Cantabile
星奏学院の普通科の屋上は立ち入り禁止になっている。 理由の程は報道部の早耳天羽を持ってしても謎だけれど、とにかく立ち入り禁止。 ・・・・だというのに。 「・・・・か・・・・・・・・」 ころんっと転がすように零れた声は明らかに人のいないはずのこの屋上で発せられたものだった。 声の主はヴァイオリンより一回り大きなケースを近くに置いて11月にしては暖かい日向に寝転がっている青年 ―― 加地葵だ。 ちなみに今の時間、加地のクラスは化学室で暗号にも等しい化学記号の羅列を必死にノートの書き写しているはずなのだが、加地にはそんなことはどこ吹く風。 これが教室で行われる授業であるなら、授業内容とは全然別の所で多いに興味があるので取りあえず椅子に座っている気にもなるのだが、化学室ではこの小春日和に敵わなかったらしい。 「か・・・・・・・・・」 片腕を枕に、片手で楽譜をかざしていた加地の口からまた同じ言葉 ―― 否、音が零れる。 体制からすればまるで楽譜を読んでいるような音だが、楽譜を見ているはずの加地の目が実は音符を追っていないのはよく見ればすぐにわかる。 「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・か・・・・」 とすれば一体何をやっているのか、とここが立ち入り禁止の屋上でなく、しかも授業中でなければ誰か突っ込んでくれたはずだが、生憎、晴天の空は突っ込んでくれなかった。 代わりに、加地はちょっと困ったように顔をしかめて。 「〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜やっぱり、だめだ。」 持っていた楽譜を自分へのツッコミよろしく、顔の上に落とした。 バサバサという楽譜の音の下で加地のため息がひとつ。 それから晴天の空は意味不明な音の意味を知る。 「〜〜〜〜〜、やっぱり呼べないよ、日野さんの名前。」 空が突っ込みのためだけに落ちて来たくなるような、しょうもない意味ではあったが。 もっとも、端から見てどれほどしょうもなくても、本人にとっては大問題と言うことはままあることで。 加地は上半身を勢いつけて起こすと額に手を当てて、深いため息を一つついた。 (日野香穂子さん・・・・香穂子、さん、香穂さん) 「あ〜、頭の中でならいくらでも呼べるのに。」 でも実際に口に出そうとするとできない、という事に気がついたのは先日香穂子に何気なく言われた時だ。 ―― 『みんなそう呼ぶし、加地くんも香穂でいいよ。』 ―― 練習の合間に、みんな香穂子の事を愛称や名前で呼ぶんだねと言ったら事も無げに彼女はそう言った。 (確かにあの時はできればそう呼びたいなって思って言ったんだけどね。) 何気なく言えば香穂子がそう言ってくれるだろうとわかっていて言った。 なのに、いいよと言われてじゃあ、と呼ぼうとした途端に。 (頭に血が上った、なんて格好悪すぎ・・・・) 呼び方は決めてた。 「かほさん」のたった四文字。 でもそれを口に出そうとした瞬間、かあっと頬が熱くなるのを感じて心臓が跳ね上がる音を聞いた。 (・・・・だって呼んだら期待してしまう。) クラスメイトでもただのファンでもなく、彼女の特別な何かになれるんじゃないかと。 名前を呼んで香穂子が笑顔で応えてくれたら、幸せすぎてどうかなってしまうんじゃないかと本気で思った。 だから「照れることもある」なんて誤魔化して。 「・・・・・・・・・・・・・・・・・・か・・・・・・・・・・・ほ、さん」 無人の屋上に零れる、妙に間延びした音。 他の誰かが聞いたら笑われそうなそれでさえ、加地の心臓には甘い凶器。 「あー・・・・本当は呼びたいんだけどさあ。」 香穂、香穂子、香穂先輩、香穂ちゃん・・・・思いつく限り恋敵と呼べる面々の声がリフレインして重っくるしいため息が一つ落ちる。 (やっぱり練習、かな。) かなり格好が悪い事は自覚済みだけれど、とにかく負けるわけにはいかない身としては呼び名一つで遅れを取るわけにもいかない。 うーん、と呟いて加地は目を瞑る。 瞼の裏に簡単に再現できる香穂子の姿を思い浮かべて・・・・。 「・・・・か」 「あれ、加地くん?」 「!?ごっ!ほっっ!」 背中から聞こえた声に声を出しかけていた加地は思い切りむせた。 「え!?ど、どうしたの?」 この立ち入り禁止の屋上への唯一の入り口、非常階段の近くから足早に駆け寄ってくる女の子の姿を捉えて加地は何の冗談なんだろうと本気で疑った。 なにせ、驚いた顔で駆け寄ってくるのは今まさに思い浮かべていた香穂子―― 加地の想い人だったのだから。 「ひ、日野さん?」 「ごめん!驚かしちゃった?」 パタパタと駆け寄ってきて背中をさすってくれた香穂子に加地は余計に混乱する。 「え?なんで、だって今授業・・・・」 「先生が早く切り上げたから。ホームルームももう終わったよ?」 言われてみれば、香穂子の格好は背中にヴァイオリンケースを背負って片手に楽譜ケースというおなじみの放課後スタイルだ。 どうも名前を呼ぶ練習に没頭中に思った以上の時間が経っていたらしい。 「あー・・・・ごめん、大丈夫だよ。」 「そう?」 心配そうに覗き込まれて加地の心臓がとくんっと跳ねる。 「うん、平気だから。」 そう言ってさりげなく加地は香穂子から離れた。 背中に触れた香穂子の手は健在で、こんな顔をされるのは心臓に悪すぎる。 その仕草に香穂子は少しだけ首を傾げて、けれどすぐに加地の周りに散らばっている楽譜に気がついた。 「あ、譜読みしてたの?」 「え?あ、まあ。」 まさか君の名前を呼ぶ練習をしていましたとは口が裂けても言えない。 そんな弱冠後ろめたさを含んだ返事に香穂子はぱっと顔を輝かせた。 「そうなんだ。私もやろうと思ってここへ来たの。本当はまずいけど、ここって静かだしちょうどいいよね。お邪魔してもいい?」 楽しそうにそう言う香穂子にまたとくんっと胸がざわめく。 「どうぞ。」 「やった。」 楽譜を取り出して、ついでにヴァイオリンもケースから取り出すと弓は張らずに抱きかかえる。 そしてすっと楽譜に入っていく横顔に加地はみとれた。 指で弦を弾きながら時に歌うようにして音符と戯れる香穂子。 (・・・・ああ、やっぱり当分呼べそうにないね。) こんな些細な仕草に惹かれ、目を離せないそんな女の子をなんの期待も持たず特別な呼び方で呼べるわけがない。 だから。 「ねえ、日野さん。」 「ん?」 「譜読み終わったら、合奏しない?」 「え?いいけど、ここで弾いたらさすがにばれちゃわない?」 「大丈夫だよ。もうすぐ放課後だし、それに君の音をこの特等席で聴いていたいんだ。」 にっこりと笑って言えば、香穂子は一瞬面食らったような顔をしたものの、「しょうがないなあ」と言いながら笑ってくれた。 「加地くんってそういう照れるような事を平気で言っちゃうからかなわないなあ。」 「ふふ、そうかな。」 笑顔を返しながら、加地は心の中で苦笑する。 (こんなセリフはいくらでも言えても、本当は君の名前ひとつ呼べないんだよ?) 照れくさくて、ドキドキしすぎて・・・・なんて言ったら香穂子は驚いた顔をするだろうか。 (でもさすがに言えないから。) 加地はそっと置いてあったヴィオラケースに手を伸ばして、中から飴色の相棒を取りだした。 そして香穂子を真似るように抱えて、静かに弦を弾く。 ポンッと詰まった音が、さっき自分が空に聴かせていた意味不明の音に似ている気がして加地は少し笑った。 「・・・・僕が言えないかわりに、頼むね。」 「?何か言った?」 「なんでもないよ。さ、譜読み、譜読み。」 不思議そうな香穂子に笑顔を向けて、加地はそっとヴィオラのボディを撫でたのだった。 ―― 放課後の星奏学院には音楽が満ちている。 その中でも一際高い所から降ってくるような合奏の音を捉えて、廊下を歩いていた金澤は口角を上げた。 「・・・・いい音だから、見逃してやるか。」 〜 Fine 〜 |