―― あの女を一言で表すと、「ものすごい音楽バカ」だと思う。 (あ・・・・) 上っていた階段の上から微かに聞こえてきた音色に、江波紫音はぴくりと肩をふるわせた。 おそらくこれから江波が向かおうとしていた屋上で弾いているのだろう。 鉄の扉を通しているからくぐもってはいるが、はっきりとヴァイオリンの音色だとわかった。 この至誠館高校には、音楽に関係する部活は吹奏楽部とブラバン部しかないからヴァイオリンの音色を聞く事は、今年の夏まではほぼなかった。 だから、この音色を奏でている人物も自然と一人に限定されてくる。 今年の夏休み直前に転校してきて、ヴァイオリン片手に何故か吹奏楽部に飛び込んできた女子生徒・・・・小日向かなで。 最初は十人並みの腕前程度だと思っていたから、吹奏楽部の人数をいたずらに増やした迷惑な奴、と思っていたが、今、屋上から聞こえてくる音色は明らかに色を変えている。 「・・・・ふん。」 小さく鼻を鳴らして、江波は肩に担いだ楽器ケースを背負い直した。 夏休み前、あるいは夏休みも序盤の頃であったなら、かなでのヴァイオリンの音が聞こえようものなら、いくら自分がその場所で練習しようと思っていたとしても回れ右をして立ち去っていただろう。 けれど。 (・・・・僕は屋上で楽器を吹くのが好きなんだ。) 誰ともなく心の中でそう呟いて、江波は止まっていた階段の上の段へ足を踏み出す。 足を止める前と変わらぬ速度で階段を上がって行くと、少しずつヴァイオリンの音色が大きくなっていく。 扉越しでも、その音色が暖かく軽やかに歌っている事がわかった。 (これは、定演でやる曲か。) メロディーが聞き分けられるぐらいになって、この曲は吹奏楽部の定期演奏会で演奏する曲だとぴんと来たのは、江波にもこの曲に聞き覚えがあったからだ。 実はこの曲は吹奏楽部の定期演奏会にブラバン部がゲスト出演して、一緒に演奏する予定の曲だったりする。 (・・・・夏前はこんな事をするなんて考えもしなかったけど。) 去年の事件以来、大きな溝ができていたブラバン部と吹奏楽部の距離が急速に縮まったのは今年の夏の事。 吹奏楽部が全国学生音楽コンクールで優勝するまでの紆余曲折があっての事だ。 そしてそのきっかけとなったのは、今、耳に届いているヴァイオリンの音色だった。 それまで新のような一部例外を除いて互いに距離をとっていたブラバン部と吹奏楽部の間に、かなでは実に豪快に分け入ってきた。 偶然、屋上で行き会わせたブラバン部の部員達と成り行きで音を合わせて以来、かなではブラバン部部員達を見付けると、合奏しようと声を掛けるようになったのだ。 もともと至誠館は男子校で女子の数が極端に少ないだけに、一年を中心にかなでの誘いに乗るようになり、吹奏楽部が全国優勝を果たした事で二、三年の気持ちもゆるんでからは、しょっちゅう、かなでがブラバン部部員と合奏している姿も見られるようになった。 もちろん、その一部の男子に下心がないわけもないのだが、その辺が。 (「音楽バカ」だからな。) 音色が素敵だ、を惜しげもなく褒めたり笑顔を見せたりするくせに、そのどれもかなでにとってして見れば、下心も何もない、音楽への褒め言葉なのだからたちが悪い。 おまけにかなでは呆れてしまうほど鈍感で、あからさまに好意を示している者がいようとも、右から左に華麗にスルーだ。 (この間も照辺に日曜に遊びに行こうと誘われたのを、練習があるからと一刀両断してたな。) 果敢な一年が敗れ去る様を思い出して、少しばかり胸がすくような気持ちになる。 そんな気持ちになって・・・・。 (・・・・別に照辺がふられようがなんだろうが、僕には関係ない。) 急に我に返ったように江波は頭を振った。 そう、別にかなでが吹奏楽部部員だけじゃなく、ブラバン部の部員と合奏していようが、彼らに笑顔を見せていようが関係ない。 (僕は別に、あんなちんちくりんな音楽バカなんかに興味はないんだ。) あんなちみっこくて、ぱたぱた走って、目を離すとすっ転びそうで、そのくせヴァイオリンを持った途端に誰も彼も魅了してしまいそうな音色を奏でるかなでなんて・・・・・。 「・・・・・・・・・・・・だから、興味なんてない。」 しっかり口に出してそう言ったところで、屋上の扉が見えてきた。 そうなると、よりはっきりとかなでの音色が耳に入ってくる。 花と戯れる蝶のように軽やかで、そのくせ、雲間から射す陽光のような気高さを感じさせる音色。 (・・・・強いて興味があるとすればこの音色だけだ。) けして合奏するか、と声をかけると、顔一杯で笑う嬉しそうな笑顔とか、うまくいった時に喜ぶ無邪気な様子とかではない。 断じてない。 でも、かなでと合奏するのは勉強にもなるし、実力のある奴と合奏するのは楽しくない事もない。 だから。 (どうせ一人で屋上で練習しているなら、合奏の方が練習になるだろう。・・・・し、しかたないから、合奏してやってもいい。) 一人で屋上でヴァイオリンを奏でているかなでの後ろ姿を想像して、江波はそう思いながら、屋上の扉に手をかける。 扉を開けたら気がつくだろうか。 否、あいつは「ものすごい音楽バカ」だから、きっと気がつかないだろう。 だったらもうすぐ曲が終わるから、そのタイミングでドアを開けて、声を掛けてやろう。 いつの間にやらそんな計算を頭でしていることを江波が自覚する前に、ヴァイオリンが奏でる曲が最終盤にさしかかる。 そうして最後の盛り上がりのパッセージを紡いだところで、音が溶けるように消えて。 (―― 今だ) がちゃ。 「おい、こひ ―― 」 「ブラボー!」「小日向先輩、また腕を上げたッスね!」「なあ、次は俺と合わせてみようぜ?」「あ、ちょっと!阿藤先輩!抜け駆けっスよ!」「・・・・俺も共に吹きたいな。」 つんと澄ました天邪鬼 「くっ、・・・・!この音楽バカがっっっっ!!!」 がちゃん!ばたばたばた・・・・ 放課後の屋上で、ブラバン部の部員達に囲まれて一曲披露したかなでは、口々に合奏しようと誘われる声の中で、ちょこんと首をかしげたのだった。 「今、江波くんの声がしなかった?」 |