恋のワルツ、戸惑いのステップ
彼女の唇が、トランペットとキスをする。 いつも明るく笑う唇。 楽しい事はより明るく、辛い事や苦しい事にも真剣に向き合う言葉を紡ぐ唇。 化粧をしているわけでもないのに、ふんわりと紅色の唇。 ずっと見ているのは絶対に失礼だと思うのに目がはなせない。 『八木沢部長』 他の部員達と同じ呼ばれ方なのに、彼女の唇がそう呼ぶだけで、甘く響く気がする。 何が違うんだろう。 彼女の唇そのものが、甘い、のだろうか。 触れたら・・・・わかるだろうか。 あの柔らかそうな、可愛らしい唇を塞いで、その唇を通る空気すらも奪ってしまえば、この衝動の意味が。 そう、あの唇を・・・・・・・・・・ ジリリリリリーッッ! 「っっっ、うわあああっっっっ!!!」 朝の訪れを告げるけたたましいベルと、己が上げた悲鳴がほぼ同時に、八木沢雪広の自室に響きわたった。 ほとんど反射的に飛び起きた八木沢は、刹那、状況が理解できないように周りを見回して。 「っ、〜〜〜〜〜〜〜〜」 (な・・・・夢・・・・いや、夢にしたって、なんて夢なんだ・・・・) 火が噴きそうなほど熱くなった顔を布団を被ったままの膝に押しつける。 誰も見ていないとわかっていても、やたらめったら恥ずかしかった。 (よりによって小日向さんの・・・・) 唇の夢、と思ってしまって、あまりのあまりぶりに自分でダメージを受ける。 「何を・・・・考えているんだ、僕は・・・・」 己を律するようにそう呟いたものの、実のところ、原因に心当たりはあったりする。 (昨日・・・・) そう、昨日の放課後・・・・と、思い出しかかったところで、八木沢の部屋の外から不機嫌そうな妹の「お兄ちゃん!目覚まし止めて!」という声が聞こえて、八木沢ははっとした。 見れば、さっきから声も枯れんばかりに鳴り続けている目覚まし時計が指している時間は、8:00ちょうど。 「!急がないと!」 家から至誠館高校はそれほど遠くはないが、支度を含めればギリギリの時間に、とにもかくにも八木沢は布団から飛び出した。 頭のどこかで、とにかく今は登校に全集中力を傾けられる事を、少しだけありがたく思いながら。 ―― それは昨日の放課後の事、なんてことないやりとりから始まった。 「え?小日向先輩って一度も管楽器触ったことないんですか?」 夏の全国大会制覇を成し遂げて、なんとか廃部を免れた吹奏楽部の部室には、どこかのどかな空気が漂っていた。 そんな中だから、冬の定期演奏会に向けての会議を行っていたのに気がつけば雑談になっていたのも無理はないかもしれない。 とはいえ、みんなそれなりの音楽バカなので、なんとなく話が音楽の方向に行った時に、それぞれの楽器の話になり、その時、ふとかなでが言ったのだ。 『私、管楽器ってやったことないです』と。 吹奏楽部なだけに、皆、管楽器しか馴染みの無かった他のメンバーはその言葉に目を丸くしたのだが。 「あ、でもそっか。小日向さんってうちに来るまで部活とか入ってなかったんだろ?」 思いついたような狩野の言葉にかなでは頷いた。 「小中はヴァイオリン教室に通ってましたから。」 「あー、そっかー。ハルちゃんとこみたいにオケ部なら他の楽器に触れる機会もありますけど、ヴァイオリン教室じゃヴァイオリンオンリーですよね。」 「・・・・あんた、本当によくうちに入ったよな。」 新に続けて、半ば呆れたように火積に言われてかなでは苦笑した。 「自分でもちょっと無謀かなって思ったけど・・・・でも、今までやったことなかったアンサンブルだったし、新鮮で楽しいよ。」 「よかった・・・・僕もヴァイオリンと合わせるの初めてだから、楽しいよ・・・・」 にこにこと微笑む伊織とかなでがえへへっと笑い合うと幻のお花畑が見えそうなぐらい空気が和む。 そんな様子を微笑ましく見ながら八木沢も言った。 「自分の楽器ではない楽器というのも興味深いですよね。管楽器の中だって、僕はトランペットだからチューバは触ったことがなくて、狩野に頼んで吹かせてもらったりしたこともあります。」 「あ、それは楽しそうですね!」 八木沢の言葉にかなでがぱっと顔を輝かせる。 「おじいちゃんや律くんがくわしかったから楽器うんちくは一杯聞いてるんですけど、実際に触ったことがない楽器が多くて気になってたんです。」 律の名前にさもりあなんと頷いていると、新が猫のようににんまり笑って「ねえねえ小日向先輩」と話しかけた。 「じゃあじゃあー、オレのトロンボーン吹いてみます?」 「え?」 「なっ!ばか!」 かなでが意味を理解するより、火積が新にげんこつを落とす方が早かった。 「Aii!!何するんですかー!火積先輩!」 「てめえこそ、何言ってやがる!八木沢部長の前で!」 「え?僕?」 急に自分の名前が出てきたので八木沢がきょとんとしていると、やっぱりと言わんばかりに狩野が深くため息をついて。 「おい、八木沢。ちょっと来い。」 「?」 何故か部室の隅へ連れて行かれて、ぼそっと言われたのは。 「わかってないと思うから一応言っておくが・・・・管楽器を貸して吹かせるってのは、要するにあれだ。間接キス。」 「っ!」 思わぬ単語に八木沢ははっとしてしまった。 確かに弦楽器と違って管楽器は吹き口というものが存在する。 「だから火積が気を使ったんだぞ?さすがに彼氏の前で彼女に他の男と間接キスさせるわけにかないだろ?」 「っっっ!!!」 諭すような狩野の言葉に一気に顔が熱くなる。 なるほどと納得する反面、なんだか無性に恥ずかしい。 (ま、間違っているわけではないけれど・・・・) 夏の全国大会の終わりにかなでと八木沢は想いを伝え合っているし、いわゆる『彼氏・彼女』の関係で間違いはないはずだけれど、気心の知れた仲間達に言われるのは、酷く落ち着かなくなる。 しかしそんな八木沢の動揺をよそに、狩野は「というわけで」と話を区切ると、芝居がかった調子でみんなを振り返った。 「八木沢が理解したところで、小日向さんはトランペットに挑戦してみようか!」 「なっ!狩野!?」 今の話を聞かされた後で!?と八木沢はぎょっとしたが、どうもいまいちよくわかっていないらしいかなでは、いいんですか?と目を輝かせる。 その表情に、その瞳に・・・・八木沢が逆らえるわけもなく。 「あの・・・・・・・・・・・・・どうぞ」 せめてもの抵抗にクロスでしっかり拭いたマウスピースを差し出す事になったのだ。 そうして ―― ―― 彼女の唇がマウスピースに触れた・・・・ 〜〜♪〜〜、プスッ 「!」 それまでなめらかに旋律を描き出していたトランペットの音色が、雑念が入った刹那にもろくも崩れ去った。 「〜〜〜、まただ。」 すでに何度か繰り返している同じ失敗に、八木沢はいい加減疲れを覚えてため息をついてしまった。 なんとか遅刻を免れたものの、時間ができれば浮かんでは消えるのは昨日の部室での光景と・・・・朝、見てしまった不埒な夢ばかりで、なんとか気分を切り替えようと、水曜の放課後で部活がないのをこれ幸いと、屋上に上がって練習をしていたのだが。 (これじゃ逆効果じゃないか。) 曲に集中しようとするものの、トランペットを構えるだけで昨日の記憶が刺激されてしまう。 「駄目だ、集中しないと。」 己に活を入れるように呟いて、八木沢は譜面台に向けて再びトランペットを構える。 拍を取ってブレスを吸う直前、手元のトランペットが目に入って、不意に自分の手よりもずっと小さな手がこのトランペットに触れていた光景が重なる。 〜〜♪ メロディーを追いながらピストンを押すと、いつもは弦を押さえている指先が不器用にピストンを押さえていた姿が思い出される。 (・・・・不思議な感触って驚いていたな。) 初めて持ったトランペットに驚いたり笑ったり、かなではとても楽しんでいた。 自分の大切な楽器を、好きになって欲しくて八木沢もいろいろ教えた。 〜〜〜〜♪ だから、かなでが「吹いてみていいですか?」と聞いたのはごく自然な流れで。 それから、マウスピースが、唇に・・・・。 〜〜♪ぽへっ 「っっ!」 高音部に入るはずだったメロディーがものの見事に不発になってしまって、八木沢はがっくりと肩を落としてしまった。 (・・・・本当に何をやっているんだ、僕は・・・・) もう、ちょっと泣きたい・・・・と八木沢が落ち込みかかったその時。 「あれ、八木沢部長?」 「!!」 今まで誰もいなかったはずの屋上に、よりにもよって響いた聞き覚えのある声に、八木沢は思わず肩を揺らしてしまった。 そして振り返った先には、ちょうど屋上のドアをくぐってやってくるかなでの姿があった。 「こ・・・小日向さん。」 「こんにちは。部長も自主練ですか?」 「あ、え、は、い。一応・・・・」 いつも通りにこやかに挨拶してくれるかなでに対して、上手く目を合わせられなくて八木沢はうつむいてしまった。 約束もしていなかったのに会えて嬉しいと思う気持ちと、よりによって今!?という混乱の狭間で八木沢は困惑する。 そんな八木沢の態度に何か感じる物があったのか、かなでが不意に、ずいっと近づいてきた。 「八木沢部長?」 「っ!な、なんですか?」 のぞき込まれて強制的に目に入ってしまったかなでの顔を見て、八木沢の心臓が跳ね上がる。 自然と視線が口元へ吸い寄せられてしまって、慌てて引きはがした。 しかし、さすがにあからさまに顔をそらされればそりゃあ、何かありますよ、と言っているようなもので。 「・・・・・・・」 「・・・・・・・」 (き・・・・気まずい。) 落ちてしまった沈黙に八木沢は己の行動を悔いながらも内心呻いた。 と、どうしたものかと戸惑う八木沢の耳に、ぽつりと小さな声が入ってきた。 「・・・・ごめんなさい。」 「え?」 予想外の謝罪の言葉に八木沢が驚いて視線を戻すと、見上げていたはずのかなでの頭はすっかり下を向いてしまっていた。 「小日向さん?」 「部長が気を悪くしてるのは、昨日の事ですよね。」 言葉の前半部がちょっと気になったが、それ以上にかなで本人から昨日の事と言われた事に、八木沢は動揺する。 「な、なんのことですか?」 なんとか裏返らずにすんだ問いかけに、かなでは言った。 「・・・・昨日、私は部長が大事にしてるトランペットを面白がって触っちゃったから・・・・」 「え・・・・?」 これは素直に予想外だった。 そのせいで零れた驚きの声だったが、かなでには別に意味に聞こえたらしく、少し八木沢の様子をうかがっていた顔が泣きそうに歪む。 「ごめんなさい。私、あまり深く考えずに、部長の楽器だってはしゃいじゃって・・・・」 「ちょ、ちょっと待ってください!」 このまま話していたらその瞳から涙がこぼれてしまうんじゃないか、と慌てて八木沢はかなでの言葉を遮った。 「別に僕はあなたはトランペットをぞんざいに扱ったりしなかったじゃないですか。」 「もちろん先輩の楽器をそんな風に扱ったりしません!でも・・・・面白くて触っていたのは事実だから・・・・。それに途中から八木沢部長、しゃべらなくなっちゃったし・・・・」 「それは・・・・」 あなたがマウスピースに口付けているのに釘付けでした、などと言えるわけもなく八木沢は言葉に詰まった。 が、ここで詰まれば絶対にかなでは誤解するし、それはどう考えても本意ではないわけで。 「あの」 言葉を継ごうと口を開いた八木沢は、見上げてきたかなでの不安そうな顔を前に、覚悟を決めた。 (やっぱり・・・・言うしかないな。) どんなに自分が恥をかこうとも、彼女にこんな顔をさせたままよりはずっといい。 小さく息を吸って、八木沢はとうとう口を開いた。 「それは違います。僕が途中から何も言えなくなったのは・・・・それどころか、昨日からずっと頭から離れないのは、あなたが、このマウスピースに触れたから。」 「え・・・・」 不安そうな表情が疑問に揺らぐのを見つめながら、八木沢はそれ以上見つめていられずに視線を自分のトランペットに落とした。 「お恥ずかしい話ですが・・・・昨日、あなたにトランペットを貸す前に、狩野に楽器を貸したら間接キスになってしまうだろと教えられました。確かにその・・・・あなたが他の人とそうなるのは、僕も嫌だったので、納得した上でトランペットをお貸ししたんです。でも、実際にその光景を見てしまったら・・・・頭から離れなくて。」 ぽつぽつと説明する八木沢に、かなでは何も答えない。 その沈黙がなんとも怖くて、八木沢は一息に説明してしまう。 「いつも自分が吹いているものに、あなたの唇が触れたということがひどく特別な事に思えて、それからあなたの唇から目が離せなくなってしまったんです。」 ―― 触れて、みたくて。 そう続けた言葉は小さすぎて、かなでに届いたのかはわからない。 けれど、思わずそこまで言ってしまった自分が恥ずかしくて、八木沢は慌てて言った。 「そう言うわけですから、あなたが悪いわけではないんです!気にしないでください!」 それだけ言って、八木沢がかなでに背をむけようとした時だった。 「・・・・私も、です。」 「?」 ぽつっとかなでが何かを呟いた気がして、八木沢は思わず振り返った。 と、その刹那 ―― ぐいっと制服のシャツが引っ張られて、反射的に八木沢が前屈みになる。 そこへ。 ―― ちゅ、っと 「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」 手に持っていたトランペットを落とさなかったのは、奇跡だったと思う。 ほとんど力技だったせいか、唇には重ならなかった。 でも・・・・唇の半分ぐらいに重なった。 柔らかくて、暖かくて・・・・心臓を壊しそうなぐらいに衝撃的な、感触は。 鼻先が触れてしまいそうなぐらい至近距離で、顔を真っ赤に染めて、でもどこか挑むように見つめてくるかなでの顔を、勝手に視線がなぞる。 そして行き着いた先は。 「〜〜〜〜〜〜〜っっっ!?」 「や、八木沢部長!?」 ずるっと崩れ落ちるように頭を抱えた八木沢の反応に驚いたかなでの声がする。 しかし、残念ながらそれにすぐ反応することはできなかった。 なんせ・・・・口を開けたら心臓が飛び出してきそうなほどに、鼓動が暴れ回っていたので。 (まさか、これも夢じゃないかな・・・・) あまりにも予想していなかった事態にそんなことを考えるが、朝のように大音響の目覚まし時計の音は聞こえない。 それどころか、押さえた手の下の唇にはしっかりと感触が残っていた。 想像してしまっていたように柔らかくて、想像を遙かに超えて刺激的な。 「ご、ごめんなさい!私も、その、昨日からずっと、間接キスだったなーって思ってて、今日は練習にも授業にも集中できなくて・・・・」 いろいろ限界だったんです、とやけくそのように訴えるかなでの声で、やっと八木沢は顔を上げることができた。 そうして見上げたかなでの顔は、多分、自分に負けないぐらい真っ赤で。 「・・・・そうでした。あなたは思っているよりずっと、積極的な人でしたよね。」 パフェを食べさせられたり、大判焼きにかぷっと食いつかれたり、八木沢の予想外の事をしては、顔を赤くする姿を思い出して、思わず八木沢は笑ってしまう。 (まさか・・・・最初のキスまで、先手を打たれるとは思っていなかったけれど。) 「わ、笑わないでください、部長・・・・」 「あなたを笑ってるわけじゃないですよ。ただ、ぐずぐずしていた自分がバカだったなと思っただけです。」 「ええ・・・・?」 戸惑ったような顔で見上げてくるかなでに、八木沢は微笑む。 ちょっと勇気がいったけれど、トランペットを持っていない方の手でかなでの頬へ触れると、柔らかくてドキドキして、嬉しくなった。 「僕も・・・・触れてもいいですか?」 「!」 さっきはあんなに大胆な事をしてきたくせに、こちらから問いかけると真っ赤になるのがひどく愛しくて、八木沢は目を細める。 (さっきまで、触れたいと思うのは酷く恥ずかしいことのように思っていたけれど) 今はわかる・・・・それが自然なのだ、と。 「こひ・・・・かなで、さん。」 「は、はい!」 名前で呼ぶとぴょこんっと背筋を正す彼女に押さえても笑いが零れてしまう。 そんな八木沢に気が抜けたのか、かなでも小さく笑って。 「先輩がいいです。」 「え?」 「間接キスも・・・・ほんとのキスも。八木さ・・・雪広先輩がいいです。」 「!」 ああ、やっぱり確かめたい、と思う。 こんなに自分の心を振るわせる言葉を紡ぐ唇の甘さを。 だから。 「僕も、です。」 そう答えて、八木沢は頬を傾け、その唇を塞いだのだった。 〜 Fin 〜 |