雪のち風邪のち恋人時間
明治の世で初めて見た雪は、びっくりするぐらい真っ白だった。 そりゃ、車なければ舗装道路もほとんどない時代だから、現代ではあっという間に薄汚れてしまう雪も、真っ白に積もるのは当たり前なんだけど。 東京は土地柄、あまり大雪にはならないけれど、それなりに雪が積もることもあるらしい。 話には聞いていたけれど、朝起きて外の景色が真っ白だったら、それははしゃぐなっていう方が無理だと思う。 そんなわけで、東京に雪が降った日、私は大はしゃぎでハッチと一緒に『みよしの』を飛び出した。 真っ白な雪は綺麗で、ハッチと一緒にそれを楽しめるのが嬉しくて。 はしゃぎすぎで、お前らは子犬かってリンやスケさんには呆れられたけど。 でも楽しかったんだからしょうがない。 一日、雪だるまを作ったり座員のみんなを巻き込んで雪合戦をしたり、思う存分遊んで・・・・・・・・・・。 ―― 翌日、何故か私だけが風邪をひきました。 「くしゅんっっ!」 自分のくしゃみでうつらうつらしていた意識が引き戻されて葵はぱかっと目を開けた。 視界に見慣れた『みよしの』の木の天井がうつって、葵は数度瞬きをする。 (あ〜・・・・眠ってたんだ。) ぼやんっとする独特の倦怠感そう思いながら、葵は寝たまま目を窓の方へ向けた。 障子越しに差し込む光が、お昼に甲姫が持ってきてくれたお粥を食べた時の記憶から、大分弱くなっているような気がするから、もう午後も大分遅くなっているに違いない。 (結構寝てたのかも。) 自分では昨日の楽しい出来事を回想しているぐらいのつもりでいたのだが、意外とよく眠っていたらしい。 そのおかげか、寝る前はしんどかった体が少し楽になっている気がする。 「それにしても・・・・私だけって。」 昨日の出来事を回想していたせいか、思わずそんな呟きが漏れた。 その響きについつい苦笑めいた響きがこもってしまったのも仕方がない。 なにせ、今回の葵の風邪の原因は間違いなく雪遊びなのだが、ほとんど朝から晩まで一緒に遊び回っていたもう一人はというと・・・・。 (やっぱり、ハッチだけに、ば ――) と、その時。 「―― 姫さん、起きてるか?」 襖の外から彼にしては珍しい、控えめな声で問いかけられて葵はびくっと跳ねた。 そりゃまあ、それなりに失礼な事を考えていたところへ、本人の声がしたら驚くのもしかたない。 「ハ、ハッチ?」 「おう。起きてるなら入っていいか?」 「あ、う、うん。」 一瞬動揺したものの、入られて困るような事もなかったので、頷くとすぐに襖が開いて、ハッチこと蜂須賀陽太が顔を出した。 普段から表情が人一倍豊かな陽太の、心配!と書いてあるような表情に葵はなんだか少しくすぐったくなる。 けれど、陽太の方は寝ている葵を見て、少し慌てたように枕元に駆け寄ってきた。 「ごめん、起こしたかな?」 「大丈夫。ちょうど起きようと思ってたとこだよ。」 眉毛を面白いほどハの字に下げてのぞき込んでくる陽太に葵は微笑んで、それから体を起こした。 すぐに背中を支えるように陽太が腕を伸ばしてくれて、起き上がった後は軽く背中を撫でてくれた。 「ならよかったけど。具合、少しは良くなった?」 「うん。お昼の後ずっと寝てたからね。さすがにそろそろ体が痛くなってきそう。」 冗談交じりにそう言いながら肩をすくめると、陽太は明らかにほっとしたように息を吐いた。 「良かったあ。おれっちすっげー心配したんだぜ?」 そう言いながら陽太は葵の肩に半纏を掛けてくれる。 「ありがと。」 そう言って葵が笑うと、少し照れたように陽太も笑って枕元に腰を下ろした。 「でもまさか姫さんだけ風邪ひくとはなー。」 陽太の言葉に葵は苦笑した。 そうなのだ。 昨日、雪に興奮して遊び回ったのは葵だけではなく、陽太も同じだったはず。 だというのに、何故か風邪を引いたのは葵だけだった。 「朝からみんなひでえんだぜ?そりゃまあ、姫さんの体力とかあんまり考えずに連れ回したおれっちが悪いってキカクやケンスケに説教されたのはしょうがないけど・・・・。」 「あ、やっぱりお説教されちゃったんだ。」 自分の体の事を考えずに遊び回ったのは自分も悪いのに、と葵は申し訳なく思う。 まあ、葵もまた甲乙姉妹から一言二言お小言はいただいたのだが。 「でもさ、おリンなんか『ハチは馬鹿だから風邪なんかひかないが、あいつは違うんだ』なんて言いやがってよお。」 不満げに唇をとがらせる陽太に、葵は中途半端に乾いた笑いを浮かべた。 (・・・・まさか似たり寄ったりなことを考えてたなんて、言えない。) 体力の有り余ってる年ごろの男と、現代っ子の女子なのだから葵だけ風邪を引いたのは別に不自然なことではないのだが、相手が陽太だとつい、迷信全開なフレーズが頭に浮かんでしまうのは・・・・あまり深く考えないほうがよさそうだ。 けれど幸いなことに葵が微妙に目をそらした事に気がつかなかった陽太は、すぐに「あ、そうだった。」と言うと持ってきた袋を出した。 「これ、姫さんにお見舞いだってさ。」 「お見舞い?」 「ホウセンから。さっき町で会ってさ。」 (ホウセンさん、いったいどこから私が風邪だって聞いたんだろ。) 一瞬そんな疑問がよぎったが、多分、情報屋として相当優秀らしい彼にとっては、葵の風邪情報ぐらいは寝ていても入ってくるのかもしれないと適当に納得して葵は渡された袋を開いた。 と、そこには。 「わー!みかんだ。」 ころころとたくさん小粒ながら綺麗な橙色のみかんが入っていて、葵は歓声を上げる。 「すごい!一杯!」 「なんでも近所でなってたからもらってきたんだって。甘いらしいぜ。」 「やったあ!」 明治の世で果物は貴重な甘い物だ。 葵はさっそく一つ取り出して剥いてみた。 小さな房をとって口に運べば、甘酸っぱい果汁が口の中に広がって、思わず笑顔がこぼれる。 「ん〜〜、美味しい。」 「・・・・・・」 しみじみとみかんの甘さを味わいつつ、半分食べたところで、ふと葵は気がついた。 何故か、陽太が妙に静かになっていることに。 「?」 不思議に思って陽太に目を移すと、何故か。 「・・・・すごい渋い顔してるけど、どうしたの?」 と、思わず葵が聞いてしまうほど、陽太は渋い顔をしていた。 「たいしたことじゃねえんだけど・・・・ちょっと悔しかっただけだ。」 「悔しい?」 「・・・・おれっち、姫さんが風邪引いたって聞かされてすっげえ心配でさ。何かしたかったけど、オトヒメやキノヒメに邪魔だって追い出されて、それならお見舞いを探そうって町へ行ったんだ。けど、おれっち、風邪なんてほとんど引いたことねえし、ナナミの親分もそうだから病人に何をあげればいいか思いつかなくて。」 無念というようにぽつぽつ語る陽太のしおれた様子とは反対に、葵の胸はじわじわと温かくなっていく。 「それで、どうしようって迷ってた時にホウセンと会ってさ。お見舞いだってこのみかん渡されて。ちょうど良かったと思って急いで帰ってきたんだけど。」 そう言って言葉を切って、陽太は葵を見つめた。 その表情は、まるで主に構ってもらえない犬そのもので。 「・・・・姫さんがそのみかんを嬉しそうに食ってるのみたら、ホウセンのお見舞いでそんなに喜んでんだなって悔しくなった。おれっちも何か見付けてくればよかったぜ。―― って、姫さん!?」 唐突に食べかけのみかんを脇に置いて膝を抱えるように突っ伏してしまった葵に、陽太は驚いたように声を上げたが、残念ながら葵にそれに反応する余裕はなかった。 「〜〜〜〜〜」 (ちょっ・・・・〜〜〜〜、今、すごく・・・・・・・きゅんっとしたかも。) なんかもう、口の中のみかんの甘酸っぱさがそのまんま胸の真ん中に落ちたみたいに。 こういうところ、陽太は油断ならない、と葵は恋人と呼べる関係になって以来、実感していた。 けして剣助のように女の扱いになれているわけでも、七巳のように考えて発言しているわけでもない。 けれど、ものすごく自然にものすごく天然に、乙女心を的確に抉るような事をさらっと言ったりやったりしてしまうのが陽太なのだ。 「姫さん?大丈夫か?急に具合悪くなったりしてねえ?」 「だ、大丈夫・・・・。」 風邪的には。乙女心はちょっと大丈夫じゃないけど。 ・・・・というのは、さすがに口に出すのは恥ずかしすぎるので、なんとか誤魔化そうと葵は不自然に突っ伏してしまった顔を上げた。 「ちょっと寒かっただけだから。」 「え!?それはダメだろ。えーっと・・・・。」 慌てて周りを見回す陽太に、もう大丈夫と告げようとした途端、陽太は良いことを思いついたようにぱっと顔を輝かせた。 そして。 「姫さん、ちょっとごめんな?」 「へ?」 陽太はにっこりとそう言うなり ―― 葵の枕をどかして、その場所に座るとすっぽりと後ろから葵を抱きしめた。 「!!」 あっという間に背中全体を陽太の体温に包まれて、一気に頬に血が上って硬直した葵の耳に普段よりも少し甘めな陽太の声が響く。 「こうしてれば寒くないよな?・・・・ほんとは、もう少し寝てた方がいいのかもしれないけど、もうちょっと一緒にいたいから、さ。いいよな?」 唇が耳を掠めるような位置で囁かれた声に、逆らえという方が無理だと葵は思った。 「・・・・ハッチ、ずるいよ。ダメ、とか言えない。」 「へへ、だって仕方ねえじゃん。断られたくないんだし。」 言葉だけは悪戯が成功した子どものようだけれど、囁かれる声は睦言を囁くそれ。 こういう時の陽太は意外と強引だと身をもって学んでいる葵は、とうとう観念したようにその胸に背中を預けた。 「ううう〜・・・・」 「姫さ・・・・葵、いつもより暖かいな。」 呼ばれ慣れた呼称ではなく、きちんと名前を呼ばれて、また葵の鼓動が加速する。 (なんだろう、あったかいんだけど、嬉しいんだけど・・・・体に悪い気がする。) はあ、とため息をついて少し後ろを振り返れば、陽太と目があった。 その顔がなんだかとても満足そうだから。 (・・・・まあ、いっか。) ちょっと心臓はどきどきするし、熱もさっきより上がった気がするけど、それでも。 (幸せ、だし。) 甘酸っぱいみかんを食べた時のように、胸の奥がきゅうっとなって、でも自然と口元がゆるんでしまうみたいに。 「葵、熱上がってないか?」 「うん?どうだろ。」 ふわふわとした暖かさには包まれていたものの、風邪の熱なんだか、陽太がもたらす熱なんだかわからなくて、そう応えると、陽太は少し体の位置を変えて葵の額にこつん、と自分のそれをあてた。 とくん、とまた鼓動が一つ。 焦点が定まらないほど近いその距離は・・・・。 「・・・・そういえばさ」 「?」 「風邪ってうつせば治るらしいぜ?」 「え・・・・」 「だから、おれっちにうつして、早く元気になってくれよな、葵。」 ―― そう言って、熱を測っていたはずの距離はあっという間に口付けの距離にかわって。 (・・・・でも、ハッチが風邪で元気ないのは見たくないから・・・・なんとかでもいいから、風邪うつらないといいな。) 労るように触れる熱に翻弄されながらも、葵は思考の片隅でそんな、ちょっと失礼な事を思ったのだった。 ―― 結局、二日ほどで葵は完治したものの、あれほど口付けしたのに陽太の方は全く風邪をひく気配もなく、葵は本気で首を捻ったとか。 〜 終 〜 |