触れたい時に触れられない ―― それがどういう意味か、多分、わかってなかった。 指先が届かない 「ダメですよ。」 すっと手の前に差し出された扇にこつんと指先が当たって、はっとした。 見ればいつの間にか無意識の伸ばしていた手と、その先に紫色の見慣れた扇。 そして。 「あんたに触れられちゃ、唯人のあたしなんかあっという間に気を失っちまいますからね。」 いつもと変わらぬ笑みを浮かべる宝船の顔が目に入った途端、急に流れ込むように日光の門前町の喧騒が耳に入ってきた。 (あ・・・・) そうだった、と葵は自分でも我に返る。 葵の生まれた140年後の世界とは違うが、明治に置いても日光は有名な観光地であり、門前町ともなれば人の往来もひっきりなしなのだ。 そんな中で突然人が倒れたりしたら大事になってしまう。 そして今の葵は、そう言う事態を引き起こしてしまいかねない存在なのだ。 それを葵自身に思い知らせるように、伸ばした右手の手首で一葉の形をした透明の石・・・・双葉葵が僅かに揺れた。 神器と呼ばれるこの石を付けている事で、葵は今、神器そのものと同じ効果を発揮してしまう身体になっている。 つまり、同じ神器を宿している人でないと、触れられると激しい苦痛を与えてしまうのだ。 相当の精神修行を積んでいれば耐えられない事もないらしいが、残念ながら宝船はそれには当たらず、かつて気を失わせてしまった過去があった。 「ごめん・・・・。」 危うく同じ事をしてしまうところだった、としゅんとした葵を見て、宝船は少し困ったように眉を寄せる。 「ああ、そんな顔をしないでくださいな。あんたが呼び止めてくれたのは、嬉しかったですから。」 滑らかに出てくるフォローの言葉はいつも通り耳に優しい。 けれど。 「ほんと?」 宝船を見上げて思わずそう問うた葵の視線から、宝船はさりげなく視線を外した。 「はい。もちろん。」 言葉だけは淀みない。 しかしそれは葵の胸には届かなかった。 あの夜の、あの言葉のようには。 『葵・・・・あんたが好きですよ。』 福澤に呼ばれて参加したパーティーの帰り道、月明かりの中でそう言った宝船は真っ直ぐに葵を見ていた。 三遊亭宝船の嘘偽りない気持ちだと言って告げられた言葉は確かに葵の胸を打ったのに。 『一時の夢と忘れて下さいな』 同じ口から告げられた言葉は、あの夜から葵を惑わせるばかりだ。 (・・・・忘れられるわけ、ないのに。) 宝船を好きだったのかと問われれば、葵にははっきりそうだとは答えられない。 けれど、仲間としては好きだし、ホームシックになりかかった時に励ましてくれた彼を信頼する気持ちだってあったのだ。 それになにより、時折、そこの見えない顔を見せるつかず離れずなこの噺家の真意が葵には気になりだしていた。 その矢先のあの言葉だ。 ある意味では初めて覗かせた宝船の心の欠片に触れて、もっともっとと求める気持ちは膨らんできているというのに、目の前の人は切なげな目をして忘れろと言う。 そしてそれきり、必要な時以外顔を出さなくなってしまった。 宝船の真意も、自分の心も、迷ったままただ彼の事が気になって、厳しい稽古の合間にふらりと街へ出てはその姿を探していたのだ。 そして、ついさっき、人混みの中をゆく探していた姿を見つけて、手を伸ばして・・・・。 ちくりちくりと胸を刺す痛みに、葵は届かなかった手をぎゅっと握った。 自然と沈む心に比例するように目線も下がってしまう。 だから、葵は気が付かなかった。 ぎゅっと手を引き寄せて俯いてしまった葵に・・・・ほんの一瞬、宝船が苦しそうに顔をゆがめて手を動かしかけた事に。 そして、その手を自分もまた葵を同じ様に強く握って押しとどめた事に。 「・・・・それはそうと、葵さん。稽古は順調なんですか?」 一転、明るい口調の声でそう聞かれて、葵ははっと顔を上げた。 その目に映るのは、相変わらずの宝船の笑顔だけだったけれど。 「あ、うん。」 「そりゃあ良かった。ここのところあたしはちっとばかし忙しくてお邪魔できませんでしたからねえ。」 今までと変わらぬ調子の他愛もない事を言いながら肩を竦める宝船に、葵はほっとしたような、けれどやはり何かを掴み損ねたような割り切れぬ気分を持てあましたまま、それでも何とか笑った。 「そうだね。でもホウセンさん、私が主演をやるって聞いた時にすごく喜んでくれたから、ホウセンさんに教えてもらったことを忘れないように稽古してるよ。」 相変わらずリンはすごく厳しいんだよね〜、と苦笑した葵に「そうでしょうねえ」と宝船も笑った。 「あんたがそんなに頑張ってるんなら、舞台は期待できますね。」 「うん!頑張るから・・・・」 必ず見に来てね、と口にしようとしてその言葉が喉に詰まった。 ここでそう言ったら「はい。必ず行きますよ。」と返事をして、宝船は去ってしまうと容易に想像が付いたから。 何を言いたいのか、何を確かめたいのかもわからないけれど、ただとにかく宝船と話がしたくて、なんとか引き延ばせる口実を捜すけれど、得てしてこういう時に限って良い考えなど浮かばない。 そうこうしている内に、宝船は愛用の扇を懐へしまうと、とうとう葵が避けようとしていた言葉を言った。 「舞台、必ず見に行きますから。それじゃあ、あたしはこれで。」 「あ・・・・」 なんてことなくそう告げて、宝船がくるりと葵に背を向ける。 その背に、葵は無意識に手を伸ばして ――― ざわざわと、門前町の賑わいが変わらず聞こえる。 その中へと去っていった宝船の背中はもうとうに見えなくなっていた。 けれど、さっき宝船と離した場所から動けずに葵は半端に伸ばした掌に目を落とす。 ―― 手を伸ばしたかった。掴んで引き留めたかった。 (もし、そうできたなら・・・・ホウセンさんは一夜の夢にしろなんて言わなかったかな。) いくら目の前にいても、言葉を交わしても、触れられないなら存在を確かめることはできない。 それが・・・・こんなにも切ない想いを抱かせるのだと、初めて知った。 言葉にならない気持ちも、見えない宝船の真意も、触れたらもっと届きそうな気がするのに。 「・・・・ホウセンさん。」 ぽつり、と呟かれた葵の想いの欠片は切なく零れて、門前町の喧騒の中へと消えていった。 〜 終 〜 |