唇はとざされて ヴァイオリンはささやく 「私を愛して」 と ―― メリー・ウィドウ・ワルツ 木々の梢の間を軽やかな旋律が踊りながら流れていく。 ほんの数週間前まで夏の日差しを受け止めていた葉は今や色とりどりに色づき、秋めいた日差しと戯れている。 お散歩日和な秋の午後。 公園を歩く人々の耳にも軽やかなメロディーでありながら、どこか切なさと切実さを感じさせるような甘い旋律が届いたことだろう。 もっとも、その曲を奏でる少女自身は誰かに聴かせるつもりではなかった。 だから、いつものように公園の広場で弾くのではなく、木々の多い場所を選んでヴァイオリンを歌わせる事にしたのだ。 秋の金色の日差し、色とりどりの木々の葉。 観客はそれで充分だった。 スポットライトを浴びた舞台で奏でるのと同じ様に、少女は落ち葉の舞台で弓を滑らせる。 楽譜も譜面台も要らない。 音などとおに覚えてしまった。 淀みなく指板の上を走る左手の指はまるでその歌詞が歌うように、ワルツのステップを踏んでいるようだ。 オペレッタらしい明るいメロディー。 唇はとざされて ヴァイオリンはささやく 「私を愛して」 と ワルツのステップよ 言っておくれ 「私を愛して」 と ―― 彼の地よりも北にあるから、少しだけ冬の気配のする秋の風の間をトランペットの音が吹き抜ける。 清々しい音色でありながら、どこか甘いそれは風に乗って遠く遠くへ。 広い公園の一角で高らかに青い空へとメロディーを奏でる青年もまた、観客を必要としていなかった。 いつかもっと鮮やかな青い空と、塩の匂いのする風に乗せた旋律を追いかけるように。 その音色を彼を知る仲間達が聴いたなら、少し驚いたかも知れない。 何故なら常の彼の音は直向きで揺るぎなく、清廉な響きを持っているから。 けれど、今の音色はどうだろう。 甘く揺れて、何かを恋うような。 切なく胸を掴まれるような。 手を握りあうたび はっきりわかる あなたの手は告げている ほんとうに ほんとうに あなたは私を愛している ―― 甘い甘いちょっと悪戯っぽい歌詞。 この歌詞のように手を繋ぐ度に想いが伝わってしまうのなら、少し恥ずかしいと少女は思う。 弓を握り、指板を走る指は自分ではけして細いなんて思ってもいなかったのに、トランペットを支える手に包まれた時、初めて小さいのだと知った。 すっぽりと包まれてしまう手の温度に心臓が飛び出しそうなほどドキドキして、でもとても安心したのを覚えている。 夏で暑かったはずなのに、手に汗だってかいていたのに。 それでも離してほしくないと願った。 そういうのが、手が告げるっていうんだろうか、と気づいて少女は小さな動揺に音を一つ外す。 ステップを踏むたび 心も踊る 鼓動が高鳴る 「私のものになって 私のものになって」 と ―― 譜面も見ずトランペットを吹きながら頭の中で歌が聞こえる。 今まで吹いていたおそらく世間的に一番有名なメロディーではない語りかけるような旋律はハンナのパート。 だから彼女と出会って、恋を知るまでここは女性の気持ちを歌っているんだと勝手に思っていた。 けれど、今ではわかる。 この曲は男性だから女性だからという視点なんてないんだと。 音色を奏でるたび、心が躍る。 ヴァイオリンの音とトランペットの音が遊ぶように重なるたび、鼓動が高鳴る。 最初にこの曲を共に奏でた時、どれほど思ったことだろう。 どうか、永遠にこの合奏が続きますように、と。 そして何度想っただろう。 唇は何も言わないけれど 耳には響く 「本当にあなたを愛している あなたを愛してる」 ―― 二人とも照れ屋で親友や仲間達に笑われてしまうほど奥手なところがあるからなかなか口には出せない言葉。 けれど、このメロディーをかなでる時は伝われば良いと想う。 出会った夏が過ぎて、仙台と横浜で離ればなれになっても。 会いたくなったら、寂しくなったら。 想いが溢れそうになったら。 ほら、こんなに大好きなんだと叫びたくなったら。 空に向かって甘い旋律を奏でると、どこかからヴァイオリンのメロディーが聴こえる。 光の中で甘い歌詞を思い出すと、どこかからトランペットの裏打ちが聴こえる。 隣にいない距離に涙が出そうになる時があっても、オペレッタの音色は明るく楽しく励ましてくれるから。 ―― そうして、落ち葉の舞台がやがて消え、高らかな空が雪雲に覆われる日日が訪れ。 暖房の効いた部屋でピッチカートで響くワルツのメロディーに、隣の部屋の親友に微笑ましい目で見られて照れたり。 入試前夜の落ち着かないホテルで、マウスピースで裏打ちをなぞったり。 離れた場所で二つのメロディーが繰り返し繰り返し歌い続ける。 唇は何も言わないけれど 耳には響く 「本当にあなたを愛している あなたを愛してる」 ―― そして ―― 秋が過ぎ、冬が過ぎ、春が来る頃。 仙台からトランペットの音色が消えて、横浜の公園を散歩する人々はずっとソロだったメロディーがデュオになったのを聴く。 手を握りあうたび はっきりわかる あなたの手は告げている ほんとうに ほんとうに あなたは私を愛している ―― 「それにしても、甘ったるい曲だ。」 言葉だけは呆れたように言いながら、ニアは愛用のデジカメのシャッターを切る。 いつの間にか甘い音色は途切れている。 まあ、それは当然だろう。 甘い甘い旋律を歌っていた彼らの楽器は、今、ケースの上で大人しく休憩中。 そして、その主達は。 「まあ、甘すぎるあの二人にピッタリの曲ではあるな。」 くすりと笑ったニアのデジカメの液晶画面には。 ―― 新緑の光の中で、オペレッタのラストシーンのように、ハッピーエンドのキスをする八木沢とかなでの姿が映っていた。 〜 Fin 〜 |