誰にも譲れないものが・・・・ある Appassionato 学校から家の用事を済ませて帰ってきた柚木梓馬は玄関をくぐるとそのまま無言で自分の部屋に駆け込んだ。 「梓馬さん?お夕飯は?」 母親の声が追ってきたが振り返りませずに答える。 「すみません、気分が良くないので部屋でもう寝ますから。」 「まあ、大丈夫なの!?」 (うっとうしい・・・・) そのまま部屋へ駆け込みたいところだったがそうすれば母親がどうするか想像に難くなく、飽きらめて柚木は閉めかけた部屋のドアの間から弱々しく見えるように微笑んで言った。 「大丈夫ですよ。少し疲れただけなので寝かせてください。」 そうしておいて母親が何か言う前にドアを閉める。 そして鞄を適当に床に放り投げると乱暴にリボンタイを首もとから引き抜いてベッドに仰向けに転がった。 幾度となく自分の頭の中にリプレイされる映像を閉め出そうとしてきつく目を閉じる。 しかし一度焼き付いてしまった光景は消えることはなく、柚木は舌打ちした。 (消えろ・・・・) 心の中でどんなに切実に念じても思い出したくない光景は更に鮮やかに瞼の裏に浮かんでくる。 家の用事を済ませた帰り、ほんの偶然車窓から見えた光景。 ―― それは小さな児童公園のブランコで楽しそうに笑い合う、火原和樹と日野香穂子の姿だった。 (そういえば、何か言いかけてたな。あいつ・・・・) 最近一緒に帰り始めた香穂子と柚木は校門で待ち合わせをしている。 今日も本当ならそうするつもりだったのだが、こちらに用事が出来てしまったので校門にやってきた香穂子に簡単に事情を説明するだけで一人で帰した。 否、帰ったと思っていた。 しかし思い返してみれば香穂子は校門で会った時、何か言いかけていた気がする。 (火原と帰るつもりだったのか。) そう思って皮肉げに柚木は口元を歪めた。 (そりゃ、普通はあいつを取るよな。) 普段の『王子様』の仮面を被った柚木ならいざ知らず、酷い言葉ばかりぶつけて皮肉っぽく笑う男と、真っ直ぐで素直で太陽のように笑う男。 どっちをとるかなんて目に見えている。 (本当にトロい奴・・・・) 正しい方を選び取る事ができるなら最初からそうしてくれればよかったものを。 そうしてくれていれば・・・・こんな気持ちを抱える羽目にもならなかったのに。 柚木はあの光景を見てから感じ続けている疼くような痛みに耐えるように左手を胸に押し当てた。 母親に言った言い訳も満更嘘でもなかったな、と頭の片隅で思う。 気分は悪い。 吐き気がするほどどす黒い感情に体の中が支配されているようだった。 この感情をなんと呼べばいいのか、柚木には嫌と言うほどわかっていた。 ―― 嫉妬だ。 日野香穂子という少女は出会った時から極普通のように見えて、どこか風変わりなところがあった。 どんな女の子でも頬を赤らめるような甘い視線にも、真っ直ぐな視線を返してくる。 口から飛び出す言葉に偽りはなく、かといって無神経でも考えなしでもない。 変な所で情に脆くてリリに泣きつかれてコンクール出場までする羽目になってしまった少女。 それでも引き受けた以上はやってみせると必死になって練習をしていた香穂子。 最初はそんな様がどこか滑稽で見ていて面白かった。 優しい言葉をかけるのにも飽きて思わず本性を曝してしまったのも、最初は好奇心だった。 この馬鹿正直な少女は『王子様』が急変した様を見てなんと言うだろう? 少女は驚いたように目を見開いて・・・・それだけ。 態度は本性を出す前と一片も変わることはなかった。 今考えればそれが始まり。 どれだけ意地悪な事を言ったら香穂子が態度を変えるのか、遊んでいるつもりで・・・・いつの間にか香穂子とのやりとりほど『自分』でいられる場所がない事に気が付いてしまった。 何も飾らない『自分』 ―― 素直でも優しくもない『自分』。 変わらない香穂子の態度はそれを丸ごと肯定してくれているようで。 気が付けば好奇心は恋に変わっていた。 特に香穂子が強く反発しなかったから一緒に登下校もするようになって、彼女に一番近い場所に陣取った、つもりでいた。 けれど・・・・ 「くそっ・・・・!」 溜まった感情を吐き捨てるように柚木は呻いた。 自他共に認める親友である火原も香穂子の事を特別に思っている事も知っていた。 2人が他の参加者達よりも仲が良いことも。 それでいて尚、心のどこかで傲っていた。 香穂子の一番近くにいるのは自分だと・・・・何の根拠もないのに。 それをさっき見てしまった光景は容赦なく事実として柚木に突きつける。 火原と2人で子供用のブランコに座って話している香穂子は柚木の知っている顔とはまるで違う明るい笑顔だった。 本当に楽しそうに笑うそんな香穂子を自分は見たことが無くて、車のシートに押しつけた掌に握りしめた爪が食い込んだ。 (やめろ・・・・そんな顔するな。) 一瞬しか見なかったはずなのに焼き付いている香穂子の笑顔に向かって柚木は呟く。 (俺以外にそんな顔を見せるな!俺だけだ!お前の笑顔を、声を独占して良いのは俺だけだ!!) ガッ! 叫ぶ代わりに拳を叩きつけた壁が鈍く鳴った。 鋭い痛みが手を貫くと同時に柚木は目を覆う。 瞼の裏に繰り返されるのはさっきの光景だけではなかった。 出会ってから今までの香穂子の表情が次から次へと思い出される。 意地悪な事を言われて困る顔、泣きそうでも視線から逃げない顔、怒る顔、柚木の名前を呼ぶ時の顔、そして笑顔。 ・・・・彼女さえいなければこんな苦しい想いをしなくてもいいと思っていても、彼女がこれから火原を選ぶかもしれないと思っていても 「香穂子」 ―― こぼれ落ちた声はこれ以上ない程に甘くて。 その時 ―― 〜♪ 部屋に鳴り響いた携帯の着信音に柚木はのろのろと身を起こした。 放り出していた鞄から機械的に携帯を取り出して明けて顔をしかめる。 メールが一通届いていた。 差出人は『火原和樹』。 (最悪だな。) 何の話か容易に想像がついて柚木はそのメールをそのまま消去して届かなかったことにしようかと一瞬本気で思う。 しかし結局開いたメールの内容は柚木の想像とは全く違っていた。 『タイトル>どうしよう 今日さ、香穂ちゃんに思い切って一緒に帰ろうって誘ったらいいって言ってくれたら一緒に帰ったんだよ。 でも俺、それで浮かれちゃって帰りに「これからも一緒に帰らない?」なんて聞いちゃったら香穂ちゃん、困った顔して「ごめんなさい」って謝るんだ。 自惚れた俺が悪いのに・・・・なあ、柚木。香穂ちゃん、気にしたよね?どうしよう?』 「・・・・『ごめんなさい』?」 (火原を選んだんじゃないっていうのか?) 理解するまで数秒かかり、した後はせっかく立ち上がったベッドに力が抜けたように座り込んでしまった。 体中に張りつめていた感情が溶けていくような気分に、柚木は大きくため息をついた。 そのため息の中に僅か喜びさえ混ざっている事に気が付いて柚木は苦笑する。 (親友が落ち込んでるっていうのにな。) まるで人でなしだ、と自分を揶揄しつつさっき壁を殴った掌に目を落とした。 僅かに血が滲んだその手を見つめて、強く握りしめる。 (でも、失えない。) 当たり前のように、その事がすとんと心に落ちた。 失えないのだ、もう。 こんな想いを抱えさせるほどに心を持って行ってしまった彼女を、もう失うわけにはいかない。 例えその相手が自分の親友だとしても。 「悪いな、火原。」 携帯の画面に向かって呟く。 確かに火原と香穂子はよく似合っていて、香穂子にしても火原を選んだ方が幸せになれたかもしれない。 それでも 「お前にも譲れない。」 呟いた柚木は好戦的に微笑んだ。 〜 END 〜 |