elegiaco
人のいなくなった音楽室にヴァイオリンの音が響く。 天上の高い空間に鋭く突き刺さるように、低音から高音へ。 指板の上をステップでも踏むように指を動かしながら、衛藤桐也はただ一心に弓を動かしていた。 美しい音を出すだけのボーイングを気にしながら、細かいパッセージを確実に弾きこなしていくフィンガリングはとても中学生とは思えない実力だ。 ―― そう言われてきた。 ―― ・・・・そう、思っていた。 「っ!」 淀みなく流れていたメロディーの中にガラスにひびがはいるように不協和音が混ざって、桐也は苛立ったように弓を止めた。 「、くっそっ!」 弓を持ったまま髪をかき上げて吐き捨てる。 心の底にわだかまる苛立たしさを隠すこともせず顔をしかめる様は彼を知る者が見たら驚きに目を瞠っただろう。 おおよそ普段落ち着いていて自信たっぷりと言われる彼にしては考えられない姿だから。 そしてそれは、桐也自身も同じ事だった。 (・・・・どうしたんだよ、俺は!) 内心で吐き捨てて、桐也は近くの机に乱暴に寄りかかった。 ガチャンッとなる金属音さえも不快感にしかならなかったけれど。 それでも静けさよりもましな気がした。 何も音がしなくなると、きっと今心の中に鳴り続けている音が聞こえてしまう、と。 そう思って慌てて桐也は自分のヴァイオリンの弦を弾いた。 構えて弾き直す気にはならなくて、代わりに小脇に抱えるようにして今まで弾いていた曲のパッセージをピチカートで再現していく。 曲は「カルメン・ファンタジー」。 自身も卓越したヴァイオリニストであったサラサーテが作っただけあって、超絶技巧と言われるに相応しい重厚で難解な旋律を持った曲。 桐也はこの曲を演奏するのがわりと好きだった。 自分の持てる力を出し切れるのも面白かったし、明確に聞く人に実力を見せつける事が出来る。 これだけの曲が弾けるのだという自信にも繋がっていた。 それは今も変わらない。 一瞬見ただけでは尻込みしそうな楽譜も軽やかに指が再現していく。 けれど。 ( ―― それだけ、だ。) 難解な曲を軽やかに弾く、自分の力を見せつけるように上手く弾く・・・・ただそれだけ。 音も解釈もメロディーの構成も完璧と言い切れる演奏が出来る・・・・それだけ。 きっと・・・・きっと、 ―― 「彼女」なら ピィインッ 無用な力が入った弦が悲鳴を上げる。 「!ちっ、わかってんだよ!」 まるでヴァイオリンの叱責を受けたような気分になって、桐也は怒鳴った。 (わかってる!あいつだったらこんな風に弾かないって。) あいつ ―― 日野香穂子。 つい最近知ったばかりの駆け出しのヴァイオリニスト。 初めて会ったのは星奏学院の音楽練習室だった。 まだ練習し始めだったのかもしれないが、あんまりにもボロボロな音に鼻で笑ったのがすべての始まりだった。 (へたくそだってずっと笑ってたのに・・・・) 今年ヴァイオリンを始めたばかりという香穂子は確かに技術力は笑ってしまうほどお粗末なものだった。 ちょっとした運指で迷う、ヴィブラートが上手くかからないなんていうのは日常茶飯事。 弓のアップダウンのタイミングすら迷うような有様。 海岸通りで偶然再会して以来、そんな香穂子に見かねてアドバイスしてやったのも一度や二度ではない。 (俺よりずっとへたくそで、曲も弾き切れてなくて・・・・なのに) ―― いつからか、気がついた。 彼女の音色の鮮やかさに。 それは時にロマの女性の踊りのように情熱的で、時に修道女のように無色透明なのだ。 時には子どもが遊んでいるように七色で、時には日だまりの恋人同士のように優しく淡い。 一通り楽譜が弾けるようになると、途端に香穂子が奏でる曲はそういう色に弾ける。 たどたどしい技術を一生懸命駆使しながら、それでも楽しそうに彼女のヴァイオリンは歌うのだ。 ちっとも上手くないのに、それでも。 (・・・・あいつのような音を俺は奏でられない。) かたん、と桐也は机の上にヴァイオリンを置いた。 人の持つ形に合わせて作られているヴァイオリンは机の上に置くと肩当てのせいで所在なさげにゆらりと揺れてそれが妙に悲しげだった。 目を背けるようにして目を閉じれば、耳の奥に幻の音が聞こえる。 いつもの海岸通りで軽やかに風と遊ぶように響くヴァイオリンの音色が。 今の桐也にとって、目の前の超絶技巧の「カルメン・ファンタジー」より、香穂子の奏でる「パッフェルベルのカノン」の方がずっと難しい曲に思えた。 コンクールにでも出れば確実に桐也が勝つのは明らかだけれど、誰もが耳を傾けるのはどっちの音かと聞かれればその結果もきっと明らかに違いない。 「あんなヴァイオリン、他に知らない。」 ぽつっと零れ落ちた言葉が自分でも分かるぐらい悔しげで、桐也は盛大に顔をしかめた。 そして何かを振り切るように頭を振って、置いていたヴァイオリンを手に取る。 (俺は俺が思うとおりに弾けばいいだけだ。) 近々出場予定のコンクールでそれは正しいと結果が出るはずだ、と。 自分に言い聞かせるように繰り返して桐也は弓を弦に当てた。 次いで淀みないメロディーが流れ出す。 「カルメン・ファンタジー」 ―― 情熱的な女性と彼女に振り回される男達の恋の輪舞曲。 ・・・・もし、香穂子ならこのメロディーをどんなふうに奏でだしてみせるのだろうか、と。 刹那よぎった考えを打ち消すように、桐也は力強く弓を引いた。 ―― 手の届かないものに焦がれて焦がれて、身を滅ぼしていく愚かさだけが少しわかるような気がした・・・・ 〜 Fin 〜 |