『甘えてください』の結末
愛した人に甘えて欲しい、と思うのは案外と男女ともにある感情である。 甘えるのが下手な人が甘えてくれたら愛情表現のようで嬉しいし、普段は頑張り屋な人が疲れていたら、甘やかしてあげたいと思ってしまうだろう。 ちなみに、今回の香夜の場合は後者であった。 というのも、香夜の夫である九十九丸はいつもにこにこしながら、なんでも頑張ってしまうところがある。 かなりの天然なので、それが災いして必要以上に頑張っている時もあるが、概ね彼は気遣い屋で、例え疲れていても周りを心配させないように、なんでもないように振る舞うところがあった。 だから、最近店が忙しかったせいで珍しく夕食を食べている最中に疲れたようなため息を零した九十九丸を見て、香夜は思ったのだ。 たまには甘えて欲しい、と。 そんな思いつきは存外良い考えな気がして、夕食の後に部屋へ戻ってから九十九丸の目を丸くさせるような発言へ繫がることになった。 すなわち ―― 『九十九丸、たまには甘えて?』 「―― ねえ、本当にこんな事で良いの?」 柔らかい行灯の光が夜闇を退けて広がる暖かい部屋で、香夜はなんとも微妙な表情でそう問うた。 その何か物言いたげな視線が見下ろすのは・・・・己の膝の上。 本来なら正座した夜着の膝が見える場所だが、今は膝は見えない。 代わりに目に入るのは、黒く散らばった髪と、満足そうに目を細める九十九丸の顔だ。 「いいに決まってる!それとも、香夜は嫌か?」 大きく肯定した後で、はたと思いついたようにそう言う九十九丸に「そういうわけじゃないけど」と香夜は首を振った。 (ただ、こんな事を要求されるとは思わなかったわ。) 香夜がそう思うのは、問いかけをする時に自身が想像していた事の中に「膝枕」という選択肢がなかったからだ。 (私だって具体的にどう甘えて欲しいと思っいたわけじゃないけど、疲れを癒したいと思っていたから・・・・) 「ほら、例えば按摩とかでもいいよ?」 以前に冗談半分に試した事もあったのでそう提案したら、今までにこにこしていた九十九丸の顔が何故かやや引きつった。 「や、その・・・・・・・香夜は上手すぎるから・・・・・すごく、痛いし・・・・・・」 「?」 言葉の後半はもごもごとして聞き取れず首をかしげた香夜に、九十九丸は慌てたように一つ咳払いをした。 「と、とにかく、俺はこれがいい。」 「そう?」 「ああ。それより、香夜は足が痛くなったりしないか?」 頷いた後に、気遣うように見上げてくるのがいかにも九十九丸らしくて香夜はくすっと笑った。 「大丈夫。結構鍛えてるから。九十九丸こそ、首は痛くない?」 正直、している身としては膝枕というのはそれほど良い枕ではない気がする。 (第一、ちょっと高いし。) 正座しているのだから物理的に高めの枕になってしまう・・・・などと至極現実的な事を考えた香夜とは対象的に九十九丸はふにゃっと相好を崩した。 「大丈夫だ。あー・・・・幸せだなあ。」 「・・・・・」 嘘偽りなく本気でそう言ってます、とそのまま伝わってしまうような蕩けた笑顔に、香夜は今更ながら少し恥ずかしくなって、九十九丸の顔から僅かに視線を外した。 そうすると寝仕度を済ませていたため結っていない黒髪が膝から零れているのが目に入る。 手持ちぶさたに任せて、なんとなく香夜はその髪を掬った。 芯のある真っ黒な九十九丸の髪は、それでも案外とすんなり香夜の指を抜けていく。 「ふふ、意外とさらさらしてる。」 「そうか?」 「そうよ。私は猫っ毛だから少し羨ましい。」 そう言ってちらりと横目で見た自分の髪は緩やかだが波打っている。 香夜の髪は細くて柔らかいので、どうしても真っ直ぐにはならないのだ。 「お松ちゃんみたいな綺麗な髪だったらいいなって憧れた事もあったんだけどね。」 こればっかりはどうしようもなかった、と苦笑してみせると無造作に九十九丸の腕が伸びてきて香夜の髪をお返しのように梳いた。 「俺は香夜の髪、好きだ。」 九十九丸らしい直球な言葉に香夜の心の蔵がとくんと一つ跳ねた。 そして言葉以上に自分の髪を愛おしむように絡む九十九丸の指先に、自分でもわかるぐらいに頬が熱くなる。 「もう・・・・相変わらずね。」 「?何かまずいことを言ったかな?」 途端に眉をハの字に寄せて見上げてくる九十九丸が主人に叱られた子犬のようで、思わず香夜はぷっと吹き出した。 「大丈夫よ、そんなことはないから。ちゃんと嬉しかった。ただ、ちょっと驚かされただけ。」 「そうか。」 香夜の笑顔に九十九丸はほっとしたような顔をする。 そうして再び会話が途切れると、九十九丸の指は香夜の髪を滑って、自分の髪を梳いていた香夜の手を掴んだ。 「?」 (どうするのかしら?) なんとなくされるがままになっていると、九十九丸は香夜の右手を目の前へ持ってきてまじまじと見る。 それがあまりにも熱心なので、次第に居心地が悪くなった香夜は耐えきれずに抗議した。 「あんまり見ないで。」 「?どうして?」 「どうしてって、その・・・・あまり綺麗じゃないし。」 そう言ってちょっと複雑な気分になる。 香夜は母を亡くしてからずっと父を手伝って家事や店の仕事をしてきたし、長刀の稽古でも怪我する事もしょっちゅうなので、けして白魚のような手とは言い難い。 そんな自分の手が嫌いなわけではないけれど、やっぱり好きな人にはなるべく綺麗な自分を見て欲しいと思うのが乙女心という物であろう。 (・・・・まあ、でも九十九丸に乙女心を説いても首をかしげられそう。) と、思わず香夜が思った通り九十九丸はじっと見ていた香夜の手を通り越して不思議そうな視線を寄越してくる。 「綺麗だと思うが。」 「え?」 「香夜の手。ほら。」 そう言って九十九丸は自分の手と組み合わせるように香夜の手を握った。 手全体から伝わって来る体温がちょっとくすぐったくて、少し首を竦めると九十九丸は楽しそうに目を細めて言った。 「ほら、俺の手に比べてこんなに小さいし、指だってこんなに細い。それなのに香夜の手は美味い物も作れるし、長刀も振るえるんだ。」 まるで幼い子どもが宝物を自慢するように嬉しそうに言うから、香夜は思わず笑ってしまった。 「ん?何で笑うんだ?」 「だって九十九丸ってば、私の手の事なのに、私より気に入ってるみたい。」 冗談のつもりでそう言ったのに、何故か九十九丸は驚いたように目をしばたかせた後。 「多分、そうだと思う。」 「そうだとって」 「俺は多分、香夜が自分の事を思う以上に香夜の事が好きだ。」 「っ」 さすがにこれには香夜も絶句した。 けれど、そんな香夜の驚きにも九十九丸は動じた様子もなく、あろうことか、握っていた手を引き寄せると、指の背に口づけを落とした。 「なっ・・!」 どきんっと跳ね上がった鼓動に思わず香夜が空いていた片手で口元を隠そうとすると、それより早く九十九丸の手に阻まれてしまった。 「~~~、」 為す術もなく赤くなっていく顔を九十九丸は相変わらず目を細めて見つめている。 「もう・・・・」 その少し意地悪な視線にとうとう香夜はぷいっとそっぽを向いた。 それでも絡められた片手は解かないから、きっと本気で怒ってるわけじゃないのはばれているだろうけど。 (・・・・これって甘やかしてるって言うのかしら。) どちらかというと私が振り回されているだけのような気がする・・・・と、至極根本的な疑問が頭をよぎるが、さすがにそれを口にするのはちょっと悔しい。 そんなことを思っていたら握っていた手が少し引っ張られて。 「香夜。」 呼ばわる声は少し寂しそうな、でも笑っているような柔らかい声。 「香夜。」 (・・・・うう、膝枕ってずるい。) 思わず香夜が心中そう呻いたのは、どんなにそっぽを向いても膝に乗っている九十九丸の眉が下がったのが見えてしまったから。 置いて行かれた子犬のような九十九丸のこの表情に香夜が滅法弱い事を知っていて彼がしているなら、大した策士だ。 (多分、そんなことないんだろうけど。) なんせ天然だから・・・・と思ってしまうと拗ねていた気持ちもどうでもよくなってしまう。 でもせめて何か言い返してやろうか、と考えながら香夜が視線をもどした ―― 刹那 ちゅっ。 「っっ!?」 ふっと膝が軽くなったと思った瞬間、唇に触れた感触に香夜は目を見開いた。 しかし羽根のように触れただけで、一瞬の幻だったかのように九十九丸は香夜の膝へ戻っていた。 「~~~~」 別に九十九丸と口付けするのが初めてというわけではないが、不意打ちのそれはやっぱり心臓に悪くて、ぱくぱくと口を開く香夜を見ながら、満足そうに九十九丸は目を細めて笑った。 「うん、やっぱりいいな、膝枕。香夜のいろんな顔も見られるし、触れられるし、いい。」 そう言って未だに離してくれない香夜の手にすりっと頬ずりする姿は、まるで飼い主に甘える子犬で。 (・・・・私、もしかして早まった事言った?) ふとそんな考えがよぎったのは、簡単すぎる要求なのではないかと思っていた膝枕が意外に心臓に悪そうだと実感したせいと。 「香夜。大好きだ。」 「!」 存外臆面もなく甘い言葉を囁く唇が、触れる度に熱を帯びていることに気が付いたせいかもしれない。 (――・・・・でも、九十九丸がこんな風に笑ってくれるなら、時々は甘やかしてあげてもいいかな。) もう一度、と触れてくる唇を受け止めながら、こっそりそう思ったことは、しばらくは内緒だけど。 ~ 終 ~ |