明るくて笑顔の可愛らしい後輩 ―― そう思っていただけのはずだったのに・・・・ 夏色、君色、恋の音 (あ ―― っ) 見慣れた仙台の街角に、明るい栗色の髪を見つけた瞬間、反射的に八木沢雪広は近くの路地へと飛び込んでいた。 飛び込んでしまってから、はたと我に返る。 (何を・・・・やっているんだ、僕は。) まるで鬼ごっこの鬼から逃げる子どものような真似をしていることに自分でも呆れる。 そもそも『鬼』に見つかって困るようなことがあるわけではないのだ。 だって、彼女は ―― 「・・・・・」 脳裏で理路整然と並べられていく理屈を無理矢理思考停止して、八木沢は路地からそっと顔を出した。 ますます鬼ごっこか隠れん坊のようだと思ったが、残念ながら足が動かなかったのだ。 そうして伺った先には川沿いの至誠館高校へ続く道と、校舎へ向かって歩く小さな人影が一つ。 夏休み前に転校してきたせいで、まだ真新しい至誠館のセーラー服の襟を揺らしながら歩く彼女の手にはヴァイオリンケース。 となれば、該当者は一人しかいない。 小日向かなでだ。 もっとも、そんな見た目的な要素で照合するまでもなく、八木沢には一目で彼女だとわかっていた。 なんたって彼女は、去年の事件から著しく評判の悪い吹奏楽部に入ってきてくれた数少ない新入部員である。 しかも共にステージを乗り越えていく中で、今や至誠館高校吹奏楽部では欠かせない存在感を持ち始めている。 性格だって明るく朗らかで、新と並んで部を明るくしてくれていることを部長として八木沢はよく知っていた。 だから、ほんのちょっと前だったら、こんな風に後ろ姿を見かけたら、八木沢は迷わず声をかけていたはずだ。 (練習しにきたんだろうな。) 後ろ姿を見つめながらそう思う。 今現在、かなり窮地に陥れられている吹奏楽部を救う起死回生の一打として新が大量の新幹線回数券と共に示した策の通り、彼女はよく仙台に戻って練習していた。 たぶん、今日も部活やなんやで生徒が出入りしている学校で練習することで、みんなに音色を聞いてもらおうと思っての行動だろう。 そうやって吹奏楽部を守ろうとしてくれているかなでの姿に胸の奥がふわっと暖かくなる。 ああ、ここまでは以前と変わらない、と頭のどこかで思った。 けれど、今は・・・・。 そう思った時、不意にかなでがくるりと振り返った。 「!」 その瞬間、八木沢は思わず路地に頭を引っ込めてしまう。 と、目の前の通りを勢いよく人影が駆け抜けていって。 「おーい!小日向せんぱーい!」 「新くん。」 (水嶋?) 夏の暑さにも一向に衰える気配のない元気の良い声に、そーっとのぞいてみれば長身のもう一人の吹奏楽部新入部員、水嶋新がかなでに駆け寄っていくところだった。 「先輩、こんなところで立ち止まってどうしたんですか?」 「あ、うん・・・・なんだか視線?を感じた気がしたから・・・・」 目の前で急ブレーキと共に発せられた新の問いに、かなでが首をかしげるとそう答えた。 その言葉に、八木沢の心臓がどきん、と一つ跳ね上がる。 「?誰もいなかったですよ?」 「そう、だよね・・・・」 路地に隠れていた八木沢には気がつかなかったらしい新の言葉に、かなでがうなずくのを聞いて一瞬ほっとしたものの、何故か、同時に胸の奥に苦い何かが広がった気がした。 (・・・・隠れているのは僕の方なのに・・・・) その苦さが、かなでが気がついてくれなかったことへのかすかな不満なのだと気がついて、己の身勝手さに嫌気がさす。 そんな八木沢の心情などもちろん知るはずもない新とかなでは、そろって首をかしげつつ顔を見合わせる。 「まあ、小日向先輩ぐらい可愛かったら、どっかでこっそり見てるやつもいるかもしれませんけどね!」 「もう、新くん、おだてても手作りクッキーぐらいしかでないよ?」 「やった!それで十分十分、十二分ですよ!」 両手を万歳に挙げて大げさに喜んでみせる新を見て、かなではおかしそうに声を上げて笑った。 (あ・・・・) ―― どきん、と。 屈託のないかなでの笑顔に、さっきとは別の鼓動が大きく鳴った。 同時に、ぎゅうっと締め付けるような胸の痛みに八木沢は思わず己の胸に手を当てる。 (また、だ。) 最近、かなでを避けてしまうその理由 ―― それがこの鼓動と胸の痛みだった。 もともとかなでの笑顔は明るくて、その笑顔を向けられると楽しい気持ちになっていたのに、最近は何故かどうしようもなく落ち着かなくなる。 側にいたらみっともなく取り乱してしまいそうで、そんな姿を彼女に見せたくなくて、気がついたら避けてしまっているのだ。 だというのに。 「先輩の手作りクッキー!俺、みんなに自慢しちゃおうっと!」 「もう、練習してからね?」 「はーい。もっちろん!だから、俺と一緒に練習しましょう!ね!」 「うん。」 見慣れた光景だ。 明るくて社交的な新が、楽しげにかなでを誘い、それににこやかにかなでが応じる。 そうして連れだって校門の中へと消えていく後ろ姿を見送って・・・・。 「・・・・はあ。」 避けたのだから見つからなくて良かったはずだ。 それなのに、何故かひどく落ち込んだ気持ちで、八木沢は途方に暮れたようにため息をつくと、やっと路地を出て、とぼとぼと校舎とは反対に向かって歩き出したのだった。 青葉城趾にトランペットの音色が響く。 高台にある城趾で奏でられるトランペットの音色は、真夏の青い空に吸い込まれるようにさわやかに響き渡る・・・・はず、なのだが。 「―― 暗い。」 「!長峰。」 マウスピースを口から離した途端飛んできた聞き覚えのある冷徹な声に、顔を上げた八木沢は目を丸くした。 ちらほらと見える観光客や地元民をバックに腕を組んで、眉間にがっちり皺を寄せて立っていたのは、かつての仲間であり親友だった長峰雅紀だったからである。 傍らにホルンの楽器ケースがおいてあるところを見ると、彼もまた練習に来たところのようだが。 「暗い。なんだその、モール調の「こうもり」は。あの曲を吹くのにそんな辛気くさい音で吹くなどあり得ないだろう。」 「あ、はは・・・・」 ざくざくと容赦なく切り込んでくる指摘に、八木沢は乾いた笑いを浮かべてしまった。 歌劇「こうもり」の序曲は長峰の好きな曲でもあり、見過ごせなかったのだろう。 しかも。 「だいたいまず表情からしておかしいだろう。そんな葬式の最中のような顔で吹くような曲ではあるまい。そういう顔はレクイエムでも吹く時にしろ。」 (は、反論できない。) なまじ自覚があるだけに、八木沢はトランペットを抱えてため息をついてしまった。 「そう、だね。君の言うとおりだ。次のステージで吹く予定の曲だったから練習していたんだけれど・・・・」 「いくら譜面が吹けていても、それでは曲想もなにもない。曲に失礼だ。」 「・・・・はい。」 まったくもってごもっとも。 自分でもわかってはいたのだ。 この曲は明るく楽しく吹いてこそ曲の魅力が伝わる曲だ。 けれど、この曲を奏でるたびに、この曲に似合う彼女の姿がちらついて、どうしても曲に集中できない。 アンサンブルは一人では成り立たないから、練習の時も他のパートのことを思い浮かべるのは自然なことだ。 けれど気がつけば、軽やかなパッセージで楽しげに指板の上を踊るかなでの指先を思い出したり、ロングトーンで絶妙に重なる和音に嬉しそうに見せるかなでの笑顔を思い出している。 そうしてそのたび、心がざわめき、どうしようもなくなるのだ。 (本当に僕は、何を考えているんだろう・・・・) これでは長峰に呆れられるのも当たり前だと八木沢がもう一つため息をついたところで、長峰は眼鏡のつるへ手をやると「まったく、」と呟いた。 「・・・・ここのところ少しは面白い音になってきたと思っていたら、これか。」 「・・・・え?」 前と同じ呆れたような声だったが、思いがけない内容に八木沢は顔を上げた。 「長峰?今、なんて」 「お前の音は昔から清廉潔白過ぎるからな。少しは変化が出てきたと思っていたんだが。」 (僕の音が、変化してた・・・・?) 長峰の指摘に八木沢は驚きを覚えた。 かなでを避け始めてからあからさまに音がぱっとしないことには気がついていたが、それ以前にも変化があったなんて気がついていなかったから。 「僕は・・・・どんな音を吹いていた?」 「それを教えてやるほど私も親切じゃない。」 ふん、と鼻を鳴らす長峰に歯がゆい思いは感じるものの、いかにも彼らしいとも思う。 しかし、珍しく彼は「だが」と続きを付け足した。 「少なくとも、以前よりも面白く、今よりも輝いてはいたな。」 「・・・・・」 長峰の言葉を数秒かみしめてから、八木沢は再びため息をついた。 「・・・・わからないんだ。」 「?」 「わからない・・・・初めてなんだ。こんなに感情で音が変わったのは。」 ぽつりと呟いた、それが八木沢が一番途方に暮れている問題だった。 そう、初めてだったのだ。 今まではどんなに辛いことがあっても、トランペットを演奏していればそれに集中していられた。 それなのに、今はトランペットを演奏している時でさえ、かなでのことが頭にちらつく。 笑顔を、音色を思い出すたび鼓動は跳ねるのに、わけのわからない焦りと彼女の前に出られない落胆に心が沈む。 二人で帰った時、一人勝手に気まずくなって逃げるように帰ってしまったこと。 横浜で一緒に喫茶店に入った時、無邪気にスプーンを差し出すかなでの前で、取り乱すことしかできなかったこと。 思い出すにみっともない姿しか見せていないような気がして、気持ちばかりが際限なく落ち込む。 と、同時に部長として信頼のまなざしを向けてくる顔を思い出すと、なんとかしっかりしなくてはと思う。 でも、そのためにはかなでの笑顔を直視してしまうと、どうしても落ち着いていられないから・・・・と堂々巡りばかり繰り返して。 「僕は・・・・部長失格だ。」 明るくて笑顔の可愛い新入部員。 かなではそういう存在であり、他の部員たちと同じく大切な仲間のはずなのに、こんなにぐちゃぐちゃとした感情を抱くなんて・・・・。 と、八木沢が暗い顔でうつむいたところで。 「・・・・朴念仁だとは思っていたが、想像以上だな。」 「え?」 さっきと同じようで、今度はものすごく呆れた響きを持った長峰の呟きに八木沢は驚いて顔を上げた。 見れば、長峰は傍らに置いていたホルンケースを持ち上げるところで、今にも歩き出しそうなその姿に八木沢は少し焦る。 「長峰?どういう意味だい?」 「どうもこうもない。そのままだ。・・・・まあ、私としては彼女のしょんぼりとした顔が気に入っているから、もうしばらく楽しませてもらうがね。」 「!」 ホルンケースを持ってやや意地の悪い笑みを浮かべた長峰の言葉に、八木沢の鼓動がどくんっと鳴る。 長峰が『彼女』と指したのが誰だか分かったから。 「小日向さんをあまりいじめないでくれ。」 「ふん、今、彼女をいじめているのは誰なのか、わかっていない奴に言われる筋合いはないな。」 「今・・・・?」 ぴんとこずに思わず聞き返した八木沢に今度こそきびすを返して長峰は言った。 「せいぜい悩むことだ。それでも気がつかないなら、それでもかまわないだろう。彼女の引き取り手は、癪だが他にもいる。・・・・私も含めて。」 「ちょっと、待っ」 呼び止めかけた八木沢の言葉を綺麗に無視して長峰はそのまま人の間へと消えていく。 その背中をなすすべもなく見送ってから、八木沢はため息をついてのばしかけた手をトランペットへと戻した。 夏の日差しを受けて金色のトランペットがきらりと輝く。 「僕の音色が変わっていた、か。」 なんだかんだで長峰が吹奏楽部のメンバーの演奏を気にしていたことは知っている。 だから、彼の指摘であればきっと間違ってはいないのだろう。 でも、だとしたらいったいいつから? そもそもどんな風に? そこにここ数日の、この解決できない胸の痛みと鼓動のヒントがあるような気だけはしたが、輝くトランペットが答えをくれるはずもない。 ただ、あきらめて再び練習をしようとトランペットを口下へ持っていったところで、トランペットに反射した夏の太陽がまぶしく光った。 その光に目を細めると否応なしに脳裏に一つの笑顔が浮かぶ。 『八木沢部長!今のうまくいきましたよね!』 栗色の髪を揺らして笑うそのひまわりみたいな笑顔は、今は一緒に練習している新に向けられているのだろうか。 しょんぼりした顔なんてあまり見たことがないけれど、長峰の前ではどんな顔をするんだろうか。 ぽんぽんと浮かんでははじける炭酸水の泡のような気持ちばかりが、胸の奥にくすぶって、八木沢は締め付けられる胸の苦しさをごまかすように、マウスピースに口をつけたのだった。 ―― もちろん、そんな気分で軽やかな「こうもり」序曲が奏でられようはずもなく。 「だから、暗い!!」 耐えきれなくなったらしい長峰に、八木沢が叱られているという世にも珍しい場面があったとかなかったとか。 〜 Fin 〜 |