月光夜話



風呂上がり、縁側を歩いていて、ふと軒を掠めた月が九十九丸の目に入ったのはほんの偶然だった。

「あ・・・」

今夜の月は満月のようで、春霞の空にしては珍しく漆黒の空にぽっかり穴を開けたように煌々と輝いている。

(見事だなあ。華のお江戸でも田舎の遠野でも見える月は一緒なんだな。)

そんなことを思いながら、なんとなく縁側から庭へ出るため草履を探した。

当たり前のように三つ置いてあった草履から自分のを引っかける。

二、三歩歩いて庭へ出た所で、まだ慣れないくすぐったさに、九十九丸は僅かに笑った。

(俺の家、って感じがする。)

かつて、剣取り御前試合に出るために滞在していた時は、一応は期間限定の使用人だった。

もっとも、香夜もその父も九十九丸の事を家族のように扱ってくれていたから、いつの間にかすっかり居心地がよくなってしまったりもしたのだが。

しかし、今の九十九丸は違う。

一時期は二度とこの家へ戻ることは出来ないのではないかと覚悟したこともあったが、故郷の遠野でまさに死線を彷徨う出来事をへて、人としての生をとりもどした九十九丸はその困難に一緒に立ち向かってくれた香夜と一緒に江戸へ帰ってきた。

(・・・・そう考えると、随分色んな事があったんだな。)

同じ庭で同じ月を眺めていても、一年ほどの間に随分と変わったものだとしみじみ思う。

(一年前は己の秘密など知らずに剣取りだけを目指してここへ来ていた。)

剣取りをして、伝書をもらって、日の本一の侍になる。

それが全てで、それを叶えられるのなら、先のことなどどうでもいいと思っていた。

(けど、結局、それではダメだったんだな。)

ただ一つの思いだけで構成されている刃は研ぎ澄まされている。

けれど、不純物が少ないほど美しいと同時に脆いのだ。

日の本一の侍になって、それで何をするのか。

結局の所、九十九丸にはその剣の切っ先の先が見えていなかったのかも知れない。

今思い返すに、あの時の自分は無意識にその願いに縋っていたのだろう。

(・・・・マレビトの事を知らずとも、己がどことなく他と違っているのはわかっていたから。)

子どもと言うのは大人が思っているより多くを見ているものだ。

優しかった故郷の人達が、時折、自分を悲しそうな目で見ることに気が付いていた。

どう見ても刀傷の跡としか思えない、胸の裂傷を土砂崩れの時の怪我だと言う度に義理の両親が辛そうに目を伏せることも。

(それでも田一や師匠と剣を振るっていれば、俺も他の人と同じ様に剣を振るえるのだと確信していられた。)

だから侍になろうとした。

剣を手に日の本一の侍になれれば、己も他の人と変わらぬ一人の剣士になれるのだとそう思っていたかった。

追い詰められたような、微かに切ないかつての思いを追想して、九十九丸は己の手にふと目を落とす。

月明かりに照らされる自分の手は、以前この庭で剣の稽古をしていた時とは、明らかに違っていた。

「でかくなったよな。」

月の光に晒すように目の上に手を掲げて、九十九丸は少し笑った。

遠野で常夜から帰ってきて、九十九丸の身体は本来の二十歳に相応しい身体へと成長を遂げていた。

(もっとも、あんまり急だったから、帰ってきた時の皆の反応がすごかったなあ。)

何分、その経緯がとても人に信じてもらえるようなものとも思えない事情だったため、さて、どう説明したものかと江戸への帰り道、随分香夜と思案したものだ。

香夜の父には信じる信じないは別として全部話すことには決めていたが、さて他の友人達は・・・・と考えた結果、急な成長期で無理矢理押し通したのも記憶に新しい。

(まあ、旅に出てたのは二ヶ月ちょっとだから。それで五年分でかくなってきたら誰でも驚くか。)

予想通り江戸へ帰って顔を会わせた友人達は一様に目を丸くしたものだ。

もっとも、目を丸くした上で、成長期とか嘘だろ!?と常識的な突っ込みをしてきたのは螢ぐらいで、鈴懸はどうやったらそんなに大きくなれるの?と目を輝かせて聞いて来たり、他の三人は何か悟ったようにそうですか、と頷いてそれ以上一切聞いては来なかったが。

その時の皆の反応を思い出して少しおかしくなって、九十九丸は笑う。

幸い香夜の父は包み隠さず全部説明したこれまでの事情を信じてくれた。

その上で、香夜と世帯を持ちたいという九十九丸の言葉に、嬉しそうに頷いてくれて・・・・そうして、この店は九十九丸の家になった。

「・・・・本当にいろいろあったな。」

一年前、この月の下、この庭で剣を振るっていた時に、九十九丸にあったのは無名の剣一振りと志、その根底にある拭いきれぬ不安だけだった。

それが今はどうだ。

友人、帰るべき家、新しい家族、振るう意味が変わった剣・・・・そして愛しい人。

この手に何と多くのものを掴んだだろう。

口角を上げて、ふうっと九十九丸は息を吐き出した。

春半ばの温んだ空気が緩やかにかき乱される。

再び見上げる白い月は、柔らかい光を落としてどこか微笑んでいるような気がして。

(さすがに、それは気のせいか。)

月にまで祝福されていると思えるほどの、自分の浮かれぶりに少し苦笑した。

どうも、一度は黄泉路を下ったせいか、自分は月に近しい気がして、ついあの月も今の自分を喜んでくれているような気がしてしまった。

随分と大きくでたものだな、と自分の考えを僅かばかり笑った、刹那。











―― どんっ!!










「おおぁっっ!?」

唐突に背中に何か突っ込んできた衝撃と体温に、思わず九十九丸は妙な声を上げてしまった。

完全な不意打ちだったが、なんとか踏みとどまれたのは、突っ込んできた主が彼より小柄であった事と、九十九丸自身の反射神経のおかげであろう。

他の場所であったなら、何かの奇襲かと思うほどの勢いであったが、ここは家の庭である。

加えて、店はとおに閉めた後の宵の口。

ともなれば、こんな事をする人物は限られてくる上に、ぎゅうっと抱きつかれる感触にも胴に回された手にもありすぎるほど見覚えがあった。

「香夜?」

振り向きもせずにそっと問いかける。

「・・・・」

答えはなかった。

けれど、ぎゅうっと更に抱きつかれた腕は言葉にならない答えを返していた。

「その・・・・」

どうしたんだ、と問おうとして、九十九丸はふと気が付いた。

自分を抱きしめている香夜の腕が、微かに震えている事に。

(・・・・もしかして)

自分がふとこの庭に立ってかつてのことを思い出したように、香夜もまた、庭に立つ自分を見て、かつての事を思い出したのだろうか。

(そう言えば、月の明かりを浴びる俺を見て、消えてしまいそうだと思った事があったと言っていた。)

ふと目を離したら月の明かりに溶けて消えてしまいそうだった、とそう零した香夜を思い出す。

思い出話のように語っていたのに、それでいて切なそうに寄せられた眉が、その時、どれほど彼女を不安にさせたかを物語っていた。

だから、きっと今も、月の光を浴びている九十九丸を見て、不安になったのだろう。

不安になったから、居ても立ってもいられずに駆け寄って引き留めてくれているのだろうか。

ふと確かめてみたくなって、腹あたりにある香夜の手に自分の手を触れさせると、香夜はまるでふりほどかれまいとするかのように、ぎゅうっと力をいれてくる。

その力に、そのまま心臓を締め付けられたような気がした。

(・・・・俺は、酷い奴だな。)

香夜を不安にさせたとわかっている。

いつもは少し恥ずかしがり屋な香夜が唐突にこんな行動に出たのだから、よほどの事だと。

でも ―― こうして引き留めてくれた事が、嬉しいと思ってしまった。

どんな表情をしているのか、自分でもわからないまま、九十九丸は自分たちを見下ろしている月を、もう一度見上げる。

(ああ・・・・俺は以前より大分、欲張りになったかもしれない。)

かつてこの月を見上げていた時に、欲していたのは剣の道だけだった。

けれど、今は違う。

今、何よりも欲しているのは、どんな時でも自分を引き留めてくれる、香夜だ。

恋仲になって、祝言を挙げて、香夜の気持ちが自分に向いているとわかっているのに、それでもなお、彼女の気持ちが欲しいと際限なく思ってしまう。

だから。

「香夜。」

月から視線を自分の胴に回された手に落として名を呼ぶ。

そして抱きついている手に今度は被せるように手を添えれば、香夜の手がぴくっと動いて。

「・・・・どこへも行かないで・・・・」

普段はしっかり者で、時には凜とした意見も言える香夜の、聞いた事もないような細々とした訴えに心が震えた。

こんなにも望んでくれている、必要だと思ってくれている・・・・意図的ではなかったとはいえ、それを確信させるような声に、後ろめたい幸せが湧き上がる。

(どこへも行くわけがないのに。)

すっぽりと自分の手に収まってしまう香夜の手を愛しげに包んで、九十九丸は少し笑った。

(俺は・・・・こんなにも君が好きだから。)

こうやって香夜が九十九丸を引き留めているように見えて、実は香夜の方が九十九丸に囚われているのではないか、と思う事もある。

気立てが良くて明るい香夜は、こんな面倒で不安定な自分よりもきっと幸せになる道があったのかもしれない。

でも。

(離れようったって、離さないさ。)

九十九丸が手に入れた、何よりも大切な生きる意味。

それを手放す時は、今度こそ彼岸に渡るために三途の川へ行く時だと決めている。

否、もしかしたらあの曼珠沙華が咲き乱れる常夜へ行ってなお、自分は彼女を離す気がないかもしれない。

それぐらいに。

(・・・・愛しい、から。)

だから、まずは振り返って、きっと震えているであろう香夜の体をを抱きしめよう。

そして思い切り、不安など感じないぐらいに愛していると伝えるのだ、と決めて。

九十九丸は香夜の手を掴むと、引き寄せるように引いて振り返ったのだった。















―― かつて、剣だけを握っていた手に愛しさを抱きしめるように。
















                                              〜 終 〜
















― あとがき ―
幸EDで無事に九十九丸が帰ってきたのはよかったんですが、しばらくは香夜ちゃんはこんな感じなんじゃないかなあ、と。
そのたびに、九十九丸は抱きしめて大丈夫、どこへも行かないとなだめると良いと思います。