同じ場所同じ空間、花咲く音色
青い空と青い海・・・・なんて言うと、まるで南国の情景のようだけれど、港町横浜にも意外と当てはまったりする。 南国リゾートと違って、海と陸の境界にあるのは白い砂浜ではなくて海に浮かんだような高層ビル群だったり、緑の公園だったりするけれど。 青い空を映す海には大型の客船や貨物船が行き交う姿が遠目に見えるのも、いかにも港町らしい。 そんな海と空の間に、不思議なほど気持ちよく響くのは二筋のヴァイオリンの音色。 秋を迎える前の涼やかな風に乗って聞こえてくる音色に、雑踏の中を歩いていた少女はぴたりと足を止めた。 どうやらおっとり者らしい少女は年の頃は7、8歳だろうか。 人混みに慣れないらしく、ついさっきまでは家族に遅れないようにと一生懸命足下を見ていたのだが、その目が操られるように今は風の中の音色を見つめている。 幸か不幸か、少女の家族は少女が遅れている事に気がつかなかったらしくどんどん先へと進んで行ってしまったのだが、彼女もまたそれに気づかずふらりと元来た道・・・・音色の聞こえる方へと足を踏み出した。 雑踏に紛れているはずのヴァイオリンの音色は少女を誘う。 さっきまでは迷うまいと必死で足下を見ていた視界は、今、風の中の音色に促されるように街を映していた。 知らない街の街角を、少女は迷うことなく進む。 音色が途切れてしまわないかだけが、今の少女の心配事で、信号で足止めを食った時には思わず背伸びをして向こう側を覗いてしまった。 しかしそんな少女の心配をよそに、二挺のヴァイオリンの音色は楽しげに響いていた。 やがて少女は気がつく。 一挺のヴァイオリンの音色はとても自信に満ちて力強い、と。 聴く人に、自分の音を楽しませるというよりは、自分の音の世界に聴く人を引きずり込むような強さ。 そして聴かれるのが当たり前だと言わんばかりの完璧さを誇るために磨き上げられたような音色だった。 少女の足が速くなる。 こういう音は嫌いじゃなかった。 少女にはまだ奏でられない力強い音色だったから。 けれど、それ以上に・・・・。 また信号が変わってしまって、少女は仕方なく足を止めた。 ふと、二挺だったヴァイオリンの音色が一本になる。 ソロパートだ。 残ったのは、さっき考えた方でないもう一本。 ああ、この音・・・・と、少女の鼓動がドキドキと速くなった。 この一挺のヴァイオリンの音色は、なんてキラキラしているんだろう。 木漏れ日を下から見あげた時のように、眼を細めたくなるぐらいに。 少女が今まで耳にしたことがあるプロのヴァイオリン弾きの音色から比べれば、けして上手くはなかった。 デュオを奏でているもう一挺のヴァイオリンの方が技術的にはずっと上手い。 でも、少女は惹かれたのは木漏れ日の音色の方だった。 信号が青に変わる。 目指す音色は目の前に広がる公園から聞こえるとわかっていたから、少女は一気に駆けだした。 信号を渡って、公園を散歩している人の間を駆け抜けて、緑の遊歩道を渡ると、わっと視界が開けた。 そこには青い空と青い海。 そして、その間でヴァイオリンを響かせる一組の男女の姿があった。 と、その瞬間。 青い空にフェルマータの余韻を残して、曲が終わってしまった。 二人を取り囲んでいた聴衆達からわあっと拍手が上がるのを少女は戸惑ったように見ていた。 「さすがは星奏の生徒さんね」とか、「高校生にしてはレベル高いな。」とか漏れ聞こえてくる会話から、ヴァイオリンを弾いていた二人が近くの高校生らしいと知って見れば、二人は揃いの制服を着ていた。 白いブレザーを近くのベンチに適当に置いて、シャツ姿でお辞儀をする赤みがかった髪の青年を見て、少女はこっちの人がさっきの強い音の人じゃないか、と思った。 いかにも堂々とした様子で集まった聴衆に挨拶をしていたからだ。 それに対して紅茶色の髪をした女の子がにこにこしていた。 きっとこっちが木漏れ日の音の人だ、と思ったけれど、それ以上に少女には気になることがあった。 立ち止まって聴いていた聴衆達がぽつりぽつりと動き出していくのだ。 もしかしてこれで終わりなのだろうか。 そう思った少女の不安はあたり、立ち止まっていた聴衆達はやがて三々五々に散っていった。 けれど、少女は諦めきれなかった。 もう一度あのデュオが聴けないだろうか、と微かな希望を託して足を動かせないでいる内に、やがて聴いていた人達はみんないなくなり、演奏者の二人も自分たちの荷物が置いてあるベンチへ向かおうと楽譜をまとめ始め・・・・。 「・・・・あれ?」 ふいに、木漏れ日の音色の女の子と、目があって少女の心臓がどきんっと跳ねた。 「どうした?」 手を止めた女の子に気がついたのか、強い音色の青年が女の子に目を向ける。 「あ、うん。ねえ、桐也くん。あの子、迷子かな?」 「迷子?」 首をかしげた青年も少女を見た。 自分のことを話しているとわかってはいたけれど、少女はドキドキとして何も言えなかった。 ただ代わりに二人をじっと見つめる。 その様子に、木漏れ日の音色の女の子の方が譜面台を置いて近寄ってくるとかがみ込んでのぞき込んできた。 「どうしたの?迷子になっちゃった?」 優しい声だな、と思った。 彼女の音色のように、ほっと心を和ますような声。 だから、気がついたら少女はぎゅっと手を握って言っていた。 「もう、おしまい?」 「え?」 「聴きたいの。」 そう言ってヴァイオリンを指さすと、女の子は驚いたように目を丸くして、青年を振り返って言った。 「ヴァイオリン聴きたいって!」 「はあ?」 女の子の言葉に青年は驚いたような声を上げて、自分も女の子と同じように少女の前へやってきた。 「ヴァイオリンって、お前が?」 こくん、と少女は頷いた。 それを見て女の子と青年が顔を見合わせる。 「走って来たの。でも・・・・終わっちゃった。」 「走ってって、どこから?」 「?・・・・わかんない。」 「これは立派な迷子だろ。」 はあ、とため息をつく青年を少女は見上げた。 迷子と言われれば確かにそうかもしれない。 実際、少女には今自分がどこにいるのかわかっていなかった。 けれど少女にとって重要なのは、迷子かどうかということよりも。 「聴きたかったのに・・・・」 街中の雑踏で自分を誘った音色を、もっと近くで聴きたかった。 それが何より残念でがっくりと肩を落とす少女に、女の子と青年は顔を見合わせて。 「・・・・桐也くん。」 「・・・・わかってる。」 何か訴えるような女の子の声に、青年は軽くため息をついて頷いた。 途端に女の子の顔がぱっと輝いた。 「よかった!ねえ、もう一曲弾いてあげる!」 「!」 木漏れ日の音色の女の子の言葉に、少女ははっと顔を上げた。 見上げれば、にこにこと笑っている女の子と、それを少し呆れたように見下ろしている青年の姿。 「一曲聴いたら交番に連れて行くからな。」 うんうん、と少女は頷いた。 それを見た青年が片付けかけていた譜面台のところへ戻る。 少し遅れて少女を近くまで連れてきてくれた女の子も自分の譜面台のところへ戻って、二人は軽く調弦をし直した。 一等の特等席をゲットした少女はドキドキと高鳴る胸を押さえながら二人を見上げる。 その視線に木漏れ日の音色の女の子が少し照れくさそうに微笑んで、アインザッツを出して。 ―― ああ、やっぱり素敵な音色だ、と少女はうっとりする。 青い空の下に響く気の強い完璧な音色は、まるで王様の歩く絨毯の極上にビロードのよう。 けれど、その音色の絨毯の上で軽やかな足取りで踊っているのは、妖精の音色。 木漏れ日のドレスを着た妖精が楽しげにステップを踏んでいるかのように。 先ほどのように最後の一音が青い空に吸い込まれていくまで少女は微動だにすることもなく、ただただ二人の演奏者を見つめていた。 そして曲が終わって二呼吸ほど置いて我に返った少女が手を叩こうとした刹那。 「―― かなで!」 聞き慣れた声に、少女 ―― かなではびくっと肩を跳ねさせた。 振り返れば遊歩道の向こうから、ものすごい必死な形相で走ってくる見覚えのある二人の少年の姿。 「響也。律くん・・・・」 「こんなところにいた!!お前、ぼーっとしてるんだから気をつけろって言っただろ!!」 同い年なのにビシバシと叱ってくる幼なじみにかなでが首をすくめていると、ヴァイオリンを弾いていた青年がぽすん、と響也の頭に手を置いた。 「!?」 「まあ、そう怒ってやるなって。・・・・俺も似たようなタイプを知ってるから気持ちはわかるけど。」 驚く響也にどこか同情したような声でそう言った青年は、木漏れ日の音色の女の子を見る。 その視線に女の子は少しバツが悪そうに苦笑してかなでに向き合った。 「お迎えが来てよかったね。」 「うん・・・・あの、おねえさん。」 「?」 「おねえさんみたいな音にどうやったらなれる?」 その質問に女の子が驚いたように目を丸くして「私?」と言ったのに、かなでは大きく頷いた。 素敵な音色だと思ったのだ。 技術的に上手い青年の音色以上に、女の子の音色を奏でたかった。 それができれば・・・・胸の奥につかえた『何か』が溶ける気がしたのかも知れない。 けれど女の子は困ったように首をかしげて、それから言った。 「うーん・・・・わかんない。」 「え?」 「私の音は気がついたらこれだったからね。こうやったらできるよって教える事はできないかなあ」 その答えにかなでは肩を落とした。 それがいかにもしゅんとした様子だったせいか、幼なじみ二人はかなでと女の子を戸惑ったように見比べていたが、女の子は「だからね」と付け足すと、かなでの頭をぽんっと撫でて言った。 「あなたはあなたの音を探すといいよ。」 「・・・・私の音?」 「そう。きっとあるから探してごらん?」 そう言ってにっこりと笑う女の子をかなではじっと見つめて、それから頷いた。 「うん。頑張る。」 「頑張って!」 その言葉をきっかけに、幼なじみの少年二人に引っ張られてかなでは歩き出す。 そして数歩歩いたところで、ふいにくるりと振り返って。 「ありがとうございました!」 元気よく叫んだ声は、青い空と青い海にこだまして―― 「・・・・まさか、あの子が全国大会に星奏から出るとは思わなかったよね。」 記憶にある季節よりかなり強い日差しの降り注ぐ山下公園の一角で、日野香穂子はおかしそうに笑った。 その声に、隣に並んだ衛藤桐也も同じような調子で肩をすくめる。 「だよな。俺も最初見た時にあれ、と思ったんだけどさ。」 「さすがに7年は前だしねえ。」 「でも、あの目はかわってないだろ?神南の連中の演奏を見てるのを見て思い出した。」 桐也の言葉に香穂子は日を遮るように額に手を翳して目を細める。 その視線の先には、真夏の日差しの中でヴァイオリンを奏でる、かつての自分と同じ制服を着た一人の女の子の姿。 「・・・・自分の音、見つかったんだね。」 「大分苦戦してたみたいだけどな。」 苦笑した桐也に寄り添って香穂子は笑った。 「でもよかった。これは彼女の音だもん。」 「ああ。」 夏の日差しにキラキラと青い海と青い空が輝く。 その間でヴァイオリンの音色が踊る。 時を経て、その音色は移り変わり、今は大輪のひまわりのような音色が咲き誇っていた。 〜 Fin 〜 |