まだ見たことがない花
「次のセミファイナルは小日向さんが1st・・・・?」 偶然帰りにかなでと会ったという火積からそう聞いた時、くり返す言葉を疑問に濁らせたのは、そこはかとない不安だった。 ―― ミーンミンミンミン 途切れる事を知らぬ真夏のBGMの定番、セミの大合唱を聞きながら菩提樹寮の台所に立っていた八木沢雪広は、手に持っていたボールからぴったり型に羊羹の元を流し込んだところで手を止めた。 「よし。」 もちろん材料をきちんと量ってやっているのだから、びったりいくはずではあるのだが、こうして自分の計算通り型に収まってくれると、どことなし満足感があるものだ。 (あとはこれを冷やしておけば完成だ。) 空になったボールを流しに置いてまだゆるい水羊羹を型から零さないように冷蔵庫にしまうべく持ち上げたついでに時計に目を走らせる。 時刻はお昼を少し過ぎた頃。 (この時間なら固まった頃には誰か帰ってくるかな?) 外から聞こえるセミの大合唱が証明しているように、今は夏もど真ん中の真夏なので、いくら室内で練習していてもある程度で休憩を入れなくては持たない。 だからこの菩提樹寮に全国大会のために集まっている生徒達は、定期的にここへ戻って来ては各自休憩を取るのが当たり前になっていた。 だから、八木沢自身もひと練習して帰ってきた頃に固まるように水羊羹を作っていたわけだが・・・・と、そこまで考えてふっと八木沢の頭にある人物が浮かんだ。 (・・・・小日向さん、ちゃんと休憩にくるかな。) いつもにこにこ笑っている明るい向日葵のような少女の姿を思い出して、八木沢はうーん、と小さく唸った。 一見するとごく普通で、むしろどこか抜けている可愛らしい少女に見えるかなでだが、彼女が音楽の事となると人並み外れた集中力と執着を見せる事を、東日本大会以来の短い付き合いの中でも八木沢は知っていた。 (まして今は・・・・) 冷蔵庫に水羊羹をはこびながら、八木沢は眉間に浅く皺を刻む。 セミファイナルを前にした今、かなでが置かれた状況は一段と厳しい物になっている。 部長で主戦力である如月律の負傷による離脱はもちろんのこと、セミファイナルで闘う事になる神南高校は確かな技術と清廉な音楽で定評の星奏とは毛色が違って華やかなエンターテイナーだ。 自然、厳しい勝負になるだろうと八木沢が思うぐらいだから、本人達もかなり意識しているだろう。 それに加えて、かなでは・・・・。 考えながらもそっと冷蔵庫に水羊羹を入れ、ぱたん、と扉を閉めた。 ちょうどその時。 「八木沢、いたのか。」 「如月君。」 きしきしと廊下が軋む音とともに台所に顔をだした如月律の顔を見て、八木沢は少し驚いた。 確か律は一度昼を食べに戻って来た後、部の仕事をするといって学院に出かけていったはずで、帰ってくるには明らかに早い。 「何か忘れ物ですか?」 「ああ。麦茶を忘れてな。」 至極真面目にそう応える律。 ここで話を聞いていたのが響也あたりであったなら「ペットボトルぐらい買えよ!」と適確な突っ込みを入れてくれるところだが、生憎、相手は八木沢である。 「そうですか。それで取りにきたんですね。暑い中お疲れ様です。」 一点曇りもないいたわりの表情を浮かべて、冷蔵庫の中から麦茶のピッチャーを取り出すと律に渡した。 「ああ、すまない。」 すんなりそれを受け取った律は、自分の水筒を取り出すと無表情でこぽこぽと注ぎ込む。 なんとなくその仕草を見守っていた八木沢は、ふと口を開いた。 「如月君。」 「なんだ?」 「何故・・・・小日向さんを1stに指名したんですか?」 ぴたり、と律の手が止まった。 そして顔を上げて八木沢を見るその顔は、表情はあまり変わらないが瞳には怪訝そうな色が宿っていた。 「何故、とは?」 問い返されて、部外者の自分がこんな事を口に出すべきか一瞬迷う。 しかし、結局八木沢の口からは、セミファイナルでかなでが1stを弾くと聞いた時から、心に引っかかっていた疑問が滑り出していた。 「僕は吹奏楽ですが、それでも弦楽四重奏で1stというのがどれほど重要な意味を持つのかはわかっているつもりです。」 弦楽四重奏でヴァイオリンの1stと言えば花形であると同時に、そのアンサンブルの音色そのものの方向性を決めてしまうような重要な役割だ。 故に、1stには実力者を、というのが常識である。 「もちろん、小日向さんはとても美しい音を奏でると思います。ですが・・・・」 かなでに実力がないと言っているわけではない。 実際、東日本大会で星奏のアンサンブルを2ndで支えたのは間違い無くかなでの音だと、戦った自分が一番よくわかっている。 けれど。 (何かが、足りない。) 2ndを弾かせるならかなではおそらく最高だ。 けれどアンサンブル全体の調和をコントロールし支える2ndと1stでは決定的に違う。 だからこそ、副部長の大地がかなでの1stには反対をしていると聞いた時、その気持ちも少しわかってしまった。 部員の実力を見極めて、同じ所に停滞させるのではなく上を目指させるのは部長の役目だ。 もし、律がそう考えてかなでを1stに指名したなら気持ちはわかるが、それでも強敵の存在や同じアンサンブルメンバーの反対にあって、今のかなでは見ている方が危うく感じる程。 「・・・・彼女が、追い詰められているように見えて。」 口に出した途端、胸をぐっと押さえられるような苦しさを感じて、ああ、これが自分に他校のやり方に口を出すような事を言わせている原因なのだと八木沢は自覚した。 『八木沢さん・・・・花ってなんでしょうね。』 菩提樹寮の庭先に、今が盛りと咲き誇った色とりどりの花たちを見てそう呟いたかなで。 いつもは向日葵を思わせるその笑顔は、萎れた花のように力なく、その問いは自分が答えを出す物ではないと思いつつも、話を聞くしかできなかった自分が酷く不甲斐なかった。 (笑っていて欲しいと思うのは無責任なのかもしれませんが・・・・) セミファイナルの1stをかなでがやると聞いた時にも覚えた不安。 ふとした瞬間に演奏することを怖がるような素振りを見せるかなでが、重すぎる役目に押しつぶされてしまわないか。 そしてこのまま笑顔が戻らなくなってしまったら。 そう思うと、何故か酷く苦しくなる。 かなでには笑顔でいて欲しい、幸せな音楽を奏でて欲しい・・・・そう強く想う気持ちを何と名付けるのかまでは意識しないまま、それでも感じる苦しさに八木沢はぐっと胸に拳を押しつけた。 そんな八木沢の仕草を見ていた律は、無言で麦茶のピッチャーを横へ置くと、眼鏡の位置を指で直した。 そして。 「八木沢も、小日向には花が無いと思うのか。」 「っ!」 ずばっと切り込んできた言葉に八木沢は一瞬息を飲んだ。 「いえ、小日向さんの音はけして花がないというわけではないと思います。しかし」 「1stをやるには足りない、か。」 「・・・・・」 フォローというつもりで言ったわけではないが、淡々と返してくる律の言葉に八木沢は黙った。 妙に居心地の悪い一瞬の沈黙の後、律は浅く息を吐いた。 「そうなのだろうな。・・・・俺達以外からみれば。」 独白のように呟かれた言葉に、八木沢は首をかしげた。 「俺達以外?」 「俺と響也・・・・それから、おそらく冥加もだ。」 「?」 並べられた名前に接点が見いだせずにますます疑問符を増やしていると、律がぽんと答えを放ってきた。 「幼い頃の小日向の演奏を知っている人間だ。」 「幼い頃・・・・」 冥加についてはわからないが、かなでと如月兄弟は幼なじみだから、子どもの頃から一緒に練習していたと聞いている。 「冥加はどこかで昔の小日向の演奏を聴いたんだと思う。だからこそ、今の小日向を前にあんなに挑発的な態度を取っているのだろう。」 「では、子どもの頃の小日向さんの演奏は今とは違ったということですか?」 律の言い方からしてそういうことなのか、と問い返した八木沢に、律は頷いてふっと視線を彷徨わせた。 そう、何かを思い出すように。 「技術的には子どもだったのだから未熟だった。しかし・・・・」 そこで言葉を切って、律はほんの少し口元に笑みを浮かべた。 そして。 「あれは、本当に音楽を愛し、音楽に愛された音色だった。」 とてもとても愛おしいものを語るような優しい言葉を聞いた刹那、胸の奥をちくりと射された気がした。 「・・・・・」 それは、嫉妬というのが一番近い感情だったかも知れない。 律が思い出しているであろう至上の音楽を聴くことが出来ないことへの。 もしくはかなでの過去の姿を容易に思い出せる彼女の幼なじみへの。 けれど、それらは八木沢の自覚していない想いまでもごちゃまぜになり、ただ形にならない感情として八木沢の胸に渦巻いた。 「では・・・・如月君は、小日向さんがかつての音を取り戻すと?」 かなでの中には八木沢達が知らない過去のかなでの音色が眠っていて、それを1stを弾くことで取り戻させようとしている、と解釈してそう言った八木沢に、律は夢から覚めたようにいつもの顔に戻ると首を振った。 「違う。」 「違う?」 「言っただろう?昔の小日向の話だから技術的には未熟だったと。」 そう言って、律は止めていた麦茶を注ぐ作業を再開する。 といってもそれほど大きな水筒に入れているわけでもないから、すぐに一杯になったのか、再びピッチャーを置くと、律は水筒に機械的に蓋をした。 そして改めて顔を上げると。 「この数年間、小日向の音には感情がのっていなかった。原因は俺にも響也にもわからなかったが、ある時期を境に小日向の演奏は心が死んだんだ。だが、東日本大会の時の演奏を聞いて確信した。やはり小日向は音楽を愛しているんだ、と。だから、今の小日向の音を俺は聴きたい。」 いつになく饒舌にそう語った律の顔には、かなでが1stを努める事への疑問など欠片もなかった。 (それだけ・・・・彼の知っている小日向さんの演奏は素晴らしかったということか。) 昨年、ソロで全国優勝を果たした如月律にこう言わしめるだけの。 「ありがとう。」 「あ、はい。」 思わず言葉を継げなくなっていた八木沢に律は相変わらずの淡々とした調子で麦茶のピッチャーを返すと、それこそ来た時と同じ様に、あっさり台所から出て行ってしまった。 呆然とその背中を見送って、後に残された八木沢は麦茶のピッチャーを握ったまま立ち尽くす。 ―― ああ、なんだろう。 「それは・・・・」 気が付けば自然と口から言葉が零れていた。 「それは、僕も聴いてみたいです。」 胸の中に渦巻く感情がそう叫ぶ。 自分の知らないかなでに。 何年も前の演奏なのに未だに誰かの心を掴んで離さない演奏に。 (―― 会ってみたい。) ミーンミンミンミン、ジワジワジワ・・・・ 真夏のBGMが耳に付く。 その向こうの強い日差しに目を細めて、八木沢は麦茶のピッチャーを握りしめた。 冷たいピッチャーの表面とは裏腹に、胸の内に生まれた熱い感情を自覚しながら。 〜 Fin 〜 |