気まぐれな梅雨の空がふいに雲を晴らしたある日の話。 朝食を食べに行こうとしていた淋は宿の廊下から、久しぶりの青空を見上げた。 「晴れた、か。」 ここ数日雨空ばかりで見ていなかった青空は、朝の光に照らされて目に眩しい。 足を止め、晴れた空を見上げた淋の脳裏に、ふと蘇ったのは昨日の夜の会話だった。 梅雨の晴れ間に君の笑顔を 「あ〜!おれっちもう耐えらんねえ!」 もう限界とばかりのの陽太の叫びに、夕食後大部屋で好き勝手過ごしていた葵座の面々は何事かと顔を上げた。 「うるさいぞ、蜂須賀。」 「だあってよぉ〜」 「耐えらんねえ、とは穏やかじゃないねえ。どうかしたか?ハチ。」 鬼格に叱られて口を尖らせた陽太は、剣助にそう聞かれてぱっと顔を輝かせた。 その子犬を思わせる反応に淋は軽く呆れる。 「単純な奴。」 「何か言ったか?おリン?」 「・・・・話がややこしくなるから、言いたい事があるならさっさと言え。」 「む〜、なんか引っかかるけど・・・・まいーや。それよりみんなは平気なのかよ!?」 「何が?」 「何って、この雨だよ!雨!」 なんでわからねえんだ、とばかりの陽太の台詞に全員が「あー・・・・」と曖昧な反応を返してしまった。 銀座の興行を終えて横浜へ入ってからこちら、うんざりするぐらい毎日雨が続いている。 横浜ではさほど興行経験がないから、まずは街頭公演をと考えているらしい剣助の「しばらく休み」という言葉に従って休業中ではあるのだが、毎日毎日雨で宿から出ることも出来ない状況では、陽太でなくてもそろそろ嫌になってくるというものだ。 ごろ寝暮らし大歓迎を豪語している七巳でさえ、煙管の煙をふうっと吐き出して。 「まあ、陽太の気持ちもわからないではないな。」 と呟くほどだ。 「そうですよね!親分!」 七巳を慕う陽太が尻尾を振るわんこよろしく目を輝かせるのを横目に、淋はめくっていた本を閉じて軽く睨み付けた。 「雨続きなのは誰にとってもしょうがない事だろうが。これぐらいで文句を言うな。」 「だってよ〜、おリンだって毎日暇そうにしてんじゃねえか。」 「時間があるならあるでやるべき事があるだろう。」 「そうは言うけどさ。それに姫さんだって・・・・」 「あいつ?」 陽太の出した「姫さん」の言葉に、全員が多かれ少なかれ反応をする。 陽太が「姫さん」と呼ぶのは唯一人、今年の春唐突に一人の女の子に姿を変えた双葉葵こと、水戸葵だからだ。 現在、葵座で一人だけ神器を使える使い手であり、本来葵座が護ってきた双葉葵の化身と思われることからいつの間にか葵座の中心になりつつある少女の事は、皆がそれぞれの思いを持って接していた。 分かりやすいのは鬼格で、葵を双葉葵の化身と認めてからは下へも置かぬお姫様扱い。 あまりの変わりように当初は葵本人もうろたえた程だ。 陽太もまた単純に元気で可愛い葵が側に居るのが嬉しいのか、何かに付け葵の事を気にかけている。 剣助や七巳は表向きは面白がって構っているように見えるが、その実何か思うところがあるらしい。 そして淋本人はというと・・・・これがなんとも複雑としか言いようがなかった。 (百四十年後の世から来たんだかなんだか知らないが、淑やかさは欠片もないし、気は強いし、不作法だし。) 銀座公演の時に稽古を付けた身としては葵の難のある点を数え上げればきりがなかった。 そもそも出会いからして、淋の入っていた風呂に入ってきて謝罪の一言もなしに出て行った、というけして好印象を持てるようなものではなかった。 だからあまり好きになれない・・・・と思ってもおかしくないはずなのに。 「あいつが・・・・どうかしたのか?」 気が付けば淋の口からそんな言葉が滑り出していた。 言った途端 (な、何を聞いてるんだ俺は。) と焦ったものの、幸いにして陽太はそんな淋には気が付かなかったらしい。 「どうかっていうかさ、ここんとこ雨で姫さんもすっかりしおれちまってるじゃねえか。」 言いながら葵の顔でも思い浮かべたのか、自分も眉をハの字にする陽太に、周りにいた面々が同意するように頷いた。 「・・・ふう〜・・・・・・・確かにここ数日の菩薩殿の顔は冴えないねえ。」 「だな。双葉葵ちゃんもわかりやすいっちゃわかりやすいが。」 「だろ〜?姫さんが笑ってねえとおれっちも張り合いがねえよ。」 はあ、と陽太らしくないため息をつく様に剣助と七巳は苦笑し、鬼格が眉を寄せる。 「だらしがないぞ、ハチスカ!」 「じゃあキカクは姫さんが暗い顔しててもいいのかよ?」 「うっ・・・・それは・・・・」 「はい、キカク。お前の負け。」 「ケンスケ!!」 「ま、俺も陽太に同感だねえ。菩薩殿は笑っていたほうがいい。」 「そうっすよね!親分!」 珍しく年長組の支持を取り付けて、陽太が大きく胸を張った。 その様に苦い表情をしたものの、鬼格は諦めるようにため息をついて。 「・・・・まあ、一理あるな。」 「寿さん!?」 陽太や剣助達の言い分を認めるような言いぶりに淋は目を丸くする。 そんな淋に鬼格は大真面目に言った。 「姫の笑顔は百の太陽にもまさるからな。」 「へえ・・・・」 「・・・・ふう〜・・・・・・・寿にしちゃ情熱的だねえ。」 「なっ!諏訪!からかうな!」 ニヤニヤ笑って七巳の言った言葉に鬼格が赤くなって反論する横で、陽太もまじめくさって頷く。 「や、でも親分。確かに姫さんが笑ってないと曇り空もますます暗いっすよ。」 「まあ、女の子は笑ってる方がいいからな。」 「菩薩殿は実に素直に笑うからな。」 珍しく七巳が柔らかい表情で目を細める。 葵の笑顔を思い出しているだろうとわかるその顔に、各々が自分の頭の中にある葵の笑顔を引き出している中・・・・淋だけは、微妙に顔をしかめた。 「?おリン?どうかしたのかよ?」 その違和感のある顔に気が付いたのか、首をかしげてきた陽太に何と答えようか一瞬迷ったものの、淋はぽつっと言った。 「俺は・・・・あいつの怒ってる顔をよく見てる気がする。」 そうなのだ。 今、皆が一様に葵の笑顔を思い出したのにつられるように同じく葵を思い浮かべた淋だったが、浮かんだのは何故か怒った葵の顔だった。 葵は総じて良く笑うのでまったく笑顔を見たことが無いとかそういうわけではないが、ぱっと思い浮かんだのがそれだったという事実に淋はちょっと戸惑った。 しかし淋の言葉を聞いた他の面々は、さも納得と言わんばかりに頷いたのだ。 「おリンはしょっちゅう姫さんと喧嘩してるからな〜。」 「なっ!別に俺は喧嘩したくてしてるわけじゃない!」 まるで喧嘩をふっかけているように言うな!と言い返したものの、心のどこかで否定できない自分がいた。 (確かにアオイとはしょっちゅう言い合いをしてるが・・・・) 「でも、してるだろ。言い合い。」 「っ!」 七巳に追い打ちをかけられ思わず淋は言葉に詰まる。 なんだかんだで言われた通り、歯に衣着せずズバズバ物を言う淋に対して葵が反論している姿はもはや葵座では日常茶飯事だ。 (・・・・俺はそんなにあいつと喧嘩ばかりしているか・・・・?) 咄嗟に思い出せる顔は怒った顔ばかり。 周りから見ても明らかなほど言い合いばかりしている。 そんな客観的事実を突きつけられて、俄に淋の胸中がざわざわと落ち着かなくなる。 そしてそんな自分にまたさらに動揺した。 (な、何を考えてるんだ、俺は!別にアオイと仲が良かろうが悪かろうがたいしたことなんかじゃ・・・・) ない、と思い切ろうとしても思い切れない。 別に何か形のある気持ちがあるわけでもないのに、自分以外のみんなと葵の関係と、自分と葵との関係の差が妙に気になって落ち着かない。 (どうだって構わないだろうが!俺にはあいつのご機嫌をとらなくちゃいけない理由なんて無い!) なんとかあふれ出てくる焦燥感とわけのわからない不快感をそこに押し込んで淋が反論しようとしたその時、ぱんぱん、と軽く剣助が手を叩いた。 「ほらほら、もうその辺にしとけって。どうせ天気相手じゃ俺達の出る幕はないし。ハチも気持ちはわかるが、ま、せいぜい双葉葵ちゃんが退屈しないように話相手にでもなってやんな。」 話は終わり、と仕切る剣助の言葉に皆は一様に頷いて、また各々の暇つぶしに戻っていく。 そんな中、淋だけが釈然としない気持ちを抱いたまま、大きくため息を吐いたのだった。 回想を終え、なんとはなしに、淋は自分の胸に軽く手を当てた。 昨日の会話の時のように、表にでているわけではないけれど、昨日感じたあの焦燥感と不快感は胸の奥底に沈んでいるのがなんとなくわかる。 (・・・・例えば) 例えば久しぶりに気持ちよく晴れたこんな日に、街の見物にでも誘い出したら・・・・葵は笑うだろうか。 (あいつは単純だからな。) ずっと宿に閉じ込められて鬱屈としてたなら、晴れただけでも気分が明るくなっているに違いない。 加えて見慣れない場所ならきっと単純に喜ぶだろう。 そうしたら ―― いつも喧嘩ばかりの自分が相手でも、茂丹や他のみんなに笑いかけるように、笑顔を見せるかもしれない。 (・・・・悪くはない、よな。) 一瞬、そんな場面を想像してみたら、すっと胸の奥にあった淀んだ気持ちが晴れた気がした。 普段言い合う事が多いとはいえ、葵と話すのは嫌いじゃない。 だから。 (だから・・・・それだけだからな!) ―― 別にアオイの笑顔が見たいとか、そんなんじゃないからな! 心の中で誰に向かってかそんな言い訳をして。 淋は再び歩き出した。 (どうせあいつは寝坊してくるだろうから、朝飯を食ったら起こしに行ってやろう。それから晴れたから出かけるって言えばいい。ついでに一緒に来るか、でいいか。モニも連れてくから変なところはないだろう。それから・・・・) そうと決めたら思いの外どんどんと考えが浮かんでくる。 そんな自分に、まだ少し戸惑いながら ―― それでも久しぶりの梅雨の晴れ間は、自分の気持ちも晴らしてくれそうだ、と淋は小さく笑った。 〜 終 〜 |