―― その時、その顔を見るまで・・・・俺はあいつに関わる気なんか無かった・・・・ 向日葵の夜想曲 『その時』火積が菩提樹寮の玄関前にいたのは、ほんの偶然だった。 練習から帰ってきて、夕陽がさす寮の前でふと足を止めたのも。 菩提樹寮という大層な名前を持った寮は、その名前に負けないぐらい大層な洋館だ。 男子校でどちらかと言えば無骨な物に囲まれて育っている火積にしてみれば、あまり接したことのないどこか華奢で、それでいて存在感のある佇まいを見上げながら、なんでこんな事になっているのだろう、という考えが頭に浮かぶ。 こんな事、とはつい先日まで敵としてどうしても倒さなくてはいけない相手と認識していた星奏学院の寮に自分が居て、あまつさえ逗留しているという事。 もちろん、経緯は簡単に説明できる。 部長である八木沢が恩師の薦めもあって、全員の今後の勉強のためにと全国大会まで聴いて帰ることにしたからだ。 その際、八木沢の恩師が星奏のOBでこの寮に格安に泊めてもらえる事になったのは有り難いと思うのだけれど。 (・・・・星奏の連中は悪い奴らじゃねえんだけどな。) とはいうものの、八木沢を全国に連れて行きたいという想いを砕かれてしまった相手に対してどうしても複雑なものがぬぐえず、火積はひっそりとため息をついた。 誰にでも懐く新はともかく、当の八木沢が星奏のメンバーにも違和感なく接しているというのに自分だけ距離を置くのもどうかと思ってはいる。 けれど、そもそもあっちのメンバーも何となく自分を怖がっているふしもあるし、まあ、特別関わることもないだろうか、と何とはなしに菩提樹寮を見上げた。 立派な外観の割に、入寮者は少ないようで静かな寮は火積の答えに是とも否とも答えずにそこにある。 その不思議な空気に少しだけ飲まれるような気がして、火積は振り払うように歩き出そうとした。 ―― ちょうど、その時だった。 蝉の声が降るように聞こえてくる中で、小さな足音が聞こえて。 反射的に火積は振り返った。 その視線の先に、表の道路から寮の入り口へと歩いてくる少女が目に入った。 背中に背負ったヴァイオリンケースを見なくても分かる。 数日前の舞台で誰よりも存在感のある音を奏でて見せた少女。 ―― 小日向かなで。 星奏学院の弦楽四重奏の中にあってかなでの音は際輝いていたように火積は感じていた。 力強さと個性を前面に出した1stよりも、中低音なのに華やかさを感じさせるビオラよりも、正確な技術をもったチェロよりも。 それらの音を全て包み込むように柔らかく暖かく彩っていたのは彼女の音だった、と。 けれど、今こちらに向かって歩いてきているかなではとてもその時の様子と同じ人物とは思えなかった。 丸っこく見える頭はうつむきがちで、まだ火積には気がついていないらしい。 地方大会前に練習をしていて無邪気に話しかけてきた時のかなでと比べても、今は明らかに落ち込んでいるような様子だった。 夕焼けの光の中、亜麻色の髪が不安げに揺れて、若草色の瞳は石畳を睨み付けている。 (・・・・何か、あったのか?) それは火積が自然にそんな疑問を抱いてしまうような姿だった。 それほど付き合いは長くない・・・・どころか、まだ両の手に少しあまる程度しか顔を合わせた事がないはずの相手なのに、妙に心が騒いだ。 だから、多分、やっとこちらに気がついたかなでが顔を上げた時、自然と声が出たのだろう。 「・・・・あんたも、今帰りか」 「火積くん?うん、そう。」 さっきまでの消沈した様子を僅かに引っ込めてかなでは頷いた。 が、しかしすぐに視線は足下に戻ってしまう。 若草色の瞳が見えなくなって、一瞬、火積の心がざわめいた。 いつもの火積であれば、これで話は終いと自分も寮に入っていただろう。 しかし、なぜかその時、かなでの瞳をもう一度見たいと思った。 とはいうものの、普段から妹以外の女子など接していない火積である。 「・・・・・・・・・・・・・」 (何を言やあいいんだよ。) 何も思いつかず眉間に思いっきり皺が寄ってしまった。 どうも考え込むと顔が怖くなるのは火積の悪い癖だ。 幸い(?)今はかなでが視線を落としていたせいで気がつかれなかったが、この癖のせいで生んだ誤解は数知れない。 とはいえ、そこまれリスクを冒して(本人は無自覚だが)も絞り出せたのは。 「・・・・明日は、全国大会の説明会。いよいよ、全国が始まるな。」 という新からだめ出しをくらいそうな一言だった。 が、しかし。 この言葉はかなでの何かに触れたらしい。 なぜなら下がっていた視線がこの言葉を聞いた途端、はっとしたように上がったからだ。 その表情はまだ苦しそうなものではあったけれど。 「そう、だね。始まるよね、全国。」 確かめるようにかなでが呟く。 それに頷いて火積は悟った。 おそらくは、次の全国大会初戦の事で何かあったのだろうと。 詳しい事情は何もわからない。 星奏学院にとっても弦楽にとっても部外者である火積には何も言うことはできない。 けれど。 (・・・・放っておけねえ。) 舞台であれほど音色を七色に輝かせて見せた少女がこんな風に小さくなっているのが嫌だった。 それ以上に、敵同士だったのに火積が練習しているところを通りかかる度に笑いながら声をかけてきた少女がこんな風に顔を曇らせているのが耐えられなかった。 だから。 「俺で役に立てることもねえだろうが・・・なんかできることがあったら言ってくれ。」 そんな言葉が自然と滑り出していて。 「あんたには世話になったからな」 慌ててそう付け足したのは、目の前で急にかなでの瞳が驚いたようにくりっと見開かれたからだ。 (な、何言ってんだ、俺はっ) 僅かに遅れて自分がもしかしたら恥ずかしい事を言ったのではないか、と言う認識が来て更に何か言うべきか火積はかなでを見て。 ―― 目を、奪われた。 かなでは微笑んでいた。 いつもの向日葵のようなくったくない笑顔ではなく・・・・どこか淡い苦みを含んだような。 それでいて、酷く救われたようなそんな笑みを。 夕焼け色に縁取られたその表情に、ただ見惚れ、同時に頭のどこかで気がつく。 かなでもまた、心に何かの破片を食い込ませているのだ、と。 ―― もし、できるのなら、自分が・・・・ 「それなら、今度一緒に練習したいな。」 耳朶を打ったかなでの声に、火積ははっとした。 (・・・・・・・・今、何を考えた?) 一瞬、そんな疑問が脳裏をよぎったが、慌てて消した。 なんだか、あまり心臓によさそうな気がしなかったから。 とりあえず、火積はかなでに向き合って答える。 「俺と?そんなんでいいのか?」 「うん!もちろん!」 具体的には何も考えていなかったにしても、ささやかなかなでの願いに確認し直せば、かなでは大きく頷いた。 それがあまりに勢いがよくて、さっきまでのあの儚げな雰囲気など微塵も感じさせない物だから、火積は少しほっとしつつも小さく笑ってしまった。 「そうだな。男に二言はねえ。・・・・いつでも連絡してくれ。」 「え!?ホントにいいの!?わ、ちょっと待って、今メアド登録するから。」 慌ててそう言いながら携帯を取り出すかなでに、メールアドレスを教えれば、ちょこちょこと何やら操作して。 「うん、完了。でも本当にいいの?」 「男に二言はねえ、と言ったぜ。」 「うん!」 頷いて、かなでが浮かべた笑顔は、いつも見ていた向日葵のような笑顔で。 ―― また、一つ胸がざわめいた。 (・・・・?) よくわからないそれを誤魔化すように火積は携帯を胸のポケットに滑り込ませてかなでに背を向ける。 「じゃあな。」 「あ、うん、本当に連絡しちゃうからね!?」 「・・・・好きにしろ。」 背中から追いかけてくるかなでの声に応えながら、無意識に火積は胸の携帯電話に触れる。 もし、本当にかなでから連絡が来たら。 一緒に音を合わせたら・・・・この胸のざわめきの理由がわかるのだろうか。 「・・・・本当に変わったお嬢さんだぜ。」 ぽつり、と呟いた火積の声は夏の夕闇に溶けた。 ―― 終わったはずの夏が、まだ始まったばかりのように思えた・・・・ 〜 Fin 〜 |