おそらく私は臆病なのだとうと思う。 目をふさいで、耳をふさいで・・・・そうしておかないと ―― 真緋(あか)く染める、思色(あか)く染まる 「うわあ、綺麗ですね!」 半歩ほど後ろを歩いていた香夜が歓声を上げるのを聞いて、左京は微笑みを浮かべた。 振り返れば、香夜は、斜め上を見て目を輝かせている。 それもそのはず。 左京が香夜を連れてきたこの場所は、紅葉の名所として有名な場所である。 そして今まさに木々は、その名に恥じぬ見事な深紅の枝を広げているのだから。 「気に入って頂けてよかったです。と言っても、少し終わり気味になってしまいましたが・・・・」 左京がそう言うと、香夜は大きく首を横に振った。 「まだまだ綺麗ですよ!それに足下もほら!」 そう言って嬉しそうに香夜が見下ろす先には、見事な紅の絨毯が広がっていた。 「最盛期の時だとこんな風にならないから、返って綺麗ですよ。」 気を遣っているわけではなく、本心からそう言っているような香夜の様子に、左京は嬉しさと一さじの申し訳なさを感じた。 (本当はもっと早くに見に来るはずだったのに。) そう、左京が香夜を紅葉狩りにと誘ったのは十日ほど前の事。 この春、山城の左京の元へと嫁いできた香夜には、これが初めての山城の秋になるからなるべく美しい景色を一緒に見たくて誘ったのだが、その直後から肝心の左京が忙しくなってしまってなかなか時間を作れなかったのだ。 「それに左京さんはお忙しいですし。」 責めているような口調ではなかったが、思っていた事を言い当てられたような気がして左京はどきりとする。 「すみません。」 思わず謝罪を口にすると、香夜は驚いた様に首をふった。 「違うんです、不満とかじゃなくて・・・・」 「わかっています。香夜さんは私を気遣ってくれたのでしょう?それはわかっているのですが、私が謝りたかったのです。」 「そんな・・・・」 香夜が少し戸惑ったように眉を寄せるのを見ながら、左京は小さくため息をついた。 「せっかく貴方が嫁いできて下さったというのに、日々私が忙しくて貴方とちゃんと過ごせる時間があまりとれていませんから。つまらない思いや寂しい思いをさせてしまっているのだろうと思って。」 「そんなこと!」 ありません、と言いかかって、香夜は少し口ごもった。 そうして、ほんの少しだけ気まずそうな目をして、勢い込んで言いかけた声の半分ほどの大きさで呟く。 「あの・・・・寂しい、はちょっとあるかもしれませんけど。」 その言葉の内容、その態度を見れば、寂しい理由が左京と共に過ごせないからだと伝わってきて、左京は軽く目を見開いた。 (香夜さんがこんな風に言うなんて・・・・) 寂しい思いをさせてしまったという自責と同時に、何よりも左京を気遣ってくれる香夜が小さな我が儘を口に出してくれた喜びが胸の内に広がる。 そのわずかな沈黙をどう捉えたのか、香夜は慌てたように左京を見ると言った。 「あ、でもつまらなくはないです!左京さんが用意して下さっていた絵巻物や書物も面白いですし、今までしたことがなかった勉強もやりがいがありますから。」 「それは・・・・」 そうでしょうね、と言いかけて今度は左京が言葉を飲み込む番だった。 左京が香夜のために用意した物が、面白くないはずがないのだ。 それだけ香夜が楽しめそうな物を厳選して用意した。 面白い物語、心安らぐ設え、やりがいのありそうな勉学・・・・すべては。 かさ、っと足下で踏んだ紅葉の葉が乾いた音を立てて、左京は話題を変えるように視線を紅葉へと向けて言った。 「ともかく、今日は貴方にこの紅葉を見せられて良かった。」 「はい!」 少し我が儘を言ってしまったことで気まずかったのか、左京の話題転換に香夜は嬉しそうに頷いた。 「本当に見事ですね。」 そう言いながら半歩後ろにいた香夜が左京の隣へと並ぶ。 寺の境内の一角にあたるこの紅葉の見事な庭には、他に人気もなくさわさわと紅葉が風に揺れる音が響いている。 「向こうの方、日に透けて綺麗。」 そう言いながら目を細めて遠くの梢を見ている香夜の横顔を左京は見つめた。 (私のあつらえた着物を来て下さっている。) もともと町人であった香夜には、武家への輿入れの支度などそうそうできようもなく、ほとんどの物をそろえたのは左京の方だった。 その時に贈った反物で作った着物を、今、香夜は身にまとっている。 身なりはこの半年ほどですっかり武家の妻にふさわしいものになった。 町人と武家では細かな日常の事から様々なしきたりまで大きく違うから、ふさわしく見えるまで、香夜がどれほど苦労したかもわかるし、今もまだ苦労しているのだろう。 そういう香夜の姿を見るたびに、単純に心温まる裏で、昏い喜びと冷たい焦りが混じり合うのを、最近の左京は自覚していた。 (貴方が私のために努力して下さっているのは嬉しいのです。) それは嘘ではない。 慣れない武家に入って、少しでも当主の妻としてふさわしいように、と様々な事を必死で吸収しようとしている香夜の姿は健気だし、嬉しいと思う。 ・・・・けれど。 「わ、なんだかさくさく言うのも面白いですね。」 足下の落ち葉を踏む音が気に入ったのか、香夜は明るく笑う。 その笑顔がひどく眩しくて、うなずきながら左京は小さく呟いた。 「・・・・本当に、貴方は美しいですね。」 「え・・・・」 小さな声だったから聞き取れなかったのか、香夜が不思議そうに首をかしげるのを見ながら左京は口元に形だけの笑みを刻んだ。 (香夜さんは、少しも変わらない。) いつか、怪我をした左京をその理由も聞かずに親身にかくまってくれた時から何も。 その優しさに、美しさに否応なく惹かれたのは事実なのだけれど、香夜の気持ちが自分に向いていることを知り、数々の試練を乗り越えて恋仲になり、夫婦になってから・・・・ふとした瞬間にひどく焦りを感じる時がある。 いつでも真っ直ぐで、明るく笑う香夜は ―― いつでも光の中へ消えていってしまえるような。 香夜の気持ちを信じていないというわけではない。 でも、とふと見下ろした己の手のひらは、足下に見える紅葉の深紅が透けて赤く染まっているような錯覚を覚える。 (私の手は、見えずとも深紅に染まっている。) 家族の仇を討つためとはいえ、人に言えぬような汚れ仕事でもかまわずやった。 その過程でけして褒められた理由ではない理由で、人の命を奪ったことだってある。 そんな血に染まった手のひらで、香夜に触れていいのかずっとためらいがあるから焦るのだ。 ひとときでも退屈を感じさせないように用意した絵巻物。 少しでも居心地が良いと思わせるために整えた屋敷の設え。 町人出身の彼女を少しでも悪く言いそうな使用人は、端から排除して。 ―― そうして、目をふさいで、耳をふさいで、それでもまだ、安心できない。 (・・・・いっそ・・・・) 日の光さえ届かない場所に閉じ込めて、自分だけを頼りにするようにできたなら・・・・。 不安定な欲望と、ほの昏い気持ちの揺らめきに左京が目を伏せた。 その刹那 ―― ふいに、手がぬくもりで包まれた。 「え ―― 」 急速に感覚を引き戻されるような温かさに顔をあげれば、真っ先に目に映ったのは・・・・少し怒ったような香夜の顔だった。 「あの、」 何か言わねばならないとは思ったが、何を言うべきか迷って視線をさまよわせた左京は、さっき己を引き戻したぬくもりが、香夜が自分の手を握っていたからだと気がついた。 「香夜さん・・・・?」 「左京さんは!」 どうしたんですか、と問いかけようとした言葉は、勢い込んだ香夜の声にかき消された。 かわりに、香夜がずいっと左京の顔をのぞき込んできて、己の心の中を覗かれそうな感覚に左京はわずかに目をそらす。 だから・・・・左京は気がつかなかった。 左京が目をそらした瞬間、香夜が意を決したように唇を噛んだことに。 そうして。 「!」 香夜の細い手が伸びてきたと思った途端、両頬を挟まれてぐいっと顔の向きを戻される。 (なっ・・・・!) いつもならしないような香夜の行動に、左京が驚いて目を見開くと、香夜は相変わらず怒ったような顔のまま言った。 「左京さんはもっと我が儘を言っていいんです!」 「はい・・・・?」 香夜が言いたいことが分からず左京は目を瞬かせた。 けれど香夜の表情は変わらず、真っ直ぐな瞳は左京のそれを射貫くばかり。 「本当はずっと気になっていたんです。左京さんは私に甘すぎです。」 「は?」 「素敵な贈り物をくださって、ためになる勉強をさせてくれて、それはとても嬉しかったんです。でも、左京さん自身は私にどうしてほしいか言ってくれない。」 「それは・・・・」 何か言おうとして左京は失敗した。 多分、どんな言葉を重ねても香夜が求める答えを出せない気がした。 なぜなら、何か彼女に求めるなど考えもしなかったから。 「貴方は・・・・貴方のまま、私の側にいてくれれば良いのです。」 それがきっと、香夜を嫁にもらう時から左京が考えていたことだった。 かわらないで、そのままで ―― 自分から離れていかないで。 けれど、左京の答えに香夜は悲しそうな顔をして首を横に振った。 「左京さん、左京さんがこの半年、私が嫌な思いをしないように守ってくれていたのは知ってます。」 香夜の言葉に左京はわずか凍り付いた。 心優しい香夜にはわからないように、細心の注意を払っていたはずなのに、と。 けれど、そんな顔をする左京に対して、香夜は少しだけ微笑む。 「誰が教えてくれたかは内緒です。でも、私がお嫁に来るところから、左京さんがいろいろ準備をしてくれた事は聞きました。・・・・でも」 そこで言葉を切って、香夜は真っ直ぐに左京の瞳をのぞき込む。 「側になら、います。ずっとずっと側にいますから、だから」 「私を人形のように飾っておかないで・・・・!」 さあっと紅葉を揺らす風が香夜の言葉をさらって、左京の心の深くへ落とす。 (―― ああ・・・・) 同時に溢れた感情に左京は顔を歪ませた。 目も耳もふさいで自分の腕の中だけに閉じ込めてしまう、そんな昏い思惑が彼女には通じなかった落胆もある。 けれど、それ以上にずっとずっと ―― 嬉しかった。 嬉しくて愛しくてどうにかなりそうで、左京は泣きそうな顔をしている香夜を力加減も考えずに抱きしめる。 「!さ、・・・・!」 誤魔化されると思ったのかも知れない。 耳元で抗議をするように一瞬、香夜の声が上がったが、それはすぐにしぼんで形にはならなかった。 かわりに、おずおずと背中へ香夜の手が回るのがわかって、また胸が切なく軋む。 (―― きっと、この人はどんな闇の中にあっても、私を見つめてくれる・・・・) 香夜は光の似合う娘だ。 きっと誰よりも日差しの中で笑っているのが美しい。 血に染まり闇に身を沈めかけた身でその存在を求めることを罪深いと感じていた。 けれど、手を伸ばすことを恐れた左京に、香夜は真っ直ぐに手をさしのべてくれるのだ。 美しく大切に守られるだけの存在になりたいのではなく、共に歩みたいのだと泣きそうな顔で訴えて。 「・・・・貴方という人は、本当に・・・・」 胸に溢れた感情をはき出すように呟けば、びくっと香夜が肩を揺らす。 そうしてひどく申し訳なさそうに。 「あの、ごめ・・・・っ!」 ごめんなさい、と口にしようとした唇を、左京は強制的にふさいだ。 驚いた瞳が丸く見開かれるのが、妙に心地良い。 触れるだけで唇を離して見つめれば、香夜が戸惑ったように見つめ返してくる。 今度はその視線をしっかりと受け止めて、左京は少し笑った。 「そんなことを言ってしまうと、私はひどい我が儘な夫になるかもしれませんよ?」 「え?左京さんがですか?」 きょとんとする香夜に、わざと意地悪く言ってみる。 「そうです。貴方をひどく困らせるような事を言ったり・・・・例えば、今この場で、紅葉ではなく私だけを見ていて欲しい、とか。」 冗談にわずかな本音を織り交ぜてそんなことを言ってみる左京に、香夜は一、二度瞬きして・・・・それから、何故かかあっと頬を赤くした。 「あ、あの・・・・気づいてたんですか?」 「え?」 予想外の反応に驚いた左京だったが、香夜は観念したように小さく息を吐いて言ったのだった。 「ごめんなさい。せっかく左京さんが紅葉狩りに連れてきてくれたのに、紅葉じゃなくて・・・・左京さんばっかり見ていたなんて、失礼ですよね。」 ―― 赤い紅葉がひらひらと風に舞う。 色づいた梢を通してこぼれ落ちてきた日差しはどこか赤みを帯びている様にも感じるけれど。 「あ・・・・貴方という人は、本当に・・・・!」 同じ言葉なのに、今度はほとんどうめき声のような叫びと共にもう一度香夜を抱きしめた左京の頬は、紅葉の木漏れ日では誤魔化せないほどに、赤く赤く染まっていた。 〜 終 〜 |