Intermezzo
「香穂先輩、パスポート、持ってますか?」 ―― ある日、顔を合わせるなり志水君が言った。 「え、え?パスポート?」 「はい。」 こくん、と頷く仕草に柔らかそうな髪が揺れる。 今年20歳になった志水君は高校の時よりも背が少し伸びて、出会った頃より大人っぽくなったけど、こういう仕草をする時は相変わらず可愛いい。 ・・・・え?、ちょっと待って。パスポート? 「確か前に旅行した時のがあったような?」 「そうですか、よかった・・・・あ、でも旅行用でいいの、かな。」 「??」 ふむ、と考え込んでしまった志水君に置いて行かれる私。 志水君とつきあい始めて3年になるけれど、そろそろ私だって学習してる。 こんな風に志水君が何か考え込む時は、音楽の事か、そうでないなら何か私を驚かせる様な事を言い出す前兆なんだって。 しかも、その前ふりがパスポート。 「あの、志水君?」 「・・・・もし他の手続きがあるなら、早くしないといけないですね。もうすぐ夏期休暇に入ってしまいますし・・・・」 「えーっと、もしもしー?」 「部屋は二つで探してもらいましょうか?・・・・でも一つでも・・・・」 「ちょっと!ストップ!ストーップ!!」 取りあえず何が何だかわからず大きな声で遮ると志水君は、あ、と気が付いた様に私を見た。 こうなれば成功。 相変わらずくりんっとした目を真っ直ぐに見て私は言った。 「順番で説明してくれないとわからないよ?」 「あ・・・・すみません。」 「うん、ちゃんと説明してくれる?」 「はい。」 こくん、と頷いた志水君にほっとして私は少し笑った。 これならちゃんと説明してくれそう。 「ついさっき、先生から連絡が来たんです。」 「うんうん。」 「前に願書を出していたウィーンへの留学の件が許可されたって。」 「え・・・・?」 どきっと私の胸が嫌な音で鳴った。 「留学・・・・?」 「はい。ウィーンの音楽院の作曲科へ。」 「そう、なんだ。」 喜ばなくちゃ。 そう思っているのに、どうしても笑顔が作れなくて私は俯いてしまう。 音楽を学ぶ人にとってはウィーンは夢だから。 だから良かったねって笑わないといけないのに・・・・。 私は胸に詰まった苦しい気持ちを吐き出す様にため息を一つつく。 応援しなくちゃ、志水君が頑張れる様に。 ・・・・離れたくない、なんて絶対に言わない様に。 声が震えない様にそっと息を吸って、なるべく明るく聞こえる様にと取り繕っていた私は気が付かなかった。 同時に志水君が口を開こうとしていたことに。 そして。 「行ってらっしゃい」 「一緒に行きましょう」 ・・・・・・・・え? 今・・・・ 「今、なんて・・・・」 俯いていた顔を跳ね上げて見上げれば志水君が私を見ていた。 いつもとかわらない、真っ直ぐで少しくすぐったくなる様な優しい目で。 そして私が驚いている事に珍しく気が付いたのか、あ、と目をぱちくりさせる。 「言い方を間違えました。一緒に行きましょうじゃなくて、一緒に行ってください、ですね。」 ・・・・いや、根本的に何か間違ってるから。 そう思ったけれど、さっきの衝撃が尾を引いていてつっこめない。 その間に志水君は何か納得したのか確認するようにしゃべり出した。 「向こうの新年度からと言われたので9月ですね。部屋は月森先輩か王崎先輩に聞こうと思っていたんですけど・・・・」 「ちょ、ちょ、ちょ、し、志水君!?」 「はい?」 「い、一緒にって一緒にウィーンに行こうっていう事なの?私も!?」 「はい。」 はい、ってなんでそんなに当たり前のように頷くの! 頭が動き出したら出しでパニック気味になっている私に、志水君はことんっと首を傾げて言った。 「嫌ですか?」 「え?」 「香穂先輩が嫌ならやめます。」 「え、えええ!?」 なんでそんなにサラッと!? 「ダメだよ!留学って大事なことでしょ?私の意見なんかで決めちゃ・・・・」 「違います。」 珍しく言葉を遮る様にキッパリ言われて戸惑った。 どういう意味?と目で問う私に志水君はふんわりと、笑って言ってのけた。 「先輩が居ない所に僕の音楽はありません。香穂先輩は僕の・・・・僕だけのミューズですから。だから先輩が居てくれる事が僕が音楽を作る絶対条件なんです。」 ・・・・やられた、と思った。 志水君の言葉は、志水君の想いは真ん中だけを綺麗に切り抜く。 実際に留学についていってどうなるとか、できるのかとか、そんな事を全部漉し取ってしまって。 「・・・・ズルイ。」 「?」 「志水君、ズルイよ。そんな風に言われたら答えなんて決まってるのに。」 そう言うと志水君がじっと見つめてくる。 ああ、この目は知ってる・・・・志水君が不安な時の目だ。 ますます、ズルイ。 そう思いながら私は笑った。 「パスポートは持ってるけど、たぶんそれじゃダメだから滞在用の申請をしにいこう?二人分、ね。」 私がそう言うと志水君は至極嬉しそうににっこり笑った。 そして伸ばされた腕の中に大人しく収まった私の耳に、相変わらずいつもの調子で言った。 「そうだ・・・・どうせですし、先輩、志水になりませんか?」 ・・・・私が実は誰よりも強引かもしれない作曲家の卵さんに振り回される日々はこれからみたい。 〜 END 〜 |