことはおかまいなしに、左京は蛍丸を背負うと恐ろしく迷いのない足取りで絶対零度にたたき落とした部屋を出て行こうとする。 目の前を左京の足が通り過ぎて、廊下へ出て行こうという段になって、初めて近習の青年は我に返ってはしっとその裾を掴んだ。 「ととと、当主様!?迎えに行くって、まさか花嫁行列をですか!?」 「そうに決まっている。だから離しなさい。」」 「離せって、離せませんよ!花嫁行列を花婿が迎えに行くなんて話聞いたことありませんから!!」 「そんなことを言っている間に、あの人が縁殿の毒牙に掛かったらどうする!!いや、もちろん、香夜さんの心は信じてはいますが、あの人の美しさに目がくらんだ誰かが攫って逃げないとも限らない!」」 「は!?よよ、よくわかりませんが、とにかく落ち着いて下さいーー!」 「落ち着いていられものですか!私が香夜さんにろくろく触れられていないのに、誰かに触らせたりするものか!・・・・もう、限界なんだ。行かせてくれっっ!!」」 「どちらにしても、今から駿府まで行くつもりですか!?ああ、もうどこからお諫めすればいいのか・・・・!」 ―― 山城の国は春真っ盛り。 再興したばかりの鷺原家の屋敷も、それはそれは賑やかで。 「ああ、振り払って行かないで下さい!当主様ーーーーーーーーーー!!!」 春霞の空に響き渡る近習の声と、美しい顔に必死の形相を浮かべて走る鷺原家当主の姿を見た者達は、驚きながらも、鷺原の御当主がベタ惚れの花嫁とはどんな娘かと期待に胸を膨らませたのだとか。 ―― 今年の春はどんな花よりも、鷺原の花嫁が一番美しく華咲くだろうと笑いながら。 〜 終 〜 |