君の音になる刹那
音というものは、まるでスクリーンのように人の心を映す事がある。 その人の持つ気質、心の動き、感情の変化・・・・そんなものを映して音はその人だけが持つ音になっていくのだ、とずっと八木沢は思っていた。 例えば、火積の音は真の通った力強く不器用なまでに真っ直ぐな音。 例えば、新の音は聞く人全てを楽しませようとするように弾んで明るくて軽快な音。 そうやって誰かの音を聞くことは八木沢にとってはずっと心地良い事だった。 『だった』、のだ。 この夏、初めて、ある感情もまた音色に乗ることを知るまでは・・・・。 山下公園にトランペットの音色が響く。 本来、野外で演奏するところから楽器の歴史が始まっているだけあってトランペットの音は実に伸び伸びと真夏の空へと吸い込まれていく。 午前中のせいか通りがかる人もまばらだが、その音色を耳にした人が暑くなりかけている夏の空気に一筋清涼としたものを感じるような、そんな気持ちの良い音色だった。 と、不意にその音がやんだ。 別にミスをしたというわけではない。 ただ。 「・・・・はあ。」 マウスピースから離れた奏者 ―― 八木沢雪広の口からため息が零れただけだ。 (駄目だ。集中できていない。) 幸いな事に観客もいなかったので、八木沢はそのままトランペットを下ろすと軽く頭を振った。 自主練習に来たというのに、これでは何の意味もない、と思う。 思うのだが。 「・・・・・・・はあ。」 零れるのはため息ばかり。 そのため息に乗って、原因たる昨日の出来事が八木沢の脳裏に蘇った。 ―― 昨日、八木沢が練習の帰り道、間借りしている菩提樹寮に帰ろうと思い街を歩いている時に、その音が耳に届いたのだ。 力強いトランペットと快活なトロンボーンの音色。 (火積と、水嶋?) 聞き慣れた仲間の音だ、間違うはずがない。 けれど、その時、不思議と八木沢はいつも聞いている彼らの音と『何か』が違う気がした。 それが気になって、音の方へ足を向けたのだ。 近づいていくうちに、その合奏がデュオでないことがわかった。 金管の音の中に混ざる、柔らかくて艶やかな上質の布のような、ヴァイオリンの音色。 その音色に八木沢の心臓が一つ鼓動を早める。 少し足早に音色のする方へ向かって角を曲がった瞬間、わっと曲が広がった。 演奏する3人の周りにはすでに観客がいて、その頭越しに八木沢の目に見慣れた3人の姿が映る。 生真面目に演奏する火積、いつもより楽しげに弾む新。 そして、小さい体目一杯に音を響かせるように弾く、小日向かなでの姿があった。 (3人とも楽しそうだな。) それは自然とそう思えるような光景だった。 曲調が新の好きそうな軽やかなものだったせいもあるかもしれないが、金管と弦楽器でともすれば崩れてしまいそうな音のバランスをアイコンタクトで調整していく様さえ戯れて遊んでいるかのように。 音楽はみんなで楽しむもの。 かつて八木沢が恩師に言われ、かつ自分自身もそう言い続けている姿がそこにあるようで、八木沢も嬉しくなりしばらく耳を傾けていた。 けれど・・・・しばらくして、ふと気が付いた。 聞き慣れているはずの火積と新の音が、『何か』違う気がしたのだ。 (なんだろう・・・・?) それはさっき街角で音を耳にした時にも感じた小さな違和感だったけれど、気になり出すと妙に気になって八木沢は首を捻った。 別に悪いいつもとの違いではない。 むしろ音色は普段以上に良い気がした。 火積のいつも不器用なまでに真っ直ぐな音は、今はどこか優しく感じる。 新の楽しげな音色も、今はいつも以上にキラキラと輝いているような気がした。 (良い音だ。うん、すごくでも何が・・・・) 原因を探すように演奏する彼らに目を向けた八木沢は。 「あ・・・・」 (小日向さん、か。) トリオのもう一人の演奏者に目を止めて腑に落ちたように頷いた。 二人の間で演奏するかなでに、時折、火積と新の視線が向くのだ。 その度に彼女は楽しげに笑って、その度に新と火積の音色が輝きを増す。 部長をやっているせいか元来の性格のせいか、八木沢は人の感情の機微にわりと敏感だった。 だから、すんなりとさっきのいつもと違う『何か』がなんなのかを理解した。 音色に乗った『何か』 ―― それは淡い恋心なのだ、と。 刹那。 ―― どくんっ 胸の奥で重い鼓動の音がした。 それを合図にしたように、心の中に今までと真逆の感情がふつふつと湧いてくる。 不器用なトランペットの音色に乗った、優しい火積の恋心。 楽しげなトロンボーンの音色に乗った、弾むようにキラキラした新の恋心。 ああ、こんなにも音色というものには素直な感情がのってしまうのか、と思う傍らで、心がどんどん重くなっていく。 火積が物怖じしないかなでに驚きながらも、彼女の存在を気にかけていることは知っていたし、もともと女の子大好きな新はその好意を隠そうとしていなかった。 だから、二人のかなでへの想いを知って動揺しているわけではないのは自分でもわかっていた。 (そうじゃない、違う。僕は・・・・) 八木沢は楽器ケースを持っていない方の手を拳に握って胸に押し当てる。 この感情の名前がわからないほど、八木沢は無自覚ではなかった。 これは ―― 嫉妬だ。 自分と同じ様に、かなでを想う男に対しての。 「っ、!」 自覚したら聞いていられなくなって、八木沢は初めて楽しげな合奏の音色から逃げ出すように背を向けた ―――― そんな事があって、一夜。 少しは頭を冷やそうと自主連と称してトランペット片手に出て来たのだが。 「・・・・駄目だな。」 もうすでに幾度目になるか数えるのも嫌になるぐらいのため息をもう一度ついて、八木沢は楽器ケースを置いていたベンチに腰を下ろした。 (火積や水嶋の音色はあんなに綺麗だったのに。) ふと、そんなことが頭をよぎって八木沢は眉を寄せた。 二人の恋心を乗せた音色は、今も耳に残るほど美しかった。 技術的なものではなく、音の輝きが違ったように感じたのだ。 でも、今の自分の音はどうだろう。 どんなに綺麗に吹いているつもりでも、どこかにドロドロとした感情が残っているのではないだろうか。 かなでの笑顔を一人占めしたい、誰にも渡したくない・・・・そんな邪な感情が表に出てはいないだろうか。 そう思えば思うほど、純粋に音を紡げない気がして、もどかしさばかりが積み上がっていく。 (僕は・・・・あの二人ほど綺麗に、小日向さんを想っていないのだろうか。) 素直に笑ってくれるかなでの笑顔が好きで、演奏へ向ける直向きな情熱とその輝きに惹かれて、気が付けば恋をしていた。 でも、かつて彼女が笑ってくれていればいい、と思っていた優しい気持ちが、最近少し違うものへと変化しているのを八木沢は気が付いていた。 笑っているなら、その笑顔を自分へと向けさせたい。 そんな独占欲が押さえても押さえてもわき上がってくる。 浅ましい、と自己嫌悪に陥りそうになって、八木沢はまた一つため息をついた。 そして手に持ったままのトランペットに目を落とす。 (こんな気持ちのまま吹いたら、音色にこの気持ちが表れてしまうんだろうか。) それがなんだか恐ろしいような気がして、練習を再開する気になれず八木沢が再度ため息をついた、ちょうどその時。 「八木沢さん見つけました!」 「っっ!!?」 がさっと植え込みを分けるような音とともに、ぴょこっと目の前に現れた少女に、八木沢は心臓が止まるかと思うほど驚いた。 そりゃあ、そうだろう。 なんせ、今まさに考えていた人の姿、ヴァイオリンケースを持ったかなでが顔を出したのだから。 「こ、こ、小日向さん!?」 「はい!あ、驚かせちゃいました?」 「お、驚いたというか・・・・」 心臓が止まるかと思った。 が、それは半分は八木沢のせいでもあるので、なんとか疾走する鼓動を宥めようととりあえず深呼吸をする。 それを見て、不意打ちで驚かせてしまったと思ったのだろう。 かなでが申し訳なさそうに眉を寄せて言った。 「ごめんなさい。朝から探していてやっと見つけることができたから嬉しくなっちゃって。」 「大丈夫です・・・・って、え?朝から?」 かなでに気にしないように伝えようと思って言いかけた八木沢は、途中で気になる言葉に気が付いて問いかけた。 「朝から、探してくれていたんですか?」 「あ、」 言っちゃった、というような顔をするかなでに、せっかく落ち着いた八木沢の心臓がまた小さく跳ねた。 「その・・・・今日は八木沢さんと合奏したいなって思ったんですけど、至誠館のみんなに聞いたら朝から自主連に出かけたって聞いたので。」 探してたんです、と続けるかなでの言葉に、さっきまで重かった心が静かに軽くなっていく。 「すみません。その・・・・少し自分の音に自信がなくなって自主連をさせてもらっていました。」 「自信、ですか?」 「はい。・・・・昨日、とても良い演奏を聴いてしまいまして。」 さすがにかなでたちの、とは言えない。 それでも朝から探してくれたかなでにきちんと自分の気持ちを説明したくて、八木沢は言葉を重ねた。 「それで、少し。僕の音はあれほど純粋で綺麗なんだろうか、と不安になってしまいました。」 (こんな事を言っても困らせるかもしれないのに。) そう思いながら八木沢は苦笑する。 しかし、予想に反して、かなでは小さく首をかしげた。 「純粋で綺麗じゃないと駄目ですか?」 「え?」 予想外な言葉に八木沢は思わずかなでを見た。 その視線の先で、珍しくかなでは困ったように眉を寄せる。 「私もあんまり綺麗な音じゃないかも。」 「そんなことは!」 「あ、違うんです。それが駄目だと思ってるわけじゃないから。」 思わず否定しようとした八木沢の言葉を、かなでが柔らかく遮った。 そしてかなでが何を言いたいのかわからず戸惑っている八木沢にむかって、にっこり笑って言ったのだ。 「だって、辛い事や悲しい事、嬉しい事や素敵な事がみんな音色にごちゃ混ぜになっている方が生き生きしててきっと素敵だと思うんです。」 「あ・・・・」 すとん、とかなでの言葉は八木沢の心へ落ちた。 (その、通りだ。) 音色が感情を映すなら、楽しい感情綺麗な感情ばかりを映すわけがない。 負の感情もまた、人を形作る一つなのだから。 それを自覚した途端、肩の力がすとん、と抜けた。 そして同時に妙におかしくなる。 散々悩んでいた原因たるかなでが、いともあっさり迷い込んだ迷路の答えを示して見せてくれた。 これでは。 (もっと・・・・好きになってしまう。) 「ふ・・・ははっ」 「?八木沢さん?」 「あ、すみません。急に笑ったりして。」 思わず零れた笑いにかなでが驚いた顔をする。 それに謝って、八木沢は手に持ったままのトランペットに目を落とした。 ―― 負の感情を乗せるのが怖いと思った。 けれど、それもまた彼女への想いの一部なのだ。 純粋で綺麗だった好意は、自分勝手で制御不能な恋へ。 (今、吹いたらどんな音がするんだろう。) ふと、それがとても知りたくなった。 だから。 「小日向さん。」 「はい?」 「僕と合奏しようと探してくれていたと言っていましたよね。よかったら合わせてもらえませんか?」 「え?いいんですか?」 ぱっと顔を輝かせるかなでに、八木沢も微笑んだ。 「はい。今、とても貴方と合わせた自分の音を聴いてみたいんです。」 それはきっと、今までの自分の音色とは違う音がするはずだ。 恋の途中の音色 ―― 今しか聴けないその音を。 ―― 山下公園にヴァイオリンとトランペットの二重奏が響く。 優しく包み込むようなトランペットの音色に守られるように、ヴァイオリンが伸び伸びと自由に歌う。 けれど、そのトランペットの音色は、いつもと『何か』違った。 そして、自主連中の部長を捜して公園に来た至誠館のメンバーは、その音に気が付いて顔を見合わせて。 「八木沢の音だよな?」 「はい・・・・でも、」 「なんか違います、ね?」 「ああ・・・・なんつーか」 伊織、新、火積が顔を見合わせるのを見ながら、彼らより少しばかり八木沢と付き合いの長い狩野はしたり顔で頷きながら言った。 「あいつの音、最近ずいぶん『情熱的』になったよな!」 〜 Fin 〜 |