湯煙恋事情



―― ぴちょん、ぽたん。

湯船に水滴が落ちる音が、独特の反響を風呂場に響かせる。

それは風呂好きを公言している荒銀淋にとっては、至福の時間を示す音のようなもので、普段なら不規則なそれを楽しみながら、のんびりとしているのだが。

「・・・・・・・・・・・・・・はあ。」

自分の零したため息の方が風呂場に反響してしまった。

そして同時に、反響という形で突きつけられたそれが、あまりにも途方に暮れたような響きを持っている事に気が付いてしまう。

(ああ、くそっ。こればっかりは考えてもどうにもならないだろうが。)

思わずそう、心の中で己を毒づいてしまった。

それもそのはず。

今、淋の頭を占めて悩ませている問題は、淋一人が考えこんでも結論など出ない問題なのだから。

それでも考え事をする時の癖で風呂場まで来てしまうほど、淋を悩ませている問題。

それは。

『あ、あのリン・・・んっ』

「っっ!!」

行き成り脳内で再生された戸惑ったような甘い声に、ぎくっと淋は反応してしまった。

ざぱっと己の動揺の大きさを表すように大きくお湯が跳ねて、ものすごく居たたまれなくなる。

ややあって。

(・・・・何、やってんだ。俺。)

再び、淋は大きくため息をついた。

継いで口元を手で覆ったのは、無意識ではなかった。

数刻前、確かに葵の唇に触れたそれに。

(・・・・葵。)

名前を思い浮かべただけで、まっ先に思い出すのは顔いっぱいで笑う笑顔。

今年の四月に、突然未来から現れた少女は淋がそれまで接してきた女達とは一味も二味も違っていた。

最初は唐突な出来事に茫然自失という態で「みよしの」に籠もりきりだったが、今にして思えばあの時の葵は相当な落ち込みようだったのだろう。

何故なら、一度神器を手にして裏紋退治をして以降の葵はみるみる内に明るく笑うようになったからだ。

素人なのに突然舞台に上がれと言われたり、演舞をさせされたりと結構な無茶を要求されても、困って首をかしげるのはほんの一時のことで、こうと決めたら一直線に頑張っていく。

そんな葵を、少し呆れながらも淋は嫌いじゃないと思っていた。

最初こそ、所作はがさつだし、慎みに関しては目も当てられないと思っていたが、稽古を付けていると淋の厳しい言葉にも全くめげないのが面白くなった。

それこそめげないどころか、気に障ったところがあれば、物怖じせずに噛みついてくるのも。

喧嘩腰で話していると、葵はいつもくるくるとよそ見ばかりしているその大きな瞳を淋だけに真っ直ぐ向けて言い返してくる。

・・・・それが、そこはかとない優越感につながったのはいつからか。

あんまりいつも喧嘩ばかりしているから、たまには笑わせてみたいと横浜見物に誘った頃には、自分の気持ちの奥底に、今まではなかった何かがあることに気づき始めていた。

けれど ―― それは淋自身が考えていたより、もっとずっと大きく強くなっていたらしい。

そして、爆ぜた。

「・・・・あそこまでするつもりなんてなかった。」

反響すらしないほど、小さく呟かれた言葉が、まさしく淋の本心だった。

あそこまで、とは、空を狙う平田の侍どもに襲われる前・・・・葵に口付けた事。

成り行きで銀の里が近づくにつれ、気持ちが不安定になっていた。

それを心配して様子を見に来てくれた葵に、結の話をしたのは純粋に、自分とは考え方が大分違う葵に聞いてみたかったからだ。

彼女が結を、無残に命を奪われた姉をどう思うかを。

(そうしたらあいつが・・・・あんな泣きそうな顔して)

そう、あの時、葵自身は気が付いていなかっただろうが、淋の話を聞いているうちに、葵は今にも泣きそうに顔をゆがめていた。

それはきっと、淋の心の奥底にずっと沈んでいる悲しみに同調してくれたのだろう。

けれど、葵が口にしたのは安易な慰めではなかった。

『・・・・それはユイさん自身にしかわからないよ。』

姉は幸せだったのか、何度も自分にくり返していた問いにたいして、葵はそう言った。

それは荒銀結の一生に起きた事象を客観的に見て、不幸だったとしか考えられなかった淋達とは違う視点だった。

どんなに不幸な終わりだろうと、どんなに辛い事があっただろうと思えても、それでも幸せだったこともあったはずだ。

そう葵が言い切った時、頭の中が真っ白になった。











―― 好きだ、と。

このとんでもなく真っ直ぐで強い少女が欲しい、と。

それはもう、爆ぜたとしか言いようのない衝動だった。











・・・・ぱしゃん。

ふと、あの時の衝動が胸の内に燻ったような気がして、淋は湯の中で己の胸に拳を当てた。

さすがに今はもう、あの瞬間のような荒れ狂う感情はない。

でも、そこには確かにはっきりと形を持った一つの感情が息づいている。

(結局俺は、思ったよりずっとあいつに・・・・惚れてたんだな。)

毛色の変わった面白い奴だ、とは思っていた。

慎ましやかでなくても、明るく目一杯笑うところは悪くないとも。

でも、あの瞬間に弾けた感情の強さを思い出せば、もうずっと前から葵に惹かれていたんだと言わざるを得ない。

(どうりでケンスケにからかわれたり、諏訪さんに意味ありげに笑われたりするわけだ。)

葵座の中でも人生経験豊富な年長組の余り気分がいいとは言えない態度を思い出して、淋ははあ、とため息を落とした。

淋とて忍びの端くれだから、それほど人に感情を読ませたりはしないが、あの二人にかかれば芽生えかけの恋心など簡単に見抜かれてしまっただろう。

それはそれで頭が痛いが、それはもうしかたがない。

ついでに言うなら、思ったよりも無自覚な間に育ってしまった葵への恋心も自覚してしまった以上、受け入れるしかない。

―― だが、しかし、そこで大問題が一つ。

「・・・・俺、まだ何も言ってないぞ・・・・」

そう、葵に口付ける瞬間まで淋の中で葵への想いが明確になっていなかったし、口付けた直後に平田の侍に襲われてしまったので、つまるところ、まだ淋は想いを葵に告げていないのだ。

このままでは突発的に口付けした、という事実だけが葵に受け止められてしまう。

「っ!それじゃまるでケンスケみたいじゃないかっ!」

おいおい、失礼な事言うなよ・・・・と、不名誉な例えられ方をした座長が聞いたら苦笑しそうだ。

しかし淋としては至って真面目に、頭を抱える。

(違う!俺は、あまり自覚はなかったが、アオイがっ!)

好き、だから。

その言葉を思うかべた途端に、かあっと頭に血が上る。

「ああああ、くそっっ!」

顔の熱を誤魔化すように乱暴に前髪をかき上げようとすれば、風呂桶のお湯がばしゃばしゃと跳ねた。

それがなんだか湯にまで笑われているような気がして、淋は顔をしかめる。

(しかたないだろっ!?今日の今日まで、あいつは俺にとっては仲間で、ちょっとやそっとじゃへこたれない喧嘩相手で、す、好きだなんて言う予定は全然なかったはずなんだからなっ!)

誰に対して言い訳しているのか。

心の中で叫んだ直後、どっと疲れが押し寄せてきて淋はぐったりと風呂桶に背をもたせかける。

そして少し気持ちが落ち着けば、再び蘇ってくるのは・・・・触れた葵の姿。

(・・・・やっぱり、女なんだな。)

身長は対して変わらないはずだが、抱きしめた肩は淋のそれよりずっと華奢だった。

焦点がぶれるほど近くで見た葵の顔は、苦しげに眉が寄せられていてもどこか艶があって、可愛くて・・・・。

(また・・・・)

―― ぴしゃんっ

「っっっ!!!」

見たい、とどこか麻痺した頭が思い描いた刹那、額に落ちてきた水滴に一気に正気に引き戻される。

(な、な、何考えてるっ!)

また見たいも何も、あの後、襲撃やら空の事やらがあって何となく有耶無耶になってしまって、葵とまともに話さえしていないのだ。

だから結局のところ、葵が口づけの事をどう思っているのかもわからない。

(嫌がって、たか?)

苦しそうにしていたのと、戸惑っていたのは伝わってきたが、結局強くは拒否されなかった。

とはいえ、葵は生来優しい質だから、明らかに気持ちが弱っているところを見せてしまった淋に対して強く拒絶できなかったと考えられなくもない。

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

そう考えると複雑な気持ちになる。

結局の所、同情では嫌なのだ。

好きだと自覚してしまった瞬間から、欲しいのは葵の気持ち。

だから。

(・・・・言うしかないよな。)

気持ちを入れ替えるように、淋は湯で顔を洗う。

それだけで、なんだか混乱していた頭の中が、やっと落ち着いた気がした。

(まあ、すぐにどうこうできるかわからないけどな。)

まずは、とにかく葵とちゃんと話すこと。

そして、あの時言い忘れてしまった言葉を ―― 「ありがとう」と「好きだ」を、彼女に伝えること。

どちらかというと堅物に近い自分がすらすらと言えるかどうかはともかく、なんとかやるしかないな、と決めて淋は大きく息を吐いた。

―― ぴちょん、ぽたん。

やっとある程度、気持ちが落ち着いたおかげか、水滴の音が心地よく耳に響く。

「そういや、最初にあいつと会ったのも風呂だったよな。」

ふと、そんな事を思いだして淋はくすりと笑った。

あの時も、のんびり風呂でくつろいでいたら唐突に引き戸が開いて ――

―― がらがらっ!

「!?」

まるで回想の再現のように、何とはなしに見ていた目の前の風呂の引き戸が開いた。

そして ――










「ま、また・・・・!?リン、さっきからずっとお風呂に入ってたの!?」

「う、うるさい!お前はホント、学習しない奴だな!」










―― 大混乱に陥った風呂場で真っ赤に染まった二人の頬が、最初とは違う感情がそこにあることを教えている事に、当の本人達が気が付くのは、もう少し先のお話し。
















                                          〜 終 〜
















― あとがき ―
平田での風呂遭遇イベントを見ながら、「リンがこの風呂の中で考えてたのって絶対昼間のキスの事だよね〜」と
妄想したことから出来たお話です。いや、だって絶対そうですよね!?(笑)