はじめてづくし
斎藤一は一見そうは見えないが、先ほどから途方に暮れていた。 原因は今はちゃぶ台を挟んだ向こう側で繕い物に精を出す妻、鈴花だ。 「・・・・鈴花」 「なんですか、五郎さん?」 そのまま字面だけ見れば穏やかな返事。 声音だってそんなに悪くはない。 ない、がその中にはっきりと剣呑な色が含まれている事は容易にわかるし何より 「・・・・鈴花」 「だから、なんですか?ご・ろ・う・さ・ん?」 ご丁寧に一音一音分けて発音された名は現在の偽名。 戸籍上は改名した事になっているので、正確には偽名でもないのだが、普段の鈴花はそっちの名前では呼ばないためにあっさり知ることができる。 鈴花がものすごく不機嫌な事が。 その上しかも (・・・・何が原因だ?) そう、原因がさっぱりわからない斎藤である。 思い返してみるに、夕方買い物にでる頃までは機嫌が良かったはずだ。 今日は仕事が早く終わった斎藤も一緒に買い物に出かけて、それが嬉しかったらしく鈴花はいたってご機嫌だった。 夕食の買い物をしつつ、店を冷やかしたりしてゆっくり街を歩いて・・・・穏やかな時間を過ごしていたはずなのに、帰ってきたらこうだった。 (街で何かあったか?) どう考えても機嫌を損ねたとしたらそこしかない。 とにかく総ざらいで記憶という記憶を引っ張り出して・・・・。 (・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・) 思いつかない。 思い出す限りで鈴花が怒りそうな、例えば街中で口づけをするとか抱きしめるとか、そういう事をした記憶もない。 まして喧嘩もしていない。 持ち上げた新聞の影で、斎藤は密かにため息をついた。 考えてみるに、どうもこの不機嫌は彼女の言うところの『女心』に関係しているような気がする。 が、生憎、それを推し量るには斎藤の経験が圧倒的に不足していた。 何せ、斉藤一、28歳、恋をしたのも想いが通じたのも鈴花一人だけである。 ・・・・小さくため息をついて斎藤は手に持っていた新聞をたたんだ。 そしてちゃぶ台を回って鈴花の前に座る。 視界には斎藤の膝ぐらいは入っているだろうし、何より元剣士の鈴花が気配で気付かぬはずはないのに、頑なに繕い物から顔を上げようとしない姿に、斎藤はとうとう白旗をあげた。 「・・・・すまん」 「え?」 ぼそっと呟かれた言葉に、何故か驚いたように鈴花が顔を跳ね上げた。 しばらくぶり(といってもほんの数時間にすぎないが)に見た鈴花の大きな目に少しだけほっとする。 けれど顔を上げてくれたからと言って油断は出来ない、と斎藤は言葉を続けた。 「何をしたのかわからないが、お前を怒らせたなら謝るから」 だから・・・・と続ける前に、目の前の鈴花の顔がゆがんだ。 不機嫌と、後悔と、悲しみが入り交じったような、なんとも複雑な表情に。 そして再び目線を落とした鈴花はぽつっと言った。 「・・・・違うんです・・・・」 「?」 「違うんです・・・・一さんは悪くない。八つ当たりなんです・・・・」 これまた久しぶり(しつこいようだが、たかだか数時間だが)に呼ばれた名に、斎藤はますます混乱した。 (俺は悪くない?ならば何故?) 悪くないと言われても、明らかに鈴花の不機嫌の矛先は斎藤だったはずだ。 悪くないというならどうして、という疑問を読み取ったかのように、鈴花は深くため息をついた。 「・・・・やっぱり少しは一さんも悪いかも。」 「要領を得ないな。どういう事だ?」 「だって・・・・一さん、笑ったんだもん。」 「?意味が・・・・」 「だから!」 がばっと顔を上げた鈴花は真正面から斎藤を睨み付けて、半ば自棄気味に言い放った。 「一さんが小間物屋さんのお嬢さんに何か言われて笑いかけてたから!だから悔しかったの!それだけです!!」 言うだけ言って鈴花はぷいっと横を向いてしまう。 その真っ赤に染まった横顔を見ながら斎藤はやっと記憶の底から鈴花の言っていた出来事を引っ張り出した。 そして考えることしばし。 小間物屋の娘に話しかけられて斎藤が笑っていた・・・・その事が鈴花にとっては悔しかった・・・・八つ当たり・・・・ (つまり) 「嫉妬か?」 「っ!そーです!」 投げつけるように叫んで鈴花はますます顔を赤くする。 頭のどこかでどこまで赤くなるんだろう、などと脈絡のない事を考えつつ・・・・気がつけば鈴花を抱きしめていた。 「きゃっ!は、一さん?」 「少し黙れ。」 「なっ!ちょっ!はじ・・・んんん!」 何か抗議をしようとした口を、斎藤は実力行使で塞いだ。 無防備だった唇を割って、舌を絡めようとすると慌てたように押し返されて少しだけ間が空く。 「なにするんですか!」 「口づけだ。」 「そ、そう言うことを説明しろっていってるんじゃありません!だいたい今までの流れでなんでいきなり口づけなんですか!」 過程をすっとばしてます!と何故か必死の形相で反論してくる鈴花に、こともなげに斎藤は言った。 「したくなったからだ。」 「なんですか、それ!」 怒ると言うより激しく戸惑っているという感じの鈴花の額に我慢できずに斎藤は唇を落とした。 「ひゃっ!」 首をすくめると柔らかなくせっ毛が揺れる。 その髪にも斎藤は口づける。 ・・・・恋をしたことなどなかった、鈴花に出会うまで。 鈴花に恋をしてからも、随分長い間片恋だったから知りもしなかった。 ―― 恋した相手に嫉妬されるのが、こんなに気分を舞い上がらせるなんて。 (・・・・逆は随分あったがな。) ちらっとそんな事を思い出したが、すぐに頭の隅へ片付けた。 「一さん!?何笑ってるんですか!」 いまだに無駄な抵抗を続けている鈴花に言われて斎藤は口の端に笑みを刻んだ。 その不敵な笑みに、鈴花がぎくっとした時にはもう遅し。 「鈴花」 「あ、う、その」 「随分、偽名で呼んでくれたな?」 「え?え?」 「倍は一と呼ばせるぞ。」 「はっ!?ちょっ!繕いものも途中・・・」 言いかけた鈴花の言葉はもちろん最後まで聞かず、斎藤は再び鈴花の唇を塞いだ。 そして鈴花の手から繕い物を奪いつつ、心の中だけで苦笑した。 (俺が小間物屋の娘に笑いかけた理由がわかったらお前は何と言うだろうな。) 怒るか、照れるか、喜ぶか。 ちょうどその時、とうとう諦めたらしい鈴花の手がそっと背に回るのを感じて斎藤は思考を打ち切った。 (何にしても、明日になりそうだ。) 翌日、斎藤の笑みの理由を知った鈴花の髪には可愛らしい桜の簪が揺れていた 〜 終 〜 |