Overture 〜春と夏の境目に愛をこめて〜
風景を桜色に染め上げていた木々が青々とした緑に変わる頃になると、新しい環境に浮き足立っていた星奏学院の生徒達も少しずつ落ち着きを取り戻していく。 夏休みまではまだ日があるそんな空白の季節のある日。 既定の授業を終えた水嶋悠人は今まさに夕暮れの風景に変わりつつある星奏学院の正門前を歩いていた。 いつもならばオーケストラ部の練習があるはずなのに、今日に限って臨時の休みが入ってしまい、それならば寮で練習でもしようとチェロケースを背負っての帰路だ。 (早く言われていれば練習室を予約しておけたのに。) 心の中で毒づいてみても空しくなるばかり。 悠人は不機嫌そうに一つため息をついて、さっさと帰ろうとチェロケースを肩に背負い直した。 と、その時正門の方から来る見慣れない人影が目に入った。 (?私服?) 目についたのは多分そのせいだろう。 制服に身を包んだ高校生達の間で派手な服装ではないにしろ、私服を着た青年の姿は妙に目立った。 そのせいか、周りの生徒達もちらちらと歩いてくるその青年を見ているが、彼自身はまったくその視線に気がついてないらしい。 というよりも、完全にどこかを見ていて上の空という感じだ。 遠目にもどこか頼りなさげな彼の歩みに悠人は眉をひそめた。 (若いし、不審者というわけじゃなさそうだけど・・・・) 大学生より少し上程度に見える青年はおそらくは卒業生か何かだろうと判断して悠人はそれ以上考えない事にする。 別に関わり合いにならなければいいだけの話だ。 正門前に立ち並ぶ木々や音楽の精の形をかたどったと言われている像に目をやったりしながら歩いてくる青年と対照的に悠人は真っ直ぐに進路を取る。 真っ直ぐ、真っ直ぐ、真横を突き抜けるように。 しかし、悠人の直進は青年の真横に来た所でいきなり中止せざる終えなくなった。 というのも。 「・・・・君」 一瞬前までどこを見てたのかもわからなかった青年が突然話しかけてきたからだ。 「!」 反射的に足を止めてしまった事を悠人は後悔した。 これでは聞こえませんでした、という態度は今更取れない。 しかしそんな悠人の態度など気にした様子もなく青年は悠人の背に目をやって言った。 「チェロ・・・・」 「は?それが何か?」 「君は、チェロを弾くの?」 「弾きますが、何か問題でも?」 関わらないと決めていたのに関わってしまったバツの悪さから悠人の対応はつっけんどんになる。 どうせならそれに気を悪くして行ってくれたらいいのに、と思ったが青年はただじっと悠人を見つめた。 その妙に静かな瞳に悠人は気圧される。 別に鋭い視線というわけでもないのに、青年の視線がじっと注がれていると何故か酷く居心地が悪かった。 「な、何か・・・・?」 伺うような声を出したところで、ふっと悠人はこの青年をどこかで見たような気がする事に気がついた。 色素が薄めでどこか綿菓子を思わせるふわっとした髪、琥珀色の真っ直ぐな視線・・・・。 (直接会った訳じゃなくて、どこか・・・・?) しかし悠人がその答えを出すより先に青年の視線がすっとそれた。 「?」 思わずその視線を追うと何故か彼の目は星奏学院の校舎の方へ向けられていて。 「あの?」 「うん、呼び止めてごめん。いい音がしたからつい。」 「いい、音?」 何の事やらわからずに首を捻った悠人に青年はこくり、と頷いた。 そして初めて緩く微笑んで言った。 「どこか懐かしい音。」 「は、はあ・・・・」 なんと応えればいいかも分からず困惑する悠人に青年だけが満足げに「うん、懐かしい」と繰り返して。 再びふらっと歩き出した青年に今度は悠人が驚いて声を上げた。 「あの!?」 別に何か言おうと思ったわけではないけれど、思わずそう叫んだ悠人の声に青年は肩越しに振り返る。 そして。 さっきと同じ笑顔を乗せて言った。 「音楽の妖精に、会えたら・・・・頑張って。」 「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・は?」 言うだけ言って校舎の方へ消えていく青年の後ろ姿を呆然と見送って、悠人は眉間にこれ以上ないほど皺を寄せて呟いたのだった。 「・・・・何だ?今の。」 悠人が狐に摘まれたような気分で、やっと帰路についた頃、狐もとい青年 ―― 志水桂一は目的であった音楽教官室の前に辿り着いていた。 トントンッと軽くノックをすれば「はーい!」と桂一には聞き慣れた声が返ってくる。 そして。 「どなたで・・・・わっ!?」 うつむき加減でドアを開けて出てきた日野香穂子の体を腕の中に難なく納めて桂一は満足げに笑った。 「先輩。」 「せ・・って、ええ!?桂一君!?なんでいるの?」 「迎えに来ました。」 「迎えにって、約束は6時じゃなかったっけ?」 香穂子がそう言って思わず腕時計を確認するのも無理はない。 桂一の作曲した交響曲が演奏されるのを聴きに行こうと約束をしたのは昨日の夜で、ついでに言うならまだ4時半をまわったばかりだ。 「はい。でも会いたくなったので。」 躊躇いもなくそう言われてしまうとそれ以上言う事もできずに香穂子はちょっと口ごもった。 「いや、でも私まだ仕事中だし・・・・」 「待ってます。今日は会議とかないって言ってましたよね。」 「あ、うん。でもまだプリント整理とか結構あるよ?退屈じゃない?」 とにかく中に入ってと招き入れられた音楽教官室の香穂子の机の上には確かに山積みの書類が載っている。 もしかして晴れて上司になった金澤からていよく押しつけられているのではないかという気もしたけれど、桂一は小さく首をふった。 「いいんです。香穂先輩が仕事している所を見るのも好きですから。」 「あ・・・・そう。」 常日頃、恋人である香穂子を自分のミューズであると言って憚らない桂一から微笑みつきでそんな風に言われてしまえば香穂子に反撃の術などない。 僅かに赤くなった頬を誤魔化すように重ねてあるプリントに向いながら言った。 「えーっと・・・・でも久しぶりじゃない?桂一君が星奏に来るの。」 「はい。そうですね。」 「あんまり変わってないのにあれから8年もたってると思うとすごいよね。」 香穂子の声が含んだ笑いに釣られるように桂一も微笑む。 その時、ふっとさっきの出会いを思いだした。 「懐かしい音を、聴きました。」 「え?」 「音っていうとちょっと違うのか・・・・でもやっぱり音、な気がします。」 「音?」 「はい。さっき正門の所でチェロを背負った子と会って・・・・」 昔の自分のようだ、と思ったわけではないけれどなんとはなしに目を止めた。 真っ直ぐ真っ直ぐ歩いてきた、酷く生真面目そうな少年を見た時 ―― 懐かしいとしか表現しようのない何かがぱちんっと弾けた。 「ファータのおしゃべりだった気もするし・・・・コンクールの拍手・・・・リリの笑い声?」 8年前、初めて聴いて自分と香穂子を結びつけたそんな何か。 首を捻る桂一に香穂子も同じように首を捻って言った。 「ねえ、その子ってもしかして髪がちょっと長めで金色っぽい色してた?」 「あ・・・・はい、そういわれて見れば。」 「じゃあ水嶋くんかな?彼、オケ部なの。王崎先輩や火原先輩の後輩ね。」 「オケ部ですか。」 「そういえば夏に全国大会に出るって聞いてたっけ。ヴァイオリンに面白い転校生の子が入ったって火原先輩が言ってたよ。」 さりげなく香穂子が言った言葉を聞いて、桂一は小さく笑った。 「もしかしたら、本当にファータだったのかな?」 「え?」 桂一の声が聞こえなかったのか振り返って香穂子は、彼を見て微笑んだ。 「なんだか楽しそうね?」 「そうですか?」 「うん。良いフレーズが浮かんだ時みたいな顔してる。」 くすくす笑う香穂子にそう言われて桂一は少し考えた後、こくんっと頷いた。 「そうですね。なんだか懐かしい気分です。切ないような、暖かいような・・・・ああ、そうか。」 合点がいったというように頷いて桂一は嬉しそうに言った。 「先輩に片思いをしてた時の気持ちですね、これ。」 「!!」 バサバサバサッ! 不意のカウンターパンチを食らった香穂子の手から零れ落ちたプリントが、あえなく床に広がっていく。 慌ててそれを拾い集めにかかる香穂子を手伝いながら(というか、香穂子の「だ、だから爆弾発言はやめてって言ってるのに!」という文句を右から左へ聞き流しながら)桂一は少年とすれ違った時の『音』を思い出す。 あれはもしかしたら予兆、あるいは予感。 新しく柔らかい季節から、輝く力強い季節への序章のメロディー。 もう桂一には見えなくなってしまった小さな友人達があのチェロを背負った少年の周りで楽しそうに踊っている姿を思い浮かべながら桂一はプリントの中を彷徨っている香穂子の手を絡め取って、この上なく幸福そうに笑って言った。 「だとしたらあの子はこれからミューズと出会うのかもしれませんね。僕が先輩と出会ったみたいに。」 ―― その後、再び書類をばらまいてしまった香穂子に桂一が大人しく座っているように厳命されたのは言うまでもない。 けれど、その夜のコンサートは見事な成功を収め・・・・。 ―― 翌朝、コンサートの記事を読んで昨日の青年の正体を思いだした悠人の驚きの声が菩提樹寮に響き渡ったのだった。 〜 END 〜 |