Music
音楽というものは、ただの音の羅列だ。 白い紙に五本の線が引いてある譜面の上に、長短を表した記号が並んでいるものを、楽器でもって再現している、演奏というものは合理的に説明してしまえばそれだけだ。 ―― それだけ、なのだが。 「―― おや」 放課後、相も変わらずスクープと言う名の収入源を探して構内を歩いていた支倉ニアは森の広場にさしかかったところで、ぴたりと足を止めた。 ヴァイオリンの音が一筋、聴こえてきたからだ。 もっとも、音楽科を有する星奏学院では自由時間に楽器の音を耳にすることは少なくない。 現に今も、耳にとまったヴァイオリンの音色以外にも、管楽器やら弦楽器やらの音があちらこちらから聞こえている。 けれど、その中の一筋のヴァイオリンの音色は特別だった。 色とりどりのカラーテープの中に、一本だけ混じった金色のそれのように。 それは彼女の音色がそう聞こえるのは、ニアの生い立ち故か、彼女の音が特別だからか。 「ふむ・・・・」 後者だと信じる事にしてニアは愛用のデジカメを指先でもてあそんで口角を上げる。 「この夏の勝利の女神は、秋に入っても輝きを失わない、か。」 音の感じからして、それほど遠くで弾いているわけではなさそうだから、探しに行けばすぐに演奏している姿が見つかるだろう。 (・・・・最近の小日向はなかなかの稼ぎに繋がるんだが。) 夏の勝利の女神、こと、小日向かなでが夏休み直前に転校してきた時には、これと言って注目を集めるような存在ではなかった。 けれど、オーケストラ部へ入部したとほぼ同時に全国大会出場のアンサンブルに入り、並み居る強敵とのステージを制して全国優勝のトロフィーを学院に持ち帰った頃には、誰もが無視できないような輝きを放つ存在に化けたのだ。 (化けた・・・・ああ、そうだな。) 自分で考えた表現が妙にしっくりきてニアはくくっと喉の奥で笑う。 まさしく小日向かなでは『化けた』。 それは冥加や如月律に言わせれば、己の音を取り戻したということらしいが、この夏に彼女の存在を知ったばかりの者としては化けたとしか言いようがなかった。 ニアは止めていた足を再び動かし、近くの手頃な木陰に身を寄せる。 まだ強く感じる初秋の日差しをちょうど遮ってくれる梢の下へ背中を預けて、戯れに空中にある鍵盤を叩くように指を動かした。 (音楽は音の羅列。) 積極的に明かしてはいないが、ニアの一族は音楽に縁が深い。 それ故に、ニアは音楽というものに対して複雑な感情を抱いていた。 たかが音の羅列。 五線譜にかかれた音を楽器を使って再現していくだけ。 行為としてはそれだけのはずなのに、何故、人は音楽に魅了され、振り回され苦しめられ、それでもなお奏でようとするのか、と。 それは漠然とした恐怖にも近いかも知れない。 (身近にいた例があまり良いものではなかったしな。) ふと思い浮かべたいわゆる『音楽家』の顔に、ニアは苦い物でもうっかり口に入れてしまったように顔を顰めた。 本当にろくな顔を思い出さない。 (もしも、如月兄弟のように、小日向と最初から出会っていたら、違っていたかな。) 頭に残った残像をぬぐい去るようにそんなことを想像してみて、今度は少し愉快な気分になった。 もし冥加や如月律の言うとおり、幼いかなでにも今の音の片鱗があったのだとしたら、ともに奏でてみたいと思ったかも知れない。 音楽は、ただの音の羅列 ―― でも、その音の羅列がキラキラと輝く様をこの夏存分に見せてくれたかなでの音なら。 風乗ってくるヴァイオリンの音色はまだ続いている。 目を閉じれば、爽やかな風と暖かな木漏れ日を思わせるマエストロフィールドが見えそうだな、とニアは目を細めた。 と、その時、ふと唐突にヴァイオリンの音色が途絶えた。 「?」 曲の切れ目ではないが、何か失敗したような音もしなかった。 (なんだ?) 何かあったのだろうか、となんとはなしに気になって、ニアは木陰から背を浮かす。 これだけはっきり聞こえていたのだから遠くではないはずだ、と木立を透かして音色のした方をのぞき見たニアは。 「・・・・ああ、そう言う事か。」 にんまりと笑ってデジカメのファインダーをのぞき込んだ。 少し離れているが、デジカメのズームを最大限使えばばっちりとかなでの笑顔が大写しになる。 「おやおや、幸せそうな顔をしているな。」 シャッター音とともに思わずそう呟いてしまうぐらいのまぶしい笑顔。 そしてその笑顔が向けられる先は。 「・・・・こっちも、良い男が台無しだ。」 思わず呆れたように呟きたくなるぐらい甘ったるい表情でかなでを見つめる姿をファインダーに納めて、一瞬迷った後、ニアはシャッターを切った。 一般需要は100%ないが、かなでに渡せばきっと喜ぶだろうから。 (生徒手帳に挟んでおけ、とでも言っておけば、あいつの前でうっかり開いて面白い騒動になるかもしれないしな。) おそらく自分が思っているより、崩れている表情を見て慌てる姿を想像するのはわりと楽しい。 ついでにかなでが天然を爆発させて、何か思いも掛けない行動に出てくれるとさらに楽しめそうなのだが、などとニアが考えていると、ファインダーの中の二人が各々の楽器を構えた。 どうやら合奏をするらしい。 ザッツを出す刹那、二人の目が合う瞬間にシャッターを切る。 綺麗に収まった、とこっそり自画自賛していると、音色が流れ出した。 「・・・・・」 ニアは小さく息を吐くと、二人から目をそらして再び木へ背を預ける。 合奏になりよりはっきりした音色に耳を傾けながら、ニアはくすりと笑った。 「本当に、音楽というものは怖いな。」 ただの音なのに、感情を吸い上げる。 憎しみ、怒り、切なさ、孤独。 切望、願い、喜び、楽しさ・・・・そして。 (溢れんばかりの幸福。) 今まさに耳に届く合奏の音色を聴いて真っ先に感じる感情はそれだ。 聴いていて恥ずかしいぐらいに、甘くて幸せな音色。 「・・・・これだから人は音楽に惹かれるのだろうな。」 五線譜に書かれた音符をなぞりながら、演奏者は音に心を乗せる。 それが鮮やかであればあるほど、音色は輝き、曲は物語を語る。 「さしずめ、今のこの曲は、幸福な恋の第二楽章と言ったところか。」 風に流れてくる音色を聴きながらニアはそう呟いて、デジカメの画面を表示する。 そこに映ったまだ初々しい恋人達の姿を見つめて、ニアは微笑んで目を閉じた。 耳をくすぐるかなでのヴァイオリンの音色も、さっき一人で弾いていた時と違う気がした。 彼女の音色に寄り添う音に支えられるようにして、さらに軽やかに楽しげに、そして僅かに艶めいて。 この甘い甘い合奏が終わったら、さっきのデジカメ画像を持って、言ってやろう、とニアは決めた。 他人が聴くには少し甘ったるすぎるぞ、と。 おそらくそう言ったなら目をまん丸くするに違いない親友の姿を思い浮かべてニアは微笑んだのだった。 〜 Fin 〜 |