ヴァイオリニストの指先
「何してるわけ?お前は。」 練習室の中の光景を見て柚木が思わず発した第一声はこれだった。 まあ、ドアを開けて本来練習しているはずのヴァイオリンを脇に置いて、右手に爪切りを握って難しい顔をしている少女がいたらだいたいこんな感じの反応になるのではないだろうか。 しかし少女 ―― 日野香穂子の方はそうは思っていないようで、唖然としている柚木ににっこり笑いかけた。 「あ、すみません。先輩。ここ使う予定でしたか?空いてたんで、いいかなと思って・・・・」 「別にそれはいい。そうじゃなくて、なんでお前は爪切り片手に眉間に皺を寄せているわけ?」 普段の王子様然とした柚木の仮面をすっかり取り去った本性ヴァージョン柚木の言動にも動じた様子もなく香穂子は「ああ」と呟く。 そして柚木と右手の爪切りを見比べて少し恥ずかしそうに言った。 「実は左手の指を切ろうかな、と思ったんですけど、私、どうも不器用で。しかもハサミ型だし。」 言われてみれば香穂子が持っているのはペンチの小さい版のような爪切りだ。 しかし注目すべきはそこではなくて。 「指を、切るのか?」 思わず眉間に皺を寄せて問いかけると、香穂子はあっけなく「そうですよ」と頷く。 でもますます眉間の皺を深くする柚木を見て、質問の意味がわかったらしい。 「あ、別に指を切っちゃうわけじゃないですよ?ただ指の皮が固くなって剥けてきちゃって邪魔だから・・・・」 「指の皮が剥ける?」 「はい。ほら・・・・」 言うより見せた方が早いとばかりに香穂子が付きだしてきた左手の指先は確かに固そうな質感になっていて、爪に近い方が僅かにめくれ上がっていた。 その有様に柚木は少し驚く。 「ヴァイオリンの練習のせいか?」 「はい。弦を押さえつけてると最初のうちはこうなるんだって月森君も言ってました。そのうち段々落ち着いてくるって。」 そう言って笑う香穂子が柚木には何となく面白くなかった。 コンクール参加者で香穂子と同じヴァイオリンの月森が香穂子に特別な想いを抱いている事ぐらい誰が見てもわかる。 (その月森に見せたわけだ、この指を。) その後、彼が言ったセリフなど容易に想像がつく。 『それは君が頑張っている証拠だ。だが・・・・その、大丈夫か?』 「それは君が頑張っていると言う証拠だね、日野さん。でも痛みはないの?大丈夫?」 わざとらしく王子様ヴァージョンで頭の中の月森が言ったセリフをなぞると、香穂子がぎょっとしたように一歩引いた。 「先輩、どこかで見てました?なんで月森君の言った事知ってるんですか?」 気味悪そうに見上げてくる視線に柚木は苦笑した。 (わかりやすい奴だぜ。) 月森と香穂子、どっちがわかりやすいのかはあえて考えないでおいた。 そして片手を香穂子の方へ差し出す。 「??」 「ほら、爪切りと手を貸す。」 「え?やってくれるんですか?」 意外そうに目を丸くする香穂子に悪戯心が動いて柚木は軽く肩を竦めた。 「何?俺がやるんじゃ指でも切られそうで怖いってわけ?」 「あ、いえ!お願いします!!」 慌てて爪切りを差し出してくる香穂子に柚木は笑った。 わかりやすいのはやっぱり香穂子の方かもしれない。 わざと少しもったいぶって柚木は香穂子の左手を自分の左手で掬った。 ―― 一瞬、滑り込んできた香穂子の手の温かさに柚木はぎくりとして動きを止める。 「先輩?」 不思議そうに聞かれて柚木は慌てて「何でもない」と質問をはねつけた。 ・・・・危うく握りしめてしまいそうになったなんて、口が裂けても言えない。 そして香穂子から爪切りを受け取る。 「この先っぽの方のめくれている所だけでいいんで、お願いします。」 香穂子が空いている片手で指さす場所に目を落とす。 柚木の手のすっぽり収まってしまう小さな手。 いつも元気が良くてじっとしていない香穂子からは想像できないほど華奢な手。 その指先にそっと爪切りを当てる自分の手が僅かに汗ばんでいる事に気づいて柚木は内心苦笑した。 (こんな事で緊張するのか、俺は。) 緊張するのは女の子の指に爪切りを当てる怖さか、それとも香穂子だからか。 ぱちんっ ぱちんっ・・・・ 何故か二人とも黙り込んでしまった空間に爪切りの乾いた音だけが2度、3度と響く。 人差し指、中指、薬指・・・・器用に剥けた部分だけを落としていきながら、柚木は自分の心の中に徐々に不快感が広がっていくのを感じた。 ―― 香穂子が必死になって練習する間、あのヴァイオリンはこの指を独占するのだ。 (・・・・馬鹿らしい) 自分で自分を嘲笑う。 反面、彼女の相棒であるヴァイオリンにすら嫉妬する気持ちを否定できない事にも気づいている。 彼女に愛される物はヴァイオリンですら憎らしい。 ・・・・香穂子の心を捕らえるのは、自分だけでありたい。 (本当に・・・・馬鹿らしいぜ。) ため息をついて、柚木は最後の小指の皮を切り離した。 「ありがとうございました。」 終わりと思ったのかにっこり笑って礼を言う香穂子を見て、ふと、柚木は口の端を持ち上げた。 その笑い方に香穂子が不吉な物を感じた時にはもう遅かった。 柚木は握っていた香穂子の左手をついっと持ち上げて 香穂子の指先に恭しくキスをした。 「!?」 あまりにも優しく、熱い吐息を指先に感じて香穂子にゾクリとした感触に肩を竦めた。 「せ、せ、先輩?」 反射的に引こうとした手もがっちり押さえられて動かず、どんどん赤くなっていく頬を止めることも出来ずに香穂子は固まってしまった。 そんな香穂子を口づけた位置からほとんど顔を上げずに上目遣いに見て、柚木はにやっと笑った。 「何?何か期待した?」 「し、し、してません!!」 本気で慌てて逃げようとする香穂子だが、そこは華奢に見えても柚木も男性。 逃げられないようにしっかりその手を押さえたまま、柚木は至近距離まで顔を寄せた。 「そうか。なら先輩としては後輩の期待に応えないといけないよな。」 「だ、だからしてませんってば!!」 真っ赤になって首を振る香穂子の頬に、そっと片手を添えてその動きを捕らえる。 そしてすいっとその指を滑らせて顎を掬いあげる。 その仕草が示すその先は・・・・ (え?え??ええ〜〜〜!!???) もはや完全にパニックに陥った香穂子は思わずぎゅっと目を瞑ってしまった。 ―― そのまましばし。 (・・・・・・・・・・・・・・・あ、れ?) 何も起きない、と思っておそるおそる香穂子が目を開けると、目の前で柚木が意地悪そのものの顔で笑っていて。 額をくっつけるような距離でふふんっと笑いそうな表情で言ってのけた。 「もう少し、色気のある顔ができるようになったら、指先以外にもキスしてやるよ。」 「い・・・・意地悪ーーーーーーーーーーーーーーーー!!」 放課後の音楽科校舎に香穂子の叫び声と、柚木の実に楽しそうな笑い声が響いたのだった ―― 〜 END 〜 |