あまいのは飴か罠か
「おや、なんだかご機嫌がよさそうですね?」 隣で片付けをしていた香夜の様子に、ふと床に雑巾を掛けていた鷺原左京がそう聞いたのは、江戸もそろそろ暑くなり始める頃のとある午後だった。 悲願だった家族の仇討ちも果たし、鷺原家の当主となる事よりも、江戸で小さな寺子屋を開く道を左京が選んだのは、春の終わり。 それから、仇討ちの過程で知り合った光悦や、香夜の知り合いなどの伝手を頼って、やっと寺子屋と道場を一緒に開けそうな物件として見つけたのがこの空き家だった。 もっともしばらく人が住んでいなかったとかで、手入れや掃除は必要だったが、それはまったく苦にはならなかった。 大仕事は東海道の仲間達が面白がって手を貸してくれたし、それ以上に、料理屋の手伝いの傍ら、香夜がこまめに通ってきては一緒に掃除や仕度を手伝ってくれたからだ。 どうも旗本の出の感覚が抜けずについ値段を気にせず良い物を買い求めてしまいそうになって、慌てた香夜に止められたりするのが何とも言えずにくすぐったくて楽しかった。 まだ祝言も挙げていないのに、こんなに実家から連れ出して手伝わせるのは如何なものか、と最初、左京は思ったのだが、彼女の父上への印象が比較的良かったのが幸いして、彼女の父自身が行ってこいと送り出してくれているらしい。 その話を聞いた時は、怪我をして香夜に匿われた時の事など絶対にばれるわけにいかないな、と口元を引きつらせたものだ。 何はともあれ、そんな調子で今日も香夜が昼時の忙しい時間を過ぎたところでやってきてくれて、二人で道場にする予定の部屋に雑巾がけをしていたところだったのだが。 機嫌が良さそう、とあえて左京が指摘したのは、いつもよりも香夜の笑顔が多いように感じたからだ。 この家の手入れも香夜はいつも楽しそうにやってくれるが、今日はいつも以上に上機嫌に働いているように見えた。 ということは、だ。 いつも楽しそうにしてくれているのは、左京と一緒にあれこれできるからだ、と自惚れを差し引いても左京はそう分析していた。 何しろ色々あって(正直、良く彼女は自分を選んだものだとは思っているが)、やっと恋仲になった相手と一緒にすごせるのだ。 左京自身が心が浮き立っているのだから、同じ想いを持っているはずの香夜だってそうなんだろう。 そう思うから、二人でいるだけでなんだかくすぐったいものもあったのだが、今日はそれに加えるように機嫌が良い。 つまり、左京と一緒にいる、という状況に加えて、更に何か良いことがあったとしか思えないわけで。 (・・・・何が香夜さんを喜ばせたか知っておきたい。) こう見えて独占欲は強い方だと自覚のある左京は、香夜の笑顔の理由を知っておきたいと問いかけたのだ。 と、まあ、そこまで左京が考えているとはおそらく夢にも思っていない香夜は、左京の問いかけに雑巾がけの手を止めて、えっと目を丸くした。 「機嫌、良さそうに見えます?」 「見えますね。いつも以上に楽しそうです。先ほどは鼻歌も歌っていましたし。」 さりげなく余計な一言を付け足すと、自覚の無かったらしい香夜が頬を赤くした。 「歌ってました?」 「はい。可愛らしい声で。」 「〜〜〜。」 そこに嘘偽りはなかったのでにっこり笑うと、より香夜の頬が赤みを増した。 そしてはあ、とため息をつくと「実は・・・・」と口火を切った。 「午前中にお店に鈴懸が来たんです。」 「鈴懸が?」 実はほんの少し予想していたのだが、それでもそれが的中して飛び出した東海道の仲間の名前に左京はぴくっと眉を動かした。 その反応には気が付いていない香夜は、はいと頷くと話を続ける。 「近くの患者さんの所へ往診に来たついでに早めのお昼を食べると寄ってくれたんです。」 「そうですか。鈴懸は相変わらず熱心ですね。」 「はい。それでうちに寄ってくれた時に・・・・その、飴を。」 「飴?」 意外な単語におや、と首をかしげると、香夜はちょっとはにかんで「子どもっぽいかもしれないんですけど」と前置きをして言った。 「患者さんから一杯もらったからって、飴をくれたんです。その飴って言うのが美味しいって評判の店のものだったんですけど、人気過ぎて普段はほとんど手に入らないので。」 一度食べてみたいと思っていたので、嬉しくなってしまって、と笑う香夜に、顔には出さないが、左京の胸の奥にもやっとした感情が溜まる。 (鈴懸ですか・・・・) にこにこと邪気のない笑顔を浮かべる少年の顔を一瞬思い浮かべる。 きっと彼の事だ。 香夜がずっとその飴を食べたがっている事など知らずに、本当にただ沢山もらったからという理由で香夜の店によって彼女にそれを贈ったのだろうと容易に推測できる。 けれど、無意識だろうが偶然だろうが、香夜を笑顔にしたのが別の男というのはやっぱり気にくわなかった。 さっきも言った様に、きっちり独占欲は強い方なのだ。 こと、香夜に関しては。 ということで ―― 「・・・・?左京さん?どうかしましたか?」 香夜との話の途中で、僅かに黙ってしまった左京の態度に不安になったのか、香夜が眉を寄せて覗き込んでくる。 その仕草に、ほんの少しどきりとしながらも、左京はにっこりと笑って見せた。 「いいえ。それは、どのようなものなのだろうかと思っていました。」 「え?飴ですか?」 「はい。それほど貴方の心を惹くとはよほど美味しそうなものなのでしょうね。」 さりげなく強請る言葉を言えば、香夜はぱっと笑顔を見せた。 「それならちょうど良かったかも!せっかくなので持ってきてたんです。持ってきますね!」 多分、自分が好きなものに左京が興味を示したことが嬉しかったのだろう。 うきうきと部屋を出て行く香夜の背中を見送って・・・・。 「・・・・普段は甘味を嗜まない私がこんな事を言い出した事を不審に思って下さる貴方なら、私はこれほど心配しなくて済むんでしょうね。」 まんまと自分の仕掛けた罠にはまってしまった香夜を思って、やや複雑なため息をついたのだった。 もちろん、まさかそんなこととは思っていない香夜は言葉通り、すぐに小さな巾着袋を持って戻って来た。 「これなんです。可愛いでしょ?」 にこにこといかにも嬉しそうな顔をして見せる香夜に、左京もつられて微笑んだ。 笑顔の原因が自分でないことは複雑だが、香夜の笑顔はやはり心を浮き立たせる。 「中に飴が入っているのですか?」 「はい。ほら。」 そう言って香夜が広げて見せた巾着の中には、可愛らしい金色の飴がいくつか詰まっていた。 大きさもそれほど大きくもなく、綺麗な色の飴はいかにも女子が好みそうだ。 「この巾着袋も可愛いって評判で、なかなか手に入らないんですよ。お松ちゃんと何度か挑戦したんですけど、買えなくて・・・・。」 残念そうな顔をする香夜に苦笑する。 「それはなかなかの商売上手な飴屋のようですね。」 飴そのものだけではなく、それを包装するものまで考えて女子の興味をそそるというのは、なかなかにいい手だ。 実際にその戦略に乗ってしまっている香夜はちょっと苦笑して言った。 「やっぱりついこういうのも気になってしまって・・・・。子どもっぽいですか?」 少し不安そうにつけたしたのが妙に可愛らしくて、くすりと左京は笑った。 「いいえ。しっかり者の香夜さんにもそういう興味があるのかと新鮮でした。」 「そんな・・・・」 返事に困ったようにそう呟く香夜に、左京はさりげなく飴を覗き込んで言った。 「貴方がそれほど興味がある飴というのも気になりますね。」 「あ、はい!もしよかったら一つ食べて見て下さい!私もさっき食べたんですけど、美味しかったですよ。」 そう言って袋を差し出す香夜を見て、左京は内心苦笑した。 (ここまで見事に誘導に乗ってしまうとは・・・・) 今の自分としては嬉しいが、またいらん心配のもとがふえてしまったと思いつつ、左京は巾着袋と自分の手を見比べてさらっと言ってのけた。 「・・・・ああ、すみません、香夜さん。」 「え?」 「ちょうど雑巾がけをしていたので、手が汚れてしまっていました。もし良ければ、食べさせてもらえませんか?」 「食べ・・・・ええっ!?」 半拍置いて目をまん丸く見開いた香夜が、かああっと赤くなる。 鼻歌を指摘した時とは比べものにならない赤くなりぶりに、思わず笑い出してしまいそうになりながら、なんとか堪えた。 ここで拗ねられてしまっては、せっかくの仕込みが水の泡だ。 そんな左京の苦労が実ってか、香夜は戸惑ったように自分の手の中にある巾着袋と左京を見比べる。 「食べさせるって、私が、ですか?」 「ここに他の人はいませんね。」 にっこりと、やや圧力をかけるように笑うと、香夜が「うう・・・・」と妙な呻き声を上げて、固まってしまった。 (さて、食べさせてくれますかね?) 勝率は五分五分、と読んでじいっと見つめていると、香夜は俄におろおろとし出して・・・・。 「えっと、それじゃ・・・・」 かなり迷ったあげくに、香夜は巾着袋の中から一つ飴を摘むと、そおっと差し出してくる。 (ああ・・・・まったく) その困ったような顔が、赤くなった頬が、どれほど左京の心をかき乱しているか、きっと香夜はわかっていないのだろう。 さりげなく開いた左京の唇におずおずと飴を運ぶその指が、妙になまめかしく感じて、自分で仕掛けたくせに左京は呻きそうになった。 香夜の緊張が伝わったように、どきどきと鼓動がうるさい。 なんとかそれを顔に出さないように気をつけているうちに、ころん、と口の中に飴玉が転がり込んできた。 「っ」 舌先に甘い味が広がったと同時に、やり遂げたように香夜がほっと息をつく。 そして赤い頬のまま、ふわっと笑って言った。 「ね?おいしいでしょ?」 その柔らかい笑顔に、どくんっと大きく鼓動が跳ねて ―― 「きゃっ!?」 次の瞬間、 一度離れた香夜の手を左京は捕まえて引き寄せていた。 油断していたのか、あっけなく胸に倒れ込んでくる香夜を抱き留めて。 「んっ・・・・!」 目を丸くして見上げてきた香夜の唇をやや強引に塞ぐ。 「・・・ん・・・・っ・・!」 心構えがなかったせいか僅かに眉を寄せて薄く開いた唇に、舌を忍ばせればびくっと香夜が肩を跳ねさせて左京の着物を握ってくる。 それでも突き放されない事を確かめて、左京は香夜の後頭部を押さえてより深く唇を重ねる。 「・・さきょ・・・・んん、・・・・」 (・・・・あまい) 香夜の苦しそうに零れる声が、ふれ合う唇と吐息の熱が。 口の中にある飴の味ではない甘さに頭がくらくらした。 もっともっと、と危うく本来の目的を忘れかけたが、何度か口付けを重ねた後、左京は自分の口の中に在った飴を、さりげなく香夜の唇へ押し込んだ。 「ん!?」 香夜が驚いてぱかっと目を見開いたところで、やっと左京は唇を離した。 「さ、左京さん・・・・!?」 何でとか、どうしてとか、疑問と混乱がまるっきり顔に出ている香夜の視線に左京はしれっと笑う。 「その飴は、確かに美味しいのですが、私には少し甘すぎるようです。」 「な・・・・!?」 一気に真っ赤になって思わず口を押さえる香夜を左京は満足そうに見つめた。 (これで、飴をくれた鈴懸より私の方が記憶に残ったでしょう・・・・なんて私が思ってると知ったら貴方はなんというのでしょうね。) 口に残った甘さは、飴の味か、口づけの余韻か。 それとも、君と過ごす時間の甘さか。 ―― 仇討ちだけを考えていた頃にはまったく想像も付かなかったような自分の思考に苦笑しながら、それでもきっと自分にとって一番甘い罠にはまってくれた香夜の反応を左京は笑顔で見つめるのだった。 〜 終 〜 |