Metronom
「う、う〜〜〜〜〜ん・・・・」 「なーに、うなってんのよ?」 放課後の教室で楽譜片手にうなっていた香穂子はいきなり背中をぺけんっと叩かれて顔を上げた。 そこには最近友人になったばかりの新聞部部員の姿。 「あ、天羽ちゃん。」 「天羽ちゃん、じゃなくて、なんで楽譜に額くっつけてうなってるわけ?その様子だとわかんない事でもあった?」 「・・・・図星。」 「やっぱね。」 苦笑して頷く香穂子に天羽は笑った。 香穂子、こと普通科1年、日野香穂子は現在開かれている学内コンクールの出場者の一人であるにもかかわらず、楽器に関しては全くの初心者という曰く付きの参加者である。 なんでそんな彼女がいきなりコンクールなどに出演するはめになったかというと、妖精との出会いとか魔法のヴァイオリンとかまるっきり人には信じてもらえないような数々の事情がある。 一応妖精の代表リリを含め初心者の香穂子を巻き込むにあたり、特別の協力を約束してくれてはいるのだがどうしても音楽的な基本知識の欠如は補いきれない部分が出てくる。 というわけで、香穂子がこんなかんじで楽譜を前に眉間に皺を寄せている姿は度々見られる光景だった。 「で?今回は何?」 「それがさあ、曲の早さっていうのがぴんとこなくて。」 「早さ?」 「うん、ほらここに書いてあるでしょ?」 そう言われて見せられた楽譜の最初の一小節目の上に美しい書体で書かれているのはModerato。 「Lentが遅いって言うのは志水君に教えてもらったんだけど、これは初めてで。」 「レント?なにそれ?」 「テンポなんだけどね。うう〜〜〜ん。」 「あのさ、香穂。」 「うう・・・ん?」 再度うなりに入ってしまった香穂子に半ば笑いをこらえつつ天羽は言った。 「それだったらなんだっけ、あの音楽の事典みたいなの貸してもらえばいいじゃない?」 「音楽の事典・・・・楽典の事?」 「あ、そうそう。それ。月森君の愛読書。」 「愛読書って。・・・・でもそうだね。まだ誰かいるだろうし、行ってみようかな。」 言うが早いか楽器ケースと鞄の支度を始める香穂子を見ながら、天羽は悪戯っぽく笑って付け足した。 「ま、生憎『あの人』の愛読書じゃないみたいだけどね。」 「なっ!あ、天羽ちゃん!」 「はいはい、いいからいっといで〜。」 「そ、そんなんじゃないんだからね!じゃあね!」 ひらひらと手を振る天羽に投げ捨てるように言って教室を出て行く香穂子。 その姿を見送って天羽はにやにや笑って呟いた。 「そんな赤い顔でいわれても、ね。」 【Lent ・・・・遅く】 (平常心、平常心。) 楽譜を片手に握ったまま歩く放課後の校舎は人気もだいぶ少ない。 それを確認して香穂子は楽譜を目の前に持ってくる。 (あ〜、早くこのテンポの感じをつかまないと次のセレクションに間に合わないよ〜。) そうでなくても楽譜練習の後には陸上部の練習並の走り込みが要求されるフェッロ探しが待っているというのに。 「ん〜んん ん〜ん??」 「・・・・何やってんだ、お前。」 呆れた声と共にぽすっと頭を撫でられる感触に香穂子は振り返った。 「あ、土浦君!」 同じ普通科出身のコンクール仲間を見つけた香穂子が目を輝かせる。 香穂子にとっては話しやすく、同時に頼りになる同志でもある土浦は何故か一瞬ひるんだような顔をしておう、と答える。 「土浦君、楽典持ってない?」 「楽典?悪い、今は持ってない。」 「そっかー。じゃあ、他の人に聞いてみるよ。ありがとう。」 「ああ。あ、おい、香穂。」 「ん?」 「頑張れよ。それと、前見て歩け。」 まるでお兄ちゃんのような心配の仕方に、香穂子は笑った。 「はーい。わかりました。」 明るく答えて香穂子は土浦に背を向ける。 ・・・・その背を土浦がずっと見つめていた事を知る事もなく。 【Moderato ・・・・中ぐらいに】 珍しく土浦に応援されて機嫌の良くなった香穂子は軽快な足取りで普通科校舎と音楽科校舎の間の通路を渡る。 こっちの校舎も人気は少なく、でもどこからか楽器の音色が聞こえるのが音楽科校舎らしい。 (誰か捕まえて楽典見せてもらったら練習室に行こうかな。) 練習室にはリリがいるはずだからアドバイスも受けられる・・・・などと考えていた香穂子は前方からやってくる人影を見てぎくっと顔をこわばらせた。 (あ、あの必要以上に優雅な身のこなしで近づいてくるのは・・・・) 【molto Vivace ・・・・きわめて速く】 (さわらぬ猫かぶりに祟りなし。) 瞬決でくるりときびすをかえそうとした香穂子の肩ががしっと捕まれる。 「ひえっっっ!」 「人の顔を見るなり回れ右とは、いい度胸だね。日野さん?」 にいいっこり。 「ゆ、ゆ、ゆ、ゆ、柚木先輩・・・・」 優雅というにはあまりにも黒すぎる微笑みに背中を嫌な汗がダラダラ伝うのを実感してしまう香穂子。 「し、失礼しました。」 「おや、どうしたの?顔色が悪いよ?」 「そ、そ、そんな事はございません!」 「そう?でも具合が悪いようなら保健室に連れて行ってあげるけれど。」 「遠慮させて頂きます!」 柚木先輩と保健室。 なぜだか非常に危機感を感じてぶんぶん首をふる香穂子に、柚木はわざとらしく悲しそうな表情を乗せる。 「そんなに嫌なら仕方がないね。・・・・退屈してたから遊んでやろうと思ったのに、さ。」 後半部の台詞にひ〜〜〜〜っと香穂子が首をすくめた、ちょうどその時 「お待たせ、柚木〜!って、香穂ちゃん!?」 とくんっ 【Allegro ・・・・速く】 「和樹先輩?」 とくん、とくん、とくん 柚木の反対側、後ろを振り返れば驚いたように目を見開いている人が一人。 その驚きの表情が、子犬を思わせる表情の豊かさでくるりと笑顔に変わる。 「どうしたの?あ、もしかして練習室使いにきた?」 彼の吹いている楽器のように明るくくったくない声に香穂子は自然と笑った。 「そうじゃないんですよ。あ、そうだ。和樹先輩は楽典・・・・持ってないですか?」 後半自信なさげになってしまったのは、以前火原が月森に怒られているシーンを思い出してしまったためと、さっきの天羽の言葉のせい。 そしてやっぱり大方の予想通り 「あ〜、持ってないや。」 しゅんっと顔を曇らせる火原に香穂子はわたわたと手を振った。 「あ、別にいいんです!あんまり期待してなかったし!月森君を捜しますから。」 「・・・・なんか微妙にけなされてる?」 「そうかもね。ところで日野さん。楽典がいるなら僕のを貸そうか?」 「え゛?」 にっこり、と親切そのものな顔で申し出られても。 (でも楽典、借りないと先に進まないし・・・・) どうしよう、と究極の選択を前に香穂子が唸りかけた瞬間。 「ちょっと待って!」 「「え?」」 急に声を張り上げた火原に驚いて二人が振り返る。 「香穂ちゃん、5分待ってて!俺、ロッカーからとってくるから!」 「え?和樹先輩?」 「上に楽典置いてあったの思い出したんだ。だから、待ってて!」 「え?え?いいですよ、そんなに無理しなくて。」 なんだかわからない火原の勢いに押されて目を白黒させながら言ってみるが、火原の考えは変わらないようで。 「無理じゃないよ!だからお願い!5分待っててね!」 「あ!ちょ、和樹先輩!?」 バタバタバタバタ! 驚いている香穂子の前から砂埃でも立てそうな勢いで走り去っていく火原。 ぼーぜんとそれを見送っていた香穂子の耳にすぐ横で鞄の中から楽典を取り出しかけていた柚木のため息が聞こえた。 「・・・・まったく、そんなに他の男を頼るのが嫌なら楽典ぐらい持ち歩いてろよ。」 「え・・・・」 とくん (他のって、柚木先輩のこと?嫌って・・・・それって・・・・) とくん、とくん、とくん、とくんっ 【Allegro ma non troppo ・・・・速く、しかしはなはだしくなく】 ―― そして色鮮やかに。 耳元で聞こえるメトロノームに導かれるように、火原が走り去った方から目を離せない香穂子の耳に、今度は呆れたような柚木の声が聞こえたのだった。 「お前もそのにやけた顔、あいつが帰るまでにどうにかしとけよ。」 「え゛」 〜 終 〜 |