Capriccio



車のフロントガラスに夜の街が写る。

夜のドライブの経験なんて高校生である香穂子にはそれほどないが、こういうのが醍醐味なのかもしれないとぼんやりと感じた。

浮かび上がる街の灯と車の中の静けさ。

どこか日常空間とかけ離れているような、不思議な気分になるのだ。

まだ賑やかな方が好きな香穂子でも、こんな空間は悪くないと思う。

・・・・普通の心境ならば。

(・・・・・・・・・・・・・そう、例えばお父さんが運転する車とかなら、ね。)

香穂子の家は一軒家ではあるが、都会暮らしのために車はない。

けれど、例えば今、運転席にいるのが父ならば・・・・こんなにドキドキする羽目にはなっていないだろう。

(うん、なってない。絶対こんなにドキドキするはずない。)

それはもう、100%言い切れる。

何せ香穂子の心臓がさっきからうるさいぐらいに跳ね回っている原因は、確実に運転席でハンドルを握る人のせいなのだから。

「・・・・・・・・・・」

無言で香穂子はそっと視線を運転席へと向けた。

視線を落としたまま向けたから、最初に目に入るのはいかにも仕立ての良さそうな黒のスーツだ。

今日は若手の演奏家を客演に迎えた気軽なミニコンサートだったからか、視線を上げていって目に入るのはいつものきっちり締めたネクタイではなく少しラフなVネックシャツ。

それでも同い年の男子が着ている物とはまるで違うそれは、星奏学院理事長という彼の肩書きと実際の年齢に不思議と釣り合って・・・・有り体にいえば格好いい。

(格好いいって・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・かっこいい、んだけど。)

何を言っているんだろう、と自分を諫めようとして、結局肯定に終わってしまい心臓がオクターブ上がった。

(だって・・・・・・・・かっこいい、し。)

なんかもう色々諦めて肯定して視線をちらっと向けた横顔は、諸々の贔屓目を差し引いても、やっぱり格好良かった。

街の明かりが時折照らす鼻筋が通った整った横顔。

出会った頃からかなりの確率で厳しい表情を浮かべているこの顔が心に焼き付いてしまったのは、一体いつだったか香穂子にも思い出せない。

吉羅暁彦 ―― 星奏学院の理事長であり、香穂子の好きな人であり、そして、とんでもなく微妙な関係にある人でもある。

と、そこまで考えた時、不意に運転していた吉羅の視線が動いた。

「っ!」

何の前触れも無く目が合って、どきっと香穂子の鼓動が大きく跳ねる。

逸らすべきか一瞬の判断に迷った香穂子の視線の先で、吉羅の口角がつっと上がった。

「何か面白いものでもあったかね?」

「え?」

「随分熱心に見られていたようだからね。」

「っっ!」

揶揄するような言葉に、香穂子は頬が一気に赤くなるのを感じた。

(バレてる。)

確実に香穂子が吉羅の顔をぼんやりと眺めていた事に気が付いていながら、この発言。

(かっこいいけど性格は絶対問題あると思う。)

うううう、と呻きたくなるのをぐっと堪えて香穂子はぷいっと視線をフロントガラスに戻した。

「別に何もありません!」

「ふうん、そうか。」

それ以上は追求せずに吉羅は言葉を切った。

しかしややあってちらっと見た横顔は、珍しく少し笑みが残っている。

(なんだか機嫌良さそう?)

自分をからかって面白かったのだろうか、とちょっと捻くれた心境になったものの、せっかく機嫌が良さそうなのでさっきから抱いていた疑問を投げかけてみることにした。

「あの・・・・」

「なんだね?」

「私もさっき、月森くん達と同じ様に駅前で下ろしてもらってもよかったんですが・・・・。」

そう、香穂子がさっき ―― 駅前で後部座席に乗っていたはずの金澤、月森、土浦が下りた時から抱いていた疑問がこれだった。

確かに今日、鎌倉の会場で客演すると決まった時に、吉羅は自分が送ると言っていてくれていた。

だから、同じ出演者だった月森や土浦、付き添いの金澤と一緒に鎌倉から吉羅の車に乗って帰ってきたところまでは予定内。

まあ、どういうわけか、行きは後部座席で月森と土浦の間に座っていたのが、帰りは指名で助手席に座ることになったけれど、吉羅に想いを寄せる香穂子としては嬉しい誤算だった。

が、何故か先ほど駅前で吉羅が車を止め他の同行者を下ろした時に、助手席のドアだけ開かなかったのだ。

というか、香穂子は他のみんなが下りたのを見て、自分も下りようとしたのだが。

(・・・・手、掴まれて。)

体を起こそうとシートについた右手を、何の前触れも無く吉羅の手が押さえたのだ。

(お、思い出してもドキドキする。)

シートの上での事だったから外で怪訝な顔をしていた三人には見えなかったのだろう。

路肩で香穂子を待っている三人に向かって、運転席のドアの窓を開けた吉羅は、片手で香穂子の手を握っているとは思えない程、いつも通りの声で言ったのだ。

『彼女は女性だから家まで送っていく。では失礼。』と。

後は、何事もなかったかのようにハンドルを握って、驚いた顔の三人を残して車は駅前を滑り出して・・・・今に至る。

(別に駅から家が遠いわけでも特別暗い道を通るわけでもないのに。)

どうしてわざわざ送ってくれるのか、追求して良いのかずっと迷っていた疑問を口に出した香穂子に吉羅はちらっと視線を走らせた。

「・・・・下りたかったかね?」

「え?い、いえそんなことは。」

ないんだけど、二人きりの車内は心臓に悪すぎるんですが!

という心の叫びは飲み込んで置いて首を振ると、吉羅はあっさり「ならば素直に甘えておくといい」と言った。

「大人というものは時々、気まぐれを起こすものだ。」

「気まぐれ、ですか。」

つきん、と心に小さく刺さる。

吉羅はよくこういう言い方をする。

先ほど、吉羅との関係を微妙と称したのはこういうところだ。

多分、吉羅は香穂子の気持ちを知っている。

香穂子自身ははっきり告げた事はないが、親友の天羽に言わせると誰が見てもバレバレ、らしいから、理事長として辣腕を振るう吉羅にはきっとお見通しなんだろうと。

その上で、それでも時折、吉羅は唐突に香穂子を連れ出したりする。

曰く、忙しい自分の息抜きに付き合え。

曰く、学院の将来に有望な生徒に投資している。

曰く、たまにはこんな気まぐれもいいだろう。

そんな言葉で食事やコンサートに連れて行ってくれた回数はすでに片手は越えている。

けれど、それが恋人としてのそれなのか、ただの演奏家の卵に対する優遇なのか、香穂子には判断できなかった。

(私は大人じゃないから・・・・)

言葉の裏なんて読めない。

思わず大きくため息をつきたくなったけれど、静かな車内ではそれすらあっさり吉羅に聞こえてしまいそうで香穂子は視線を落とすだけでそれを飲み込んだ。

だから ―― 運転席の吉羅が、一瞬香穂子の方へ目を向けて、僅かばかり顔をしかめた事には気が付かなかった。

「君は・・・・」

「?」

一端、会話の途切れた車内に、またぽつりと言葉が落ちる。

なんだろう、と香穂子が顔を上げた時には吉羅はもういつもの顔で前を見すえていた。

「行きは楽しそうだったな。」

「え?」

「後部座席で二人としゃべっていただろう。」

「あ、はい。」

唐突にふられた話題に香穂子は慌てて頷いた。

ただ。

(あれは楽しかったと言うべき?)

一瞬そう思ってしまうのもしかたがない。

何せ行きに香穂子を挟んで座っていた月森と土浦はまさしく犬猿の仲というに相応しく、事あるごとににらみ合うものだからフォローするのは大変なのだ。

「月森くんと土浦くんは正反対のタイプですから。」

「だが、君は上手く二人の間に入っていたようだ。」

「そうですか?」

この発言はちょっと意外だった。

というのも、待ち合わせギリギリでやってきた金澤に説教をする、と彼を助手席に乗せた時から吉羅は宣言通り延々説教をしていたので、まさか後部座席の様子を見ているとは思わなかったのだ。

「もしかして私が苦労してるのを見て面白がってました?」

吉羅ならそのぐらいのことはさらっと言いそう、と冗談交じりに香穂子はそう返したのだが。

「いや・・・・」

意外にもいつもの皮肉混じりの反撃ではなく、吉羅は曖昧に言葉を切った。

(あれ?)

それが不思議で香穂子は首をかしげた、ちょうどその時。

「ああ、着いたな。」

吉羅の声に促されて見れば、ちょうど家の横の交差点にさしかかったところだった。

すっと最小限の振動で車が停車する。

「家の前に横付けすると親御さんに驚かれるかもしれないからここでかまわないか?」

そう問われて香穂子は大きく頷いた。

家の目の前ではないとはいえ、たかだか数メートルの距離だ。

「えっと、ありがとうございました。」

この心臓に悪い数分のドライブの意味はさっぱりわからなかったが、それでも終わってしまうとなると残念な気がするところが恋する気持ちというものは始末に悪い。

とはいえ、下りないわけにもいかないわけで、開けてもらった助手席のドアから一端出てトランクからヴァイオリンを出す。

トランクの蓋を閉めて、再度お礼を言おうと助手席の方へもどると、まだドアが開いていた。

だから、香穂子は何気なく半身車内に入れて運転席の吉羅に笑いかける。

「送ってくださってありがとうございました。」

「ああ。」

「それじゃ、失礼します」

ぺこっと頭を下げて、香穂子は身を引こうとする。

今日もほんの少しの胸の痛みと、甘さを抱えたまま家に帰るのだと、その瞬間まで香穂子は疑ってもいなかった。

と、その時。

「ああ、日野くん。」

何気ない調子だった。

「は ―― 」

だからこそ香穂子は何か伝達事項でもあったのか、と無造作に振り返り ―― その途端、ぐいっと腕を引かれてよろめいた。

「!?」

とっさに右手をついて体を支えた香穂子の顔に、ふっと影がかかって ――











見たこともないほど近くで見た吉羅の顔が、思ったより若く見えるのだと、どこか他人事のように思った瞬間、

―― 唇がふさがれた。











唐突すぎるキスは、ものの十秒もなかった。

ふれ合わせるだけの、短いキス。

けれど、香穂子の世界を180度ひっくり返すには十分過ぎるほどの衝撃的なキス。

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

「目が零れそうだな。」

「っっっ!」

つっと目元をからかうようになぞられて、ぎょっとして香穂子は身を引いた。

その反応がいかにもおかしいというように、吉羅は口角を上げる。

「な、なななっ!」

「なんで、と問いたいのかな?」

頭が真っ白になって一音しか発声できない香穂子の代わりにそう吉羅に言われて、香穂子はかくかくと頷く。

その視線の先で、吉羅は言葉を選ぶように少し視線を彷徨わせた後、酷く珍しく自嘲気味に笑って。

「まあ、そうだな・・・・君は大人の嫉妬というのは怖いというのを覚えておくといい。」

「は ―― 」

(おとなのしっと?)

何語?と咄嗟に思ったのは完全に頭がまわってなかったんだな、とのちの香穂子は回想する。

しかしこの瞬間、吉羅の言葉の意味が本当にわからなかったのだから、少々の間抜けな反応は容赦して欲しいというものだ。

そんな香穂子に向かって、吉羅は笑った。

それは、今まで見ていた大人の吉羅の横顔ではなく ―― どこか悪戯めいた。

そうして、耳元に唇を寄せた吉羅が囁いたのは・・・・。

―― ただ呆然とその笑みに見入る香穂子の頬をもう一度なぞって、自然な動作で吉羅は香穂子を車外へ押し出した。

されるがままに、車の外へ出て、それでもまだ運転席の吉羅から目を離せずにいる香穂子に、吉羅はまるでいつも通りに言う。

「では、また明日。」

「あ・・・・・・・・・・・・・・・・・・はい。」

香穂子が頷いたのを見て、車が静かに滑り出していく。

スタイリッシュな車の後ろ姿が通りの夜陰に消えていって、しばし。

「・・・・・・・・・・・・・・・〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!?!!???!!?」

真っ赤になってぺたりとその場に座り込んでしまった香穂子は、思わず耳を押さえた。

(う、ううう、うう、うそ・・・・!?)

自分に都合の良い夢を見たんじゃないかと思うぐらいに、信じられない言葉だったけれど、それでもなお、耳には吉羅のあの、印象的な中低音の声が木霊していた。

「お、・・・・大人って」











『―― 大人というものは、時々、顔に出さずに嫉妬するものだ。覚えておきなさい。私が、後部座席の君たちを見ながら、内心穏やかではいられなかったように、ね。』











―― ずるい、と呻いた香穂子の声は街頭の明かりにあっけなく溶けた。















                                             〜 Fin 〜
















― あとがき ―
神南フューチャーイベントに参加したらなんか妙に火が付いた助手席に香穂子を指名する吉羅ネタでした(笑)
タイトルは楽典より、「奇想曲」。