rhapsody
その日、衛藤桐也は珍しく学校を抜け出すのが遅くなっていた。 いつもなら用事さえなければとっとと家に帰って着替えてストリートへ出直している時間に学校に残る羽目になったのはひとえに中学三年の冬休み明けという切実な時期であったせいだ。 受験という学生にとってはかなりハードな山を前に、第一志望が決まるのが遅かったせいで進路担当教員に呼び出されたというのが出遅れの主な原因なのだから。 (今日はもう行けないか。) 思いの外話が長引いたせいですでに夕暮れから夜の気配を滲ませている窓の外へ目をやって桐也は顔をしかめる。 (・・・・今日は星奏は半日だって言ったのにな。) 頭の中に思い出したのは数日前に香穂子が言っていた予定だった。 『特別会議とかっていうのが入るから半休なんだって』 上機嫌の彼女はそう言っておまけに『練習したい曲があったからちょうどよかった』なんていつものヴァイオリン溺愛な台詞をつけ加えるから、呆れて『あんたの頭の中って半分ぐらいヴァイオリンだろ』とか言った覚えがある。 まあ、口ではそう言いつつも心の中が浮き立つのは自分で感じていたけれど。 香穂子 ―― 桐也の恋人である日野香穂子は桐也より一つ年上の星奏学院に通う高校生。 普段は意外と時間が合わない事が多いから、放課後の時間が被るなんて貴重だったというのに。 「・・・・ついてない。」 ぽつっとはき出して桐也は早足で自分の教室へと向かった。 進路指導室に呼び出される前に香穂子には今日は行けないかもしれないとメールを入れてあるからこの時間になればもう帰っているだろう。 損をしたような、どこか悔しいような気分で廊下を歩き切って自分の教室に入った桐也は僅かに首を捻った。 というのも、教室内に数人残っていたクラスメイトが何故か全員窓に張り付いていたからだ。 「?」 何か面白いものでもあるのだろうか、と思いつつ桐也は自分の席に乗せたままだった鞄に手をかける。 その時、窓に張り付いているクラスメイトの会話が耳に入った。 「ずっと待ってんな。」 「うん。結構可愛いじゃん。誰の彼女だよ?」 羨ましそうなところを隠しもせず交わされる会話を横目に、桐也はなんだ、と思った。 桐也の通う中学は男子校なので時々、校門で誰かを待つ女の子の姿が目撃されるとちょっとした事件になるのだ。 待たれていた当人は思い切り恥ずかしそうに、けれどどこか自慢げに騒ぎ、周りはやっかみ半分ではやし立てるから。 同世代から冷めていると称されがちな桐也にとってはそんな騒ぎは肩をすくめてやり過ごす程度のものだった。 だから今回もあっさり興味を失って鞄を片手に教室を後にする・・・・はずだった。 予定が180°変わったのは、次に耳に入った一言のせいだ。 「アレってどこの制服だっけ?星奏?」 「!?」 (星奏!?) その名前に桐也は思わず振り返った。 まさか、と思いつつ胸の内がざわめく。 星奏学院は桐也の中学からは何駅分も離れているし、特に接点もない学校なのだ。 他の誰かが星奏の誰かと付き合っている可能性も0とは言えないけれど。 (・・・・まさか、だよな・・・・) そう思いつつも桐也の足は今まで向かっていた教室の入り口から窓へ向かう。 「そうだよ、星奏。あの音楽専門のコースがあるとこだろ?」 「すげえ、あの制服って高校生だよな。年上か〜、やるな。」 「でも、ずっと待ってんじゃん。片思いかもしれないぜ。」 勝手な憶測を軽い調子で話している同級生の肩越しに桐也は彼らの目線の先、校門に目をやって ―― 「香穂子!?」 『え?』 唐突に響いた驚きの声に、桐也に気がついていなかった同級生達がぎょっとしたように振り返ったがその時にはすでに桐也は彼らに背を向けて走り出していた。 「おい!あの子って衛藤の彼女かよ−!?」 背中からそんな声がかかっていたけれど答える余裕なんかなかった。 教師に見つかったら大目玉食らいそうな勢いで階段を駆け下りる。 (あいつらずっとって言ってたよな!?いつからいたんだ!) さっき目にした校門の前でいつものようにヴァイオリンケースを担いで、手に息を吹きかけるようにしている香穂子の姿を思い出して桐也は酷く複雑な気分になる。 この寒いのに風邪でもひいたらどうするんだ、とか。 なんで俺の中学を知ってるんだ、とか。 校門の前なんかにいて他の男に声かけられたんじゃないか、とか。 恥ずかしいような困ったような苦いような、何とも言えない気分でとにかく桐也は走った。 昇降口で上履きから靴へ履き替えるのももどかしい。 とにかく一刻も早く上の教室から覗いている男達の視線から香穂子を引き離したくて、桐也は外へ飛び出すなり声を張り上げた。 「香穂子!」 桐也にしては切羽詰まった声が届いたのだろう。 校門に背を預けるようにして立っていた香穂子が振り返る。 そしてそこに立っていた桐也の姿を見つけるなり、解けるように嬉しそうに笑って。 「桐也くん!」 弾んだ声で名前を呼ばれた途端、自分でも驚くぐらい鼓動が跳ね上がった。 教室から見た時の少し心細そうな表情など綺麗さっぱり消し飛んでしまって、ただ桐也に会えたことが嬉しいとその笑顔が伝えてきたせいだろう。 おまけに数歩離れていた距離を小走りに香穂子は詰めてくると、桐也を見上げて言ったのだ。 「どうしても桐也くんに会いたくなってきちゃった。迷惑だったらごめんね?」 「・・・・・・・・・・・・」 「桐也くん?」 黙ったままの桐也を不思議に思ったのだろう、香穂子が不安げに見上げてくる。 迷惑だったのだろうか、とありありと書いてある顔で見上げられて数秒。 ―― 桐也はどこかの歌の歌詞のように、生まれて初めて自分の耳が赤くなった音を聴いた気がした。 「〜〜〜、あんたって。」 「え?え?」 さすがに片手で顔を覆って空を仰いだ桐谷の耳に驚いたような香穂子の声が聞こえてくる。 それさえもなんだか気恥ずかしくて、桐也は呻いた。 「どうしたの?やっぱりまずかった?」 「・・・・なんでもない。ただ大げさだって思ってた連中がそうじゃなかったってことが分かった。」 「は?」 訳がわからないらしい香穂子の声を聞きながら、今までいちいち騒いで子どもっぽいと思っていた同級生に心の中で詫びる。 周りで騒いでいた方はともかく、校門で待つ彼女に向けて突っ走っていった男の気持ちはよくわかった。 こんな風に自分に会うためだけに少しの勇気を出して校門で待っていてくれる大切な彼女の姿を、他の男に見せておくなんて論外だ。 「行こう。」 「うん・・・・ごめん、やっぱり迷惑」 「そうじゃないから。」 しゅん、とうつむきかかった香穂子の言葉にかぶせるように言うと「え?」と顔が上がった。 揺れる紅茶色の髪、少し不安げな瞳、すべてが今日は会えないと思っていただけに妙に新鮮で落ち着かない気分にさせられて。 ますます熱の上る感覚に、桐也は慌てて香穂子の手を取ると半ば引っ張るように歩き出した。 「え?ちょっと、桐也くん?」 「・・・・迷惑じゃないけど、これはちょっと反則だよな。」 「え?」 「俺の完敗だろ、これじゃ。」 「・・・・えーっと、それは」 「だから!」 意味を計りかねたように首をかしげる香穂子に、くるりと振り返って桐也は半ばやけくそぎみに叫んだ。 「会えて嬉しいって事だよ!」 「!」 桐也の勢いに驚いたように香穂子が目をぱちくりさせる。 その次の瞬間、桐也はしまった、と気がついた。 折角かくしていたのに振り返ってしまったので香穂子に顔が見えてしまった。 多分、間違いなく・・・・赤くなった顔が。 案の定、香穂子はさっきまでの不安な表情からみるみる内に笑顔になって。 「桐也くん、大好き!」 「わっ!?」 勢いよく腕に飛びつかれて受け止めた途端、頭の上から冷やかすような指笛の音が降ってきたのだった。 〜 Fin 〜 |