杜の響きに
仙台は杜の都というだけあって、緑が目を引く街である。 仙台駅近くこそ、近代的なビルに囲まれているが、すぐ近くには大きな街路樹の並んだ通りもあるし、少し離れれば仙台川沿いに青葉城に向かって美しい緑が広がっている。 と、ここまでは観光案内にものっている情報だが、地元の人が知っている密かな緑の楽しみ方があった。 それは川沿いに立つ至誠館高校周辺の遊歩道を散歩すること。 特に夏休みに入ると、部活に励む高校生達のはじけるような声が緑に反射して、まぶしくも爽やかな気分にさせてくれるのだ。 白球を打つ快音、ポジションを指示する声、そして、音楽。 (―― あ) 照りつける真夏を予感させる太陽の下を、楽器をケースを背負って歩いていた八木沢雪広は、聞くともなしに耳に入ってきていた至誠館高校の音の中に、一筋のヴァイオリンの音を見付けて足を止めた。 至誠館高校にはブラスバンド部も吹奏楽部もあるが、どちらも弦楽は基本編成に入らないので、今まではこのあたりでヴァイオリンを聞く事はなかった。 だからこのあたりでヴァイオリンの音を聞いたなら、きっと夏休み前に彼女しかない。 そう思ってあたりを見回した八木沢の目に、川沿いに立つ一人の少女の姿が目に入った。 まだ新しい至誠館高校のセーラー服の襟が、演奏に合わせてゆらゆらと揺れる。 熱心に練習している様子に、八木沢の頬がゆるんだ。 (相変わらず熱心だな。) いつも思うが、なんとなく部員が一生懸命に練習しているのを見ると、嬉しくなってしまうのは部長としての性なのだろうか。 そう、ヴァイオリンを弾く少女、小日向かなでは至誠館高校吹奏楽部初のヴァイオリニストの部員だった。 そんな部員の姿に八木沢は足を河原の方へ向ける。 練習に夢中なのか、八木沢が降りていってもかなでは気がついた様子もなくヴァイオリンを弾いている。 よく見れば、ちらほら遠巻きにではあるがかなでの演奏を聴いているらしい至誠館の生徒やご近所の方もいるのだが、彼女自身はそんな観客にさえも気がついていないようだった。 ただ一生懸命にヴァイオリンを奏でる。 弓が弦を擦るたびに紡ぎ出される音ははりがある歌声のように川面を滑り、ピッチカートは弾むように空へ駆け上がり太陽を透かした緑の梢に戯れる。 ―― 上手い、と思う。 八木沢にはヴァイオリンをやっている幼なじみがいるため、ヴァイオリンの音は聞き慣れている。 その耳を持ってして、かなでの演奏は技術的にかなり高いレベルを持っている事がわかるのだ。 技術だけならきっとその幼なじみの高校でも頭一つ抜けでるだろう。 (でも・・・・なんだろう。) かなでの演奏を聴きながら八木沢は心に引っかかりを覚えた。 彼女の演奏は、どこか物足りないのだ。 楽譜を弾くという意味では完璧だ。 弾き方だって問題はない。 それなのに、どこか苦しい。 紡ぎ出される音は軽やかに弾むのに、まるで色の付いていない硝子の玉を投げ上げているように。 そんなことを考えていたらいつの間にか曲が終わったらしい。 フェルマータがゆっくりと青い空に消えていくと同時に聞こえた控えめな拍手に、八木沢ははたと我に返った。 と、見れば、かなでが小さな拍手をくれた観客にお辞儀をしているところだった。 「あ・・・・」 拍手をし損なったという事と、声をかけるタイミングに八木沢が迷った時、かなでがふっと顔を上げて。 「あ、部長。」 八木沢の顔を見つけてぱっと顔を輝かせたかなでに、なぜか八木沢は一瞬言葉に詰まった。 しかしすぐに気を取り直すと残っていた数歩の距離を埋めて、八木沢は声を掛ける。 「こんにちは、小日向さん。練習ですか?」 「はい。部長も?」 「ええ、僕も学校で練習しようと思ってきたのですが、途中で貴女の姿を見付けたので。」 思わず聴きに降りてきてしまいました、と笑いかけると、かなでもはにかんだように笑った。 「まだまだですけど。」 その言い方に八木沢は少し違和感を覚えて首を捻る。 「そうですか?きちんと弾けているように聞こえましたよ?」 「楽譜は・・・・さらえているんですけど。」 僅かに言いよどんでかなでは自分のヴァイオリンに目をおとした。 そして、ぽつりと言った。 「部長、私の音、楽しそうに聞こえますか?」 「!」 それはまさにさっき、八木沢が感じていた違和感を言い当てる言葉だった。 思わず返事に詰まっていると、かなではちらりとその顔を見て苦笑する。 「まだまだ、なんです。」 「小日向さんは、楽しい音を奏でたいんですか?」 そう聞いた八木沢の言葉にかなでは大きく頷いた。 「はい!だから吹奏楽部に入ろうって決めてたんです。」 「吹奏楽部にですか?」 確かにかなでは転校初日に吹奏楽部の練習にやってきた。 本来吹奏楽とは管楽器を中心に構成されるものであり、入るとしてもコントラバスぐらいのものだから、ヴァイオリニストの部員というのは異例中の異例だし、かなでにしてみてもヴァイオリニストとして得る物があるのかわからない。 しかし真っ直ぐに入りたいと言ってきたかなでの様子は強い意志を感じた。 その真意まではわからなかったが、自分たちと音楽をやりたいと言ってくれる人を編成などの理屈で断るようなことはしたくないと八木沢は思ったのだ。 けれど考えてみればあれほど一生懸命に入りたいと言ってきた理由を聞いていなかった。 「楽しい音を奏でたくて、吹奏楽部に来てくれた、ということでしょうか?」 八木沢の言葉にかなでは頷いた。 「初めて青葉城趾で新くんのトロンボーンを聞いた時に、こういう演奏をする人達と一緒に合奏をしてみたいって思ったんです。そうしたら私も・・・・前みたいに楽しくヴァイオリンを弾けるかも知れないって。」 後半を己に言い聞かせるように呟いたかなでの口調が、いつも明るい彼女にしては珍しく寂しげで、ちくりと八木沢の胸が痛んだ。 (ああ・・・・そうか、この違和感だ。) かなでの演奏を聴いた時に感じる不思議な齟齬。 それはきっと、いつものかなでから想像する音と、実際の音色が違うせいだ。 明るくておおらかなかなでが弾くにしては、今のかなでの音色は押さえつけたように色がない。 まるで歌うことを恐れているかのように。 (何かあったのかな。) ふいにそんなことを聞いてみたい衝動にかられたが、すぐに心の奥に押し込んだ。 興味本位で聞いていいことではない。 それよりも今は、部長としてしなくてはならないことがあると気がついた。 だから。 「?部長?」 ぱさっと近くの河原に楽器ケースを降ろした八木沢の行動にかなでが首を捻る。 その問いかけには答えずに、楽器ケースからトランペットを取り出すと、マウスピースを付けながら振り返る。 「では、合奏しましょうか。」 にっこりと笑うと、かなでが驚いたように目を丸くした。 「え?いいんですか?練習にきたんじゃ・・・・」 「はい。だから、合奏の練習です。」 「!」 正直なところ、次のステージに向けた曲は、まだ吹き込みも甘いし、本来ならばもう少し個人練習をしてから合わせたいところだ。 (でも、今は彼女と弾きたい。) 譜読みが半端で間違えても、音程が合わなくても、それでも合奏わせることは楽しいのだ、と。 それが至誠館高校吹奏楽部部長として、音に迷う彼女にしてあげられる事だと思うから。 音だしがてらパッセージを一つ二つ吹いていると、視線を感じた。 見ればかなでが目を丸くしたままこちらを見ていた。 それがひどくびっくりした子どもみたいにまん丸の目なのが妙におかしくて、八木沢は口元に笑みを刻んで言った。 「合奏わせないんですか?」 「!や、やります!やります!やりたいです!!」 そう言ってあんまり慌てたように譜面に飛びつくから、慌てなくて良いですよ、なんて笑って。 ―― 青葉の間にトランペットとヴァイオリンの二重奏が響く。 時々、音を間違えたりしているのに、二つの音が戯れるように奏でる曲は楽しげに遊び、夏の空へと駆け上ってゆくのだった。 〜 終 〜 |