―― 校舎裏のいつもの場所で日差しに誘われて目を閉じていたら ―― 目を赤くした貴女がきた ―― そして聞いたことのないぐらい小さな声で「ここにいても、いい?」と聞いて ―― 僕の隣に座って声を殺して泣いた ―― その日から、僕に許されたのはたった1つの権利・・・・ Lamentoso 「あの子、調子にのってるよね。」 「うん、大して上手くもないくせにさ。」 ―― 音楽科の校舎を練習室に向かっている時に、ちらりと耳に入った女子生徒のおしゃべり。 それは他愛もない世間話のように語られる、悪意。 廊下を歩いていて教室の中から零れてくる女の子達の話を聞いた志水には、それが誰の話なのかすぐにわかった。 現在行われているコンクールに普通科から参加している女子生徒、日野香穂子の話だと。 歩みをゆるめず志水は教室の前を通過する。 その間も彼女達がうわさ話をやめる気配はない。 「だいたいさ、あの程度の実力でコンクールの舞台に立とうなんていい度胸だよね。私にはできないなあ。」 (・・・・先輩はいつも必死で練習して舞台に上がってる。貴女達の何倍も。) それでも舞台に上がる前は緊張する、と震える手を押さえて泣き笑いのような表情を浮かべている事も知らない彼女達。 「普通科のヴァイオリンなんてどうせ趣味の程度でしょ?だから自分と月森君の音にどれほど差があるかも聞き分けられないのよ。」 (そんな事があるわけない。先輩の耳はものすごくいいんだから。ちょっとした気分の違いで音が変わってしまう事に気が付いてしまうぐらいに。) 「そうだよね〜。言えてる。」 「素人だもんね。音楽科とは考え方が違うのよ、きっと。」 (音の中にある音楽へのひたむきさがわからなくて、何が「音楽科(プロ)」なんですか。) 志水の心の声が聞こえるわけもなく、なにやら盛り上がっている教室の前を通り過ぎると、志水は1つ息を吐いた。 自然と歩みも緩くなった。 (ああいう話、最近増えてる・・・・) 特に音楽科で・・・・と考えて1つの結論に行き当たった。 みんな焦っているのだ。 普通科の香穂子が目に見える上達を遂げているのを見ていて。 自分達に比べても明らかに早い香穂子の上達スピードに苛立ってつい口から彼女への悪評がこぼれ落ちる。 コンクール最初の頃はそれでも、それだけで終わっていたのだろう。 けれど、第1、第2セレクションが終わるにつれ変わってきたことがある。 ―― 他の参加者の態度だ。 以前は香穂子の悪評を聞いても涼しい顔をしていた月森が最近は自分の近くでそれを聞くと不快そうな顔で言い返している姿を見るようになった。 元々、香穂子に同情的だった火原は最近では香穂子が中傷されていると本気になって怒る。 あの柚木でさえ、取り巻きの女の子達が香穂子の事を少しでも悪く言おうものなら顔色を変えていた。 その態度にはあきらかに香穂子への好意が見て取れたから、彼らに思いを寄せている人間にしてみれば酷く面白くない気にさせられただろう。 だからさらなる香穂子への悪評につながっていって・・・・ (香穂先輩の耳にも入るかもしれない。) 実際に志水の危惧は現実になった事が多々あった。 そんな時、香穂子は決まって困ったように笑って言うのだ。 『・・・・しょうがないよね。』と。 そして決まって校舎裏に来て泣くのだ。 ―― 志水の隣で。 『不思議なことにね、志水君がいないと涙がでないんだよ。』 以前、泣きやんだ彼女に言われた事がある。 『どうしてですか?』 小首をかしげて問うた志水に、香穂子も少し困った顔で笑って言った。 『なんでだろうね。私にもわかんないんだけど・・・・でも他の人じゃなくて志水君だと泣いてもいいんだって気になれるのかも。なんだか志水君の顔を見るとほっとするんだよね。 ・・・・だから、ありがと。』 にっこりと笑って素直にお礼を言う香穂子に目を合わせていられずに、志水は視線を落として首を振った。 『いいえ・・・・』 (お礼なんて言わないで下さい・・・・僕は・・・・) ―― 香穂子の悪評は聞いていて酷く嫌だと思う ―― 反面、期待している (この悪意に貴女が傷ついて、僕を捜してくれる事を) 練習室の前まで来ていた志水は、前触れもなく踵を返した。 (火原先輩のように、貴女を笑顔にする事は出来ない。) 足早に廊下をすり抜ける。 さっきの教室の前を通った時、中から楽しそうな女子生徒達の声が聞こえた。 彼女たちにとって香穂子の悪口など、世間話の一部にすぎないのだろう。 その程度の悪意が、香穂子をどれほど傷つけているかも知らず。 その程度の悪意を、志水が望んでいることも知らずに。 (土浦先輩や月森先輩のようにアドバイスもできない。) 廊下を抜けて校舎の外にでる。 (柚木先輩のように、貴女を優しく気遣う言葉もかけられない。・・・・それはわかっているから。) 早めに下校しようとする生徒の間を縫って校舎の端を回る。 いつの間にか小走りになっていた。 校舎の裏、練習室近くの木陰に・・・・ 「香穂先輩。」 「あ・・・・」 静かな声に、うずくまっていた香穂子が顔を上げた。 その顔からは普段見慣れている元気の良い香穂子の表情は消えていて、不安げな寂しそうな瞳が痛々しく志水を見返しているだけだ。 たぶん他の参加者も、誰も知らない香穂子の表情に志水はきつく手のひらを握りしめた。 (・・・・そんな顔をしないでください。) 泣いて欲しくないと思う気持ちと同時に、酷く昏い独占欲が胸の内に広がっていく。 この表情を、この瞬間を独占していられるのは志水だけ。 そう思えば思うほど (貴女が傷つけられることを望んでしまうから・・・・) 香穂子が好きだと思う前は恋愛感情がこれほど凶暴なものだとは知らなかった。 でも、知ってしまった。 そして知らなかった頃にはもうもどれない。 だから ―― せめて涙だけは僕のものに。 「・・・・志水君・・・・」 糸が切れたようにポロポロと涙をこぼし始める香穂子のすぐ近くに、志水は座った。 側にいる、という事を示すように。 何も聞かず、何も言わない。 ただ、泣いている香穂子の隣にいる。 抱きしめたい衝動も、狂おしいほどの想いも押さえ込んで、ただ涙の守人を演じる。 ・・・・それはコンクールが終わって、貴女が無神経に傷つけられることがなくなるまでの ―― 涙の独占権 〜 END 〜 |