天上の女神、地上の恋人
夜空にぽっかり、月が浮かんでいる。 夏の賑やかな星空ではなく、かといって冬の透き通った夜空でもない、どこか深い海の底のような秋の空に。 薄い雲が時折、月の光を透かし通り過ぎていく様は水底から見上げた水泡のようだ。 頬を撫でる風はまだ夏の暑さを残している昼間とはうってかわって涼やかに吹き抜ける。 気が付けば、蝉の声も秋の虫の音に取って代わられ、「みよしの」の小さな庭から聞こえてくる音もまた、眠気を誘いそうなほど密やかな虫たちの声だ。 それが生命に満ちあふれた夏の終わりと思えば、微かに寂しさを感じるかも知れない。 (・・・・でも、こんな夜は嫌いじゃなかったんだよな。) ぼんやりと月を見上げながら剣助はそう思った。 それは多分、まだ生まれてそれほどたたないうちからそうだったような気がする。 剣助は双葉葵と共に生まれた徳川の家紋の力をもつ神器だ。 つい最近まで剣助は家紋の神器の寿命は、その家次第だと思っていた。 家が廃れれば、そこに属する人間を護るはずの神器は役目を喪う。 故に滅びていくのだ、と。 実際に剣助が見た他の神器はほぼその道を辿ったはずだ。 だから、剣助自身が例外的に人の体を持つことになったとはいえ、いつ如何なる時滅びてもおかしくないと思っていたのかも知れない。 夏の盛りから、生き物が息を潜める冬への境目。 黄昏時のような、この秋口の静けさが一番心地良いと思っていた。 ・・・・まあ、実際には徳川は剣助が思っていた以上に長い間繁栄し、剣助もまた随分長く生きたが。 もっとも長く生きた事も、剣助にとっては悪い事ではなかった。 自分とは違う、人間という存在。 己を生み出したと言っても過言ではないその存在の事を、剣助は好きだった。 悪い所や弱いところを持っているのに、同じように強さや優しさをもっていて、辛い事を泣いて乗り越えたり、楽しいことを笑って分かち合ったりする。 「物」として存在がはじまっている剣助にとってはその全てが驚くような事だった。 だから初期の頃の葵座では随分と皆に不思議がられたものだ。 それから幾代もかけて、剣助は人に近づいた。 人の喜び、人の悲しみ、人の怒り・・・・万華鏡のようにめまぐるしい人の感情を少しずつ学んでいった。 それでも、もう誰も剣助の行動や性格を不思議がらなくなっても、剣助は自分を「人間」ではないと思っていた。 人間を真似している「物」であって、自分は人間ではない、と。 まさかそれが ―― 「・・・・423年後に覆るなんて、思っちゃいなかったよなあ。」 どこか己を笑うように、剣助が呟いた途端。 「え?何?スケさん。」 ぴょこっと、月と剣助の間に漆黒の髪を揺らして葵の顔が入り込んだ。 真横から、かなり近い位置に。 それもそのはず、今、剣助がいるのは葵の膝の上・・・・要するに、膝枕というやつだからだ。 葵の顔が見えた途端、頭の下の彼女の体温がとても心地よく感じられてふわり、と胸のあたりが暖かくなる。 (これだよ、) こらえきれなくなって、くくっと笑みを零すと、葵が不思議そうに覗き込んでくる。 「何?」 「いや?葵とお月さん両方同時に拝めるなんて、極楽だなって思ってただけだぜ。」 「??何それ。」 きょとんっとするのは初なせいか、もともとの性格のせいか。 (・・・・多分、性格だろうな。) なんとなくこれまで数々の葵の行動を振り返るに、そうであろうと結論づけて、剣助は気持ちを切り替えるように手を葵の髪へと伸ばした。 柔らかい仕草で耳の横に垂らした髪を絡めれば、月明かりに照らされた頬がうっすらと色づく。 「なあ、知ってるか?」 「うん?」 「月には何がいるか。」 剣助の問いかけに、葵は小さく首を傾げて月を見上げる。 その仕草は子どもっぽく感じるのに、月明かりに照らされた顔はどきりとするほど大人びて見えた。 しかしややあって、再び剣助に視線を戻した葵が言ったのは。 「餅つきしてるうさぎ?」 「ぶっ!」 思わず剣助が吹き出すと、葵がふくれる。 「なっ!笑わなくても!!」 「や、可愛いけどな?でも色気はないねえ。」 「なくて結構です!!」 「まあまあ、そんなに怒らないでくれよ。」 ぷいっと横に顔を逸らしてしまった葵の頬をなだめるように指の背で撫でる。 まあ、実のところこんな風に触るのは剣助の気に入りの一つだったりするのだが。 こうして触れると葵の暖かさや柔らかさが直に伝わってきて、何とも言えない気分になるから。 強いて言えば、嬉しい、に近いようなそんな気持ちに。 それ故に、自然と頬が緩んでいたのだろう。 剣助の仕草に促されるように視線を戻した葵は、拗ねたように「まだ笑ってる」と抗議してきた。 「どうして笑ってるかは、また後でゆっくり説明してやる事にして、さっきの話しな。」 「・・・・月に何がいるかって?」 「そうそう。月には、嫦娥って女がいるんだよ。」 「え?」 葵が目をくりっと見開いた。 どうやらさっきの餅つきうさぎ発言もぼけていたわけではなく、知らなかったらしい。 「古いお話の一つだよ。嫦娥って女が美しさを保ちたいあまりに不死の薬を盗んで飲んだ後、月に上って、それきり下りてこられなくなったんだとさ。」 「かぐや姫の話?」 「いや、あの話しは一応姫は故郷に帰るわけだろ?嫦娥は月に一人なんだ。」 剣助の言葉に、葵は少し考えるようにした後、静かに眉を寄せた。 「・・・・それって、なんだか悲しい話だね。」 「お前ならそう言うだろうと思った。」 予想通りの答えに、剣助は満足げに笑う。 そしてその後、静かに視線を月へと流した。 「でも、俺は初めてその話しを聞いた後から、時々、月を見上げて呑むようになった。」 「嫦娥と、宴会?」 「ま、そんなとこかな。どこか似てるだろ?ずっと月で一人でいる嫦娥と、ずっと人の世の狭間を漂っている俺と。」 寂しいと思った事はそれほどない。 でも時々、同じようにどこにも寄る辺なく川のように流れている時間にさえ取り残されている存在を思い出したくなった時に、酒瓶片手に月を仰いだものだった。 (ああ、だからかな。) 秋が嫌いじゃないと思うのは。 夜空に輝く月が、一番幻想的に見える季節だから。 ・・・・と、その時。 ぽすん、と目の前が暗闇になった。 ただ暗闇といっても、完全に目がふさがれたわけではなくて。 「・・・・葵?」 自分の目の上に置かれた手の主を呼んだのは、どかしてくれという意図よりも、その小さな手の隙間から見えた彼女の表情が気になったからだ。 いつもの快活で感情まるわかりな葵にしては珍しく、ひどく複雑な顔が。 「どうした?」 「・・・・なんでもない。」 「それが何でもないって顔か?」 「う〜〜〜・・・・」 嘘をつき慣れていない葵は、いともあっさり剣助の言葉に呻いた。 その顔がなんとも可愛らしくて、また頬が緩みそうになったけれど、ここは堪えどころと我慢する。 423年の長い間、人生経験を積んできた剣助には、そのうめき声とうっすらと赤く染まった複雑な表情だけで答えになっているようなものだけれど。 でも、葵の口から聞きたい。 まだまだ恋愛に関しては奥手で、恥ずかしがってなかなか聞かせてくれない言葉を。 そう思う己の心が、浮き足立っているのを感じて剣助は心の中で苦笑した。 ―― 人と共に生き、人を学んでも、自分は「物」なのだと思っていた。 「・・・・ちょっとだけ」 観念したように葵が口を開く。 その声に、柔らかに鼓動が跳ねた。 ―― きっとこのまま「物」で終わるのだと、人のような感情を持つことなどないと思っていたのに。 いつの間にか、目の上にかざされていた手は外されて、月明かりに浮かぶ葵の顔だけが目にはいる。 剣助が積み上げた自分という存在の定義を、全部ひっくり返してしまった唯一の少女が。 「・・・・月にやきもち、やいただけ。」 ―― 月と杯を酌み交わす秋の夜も嫌いじゃなかった。 静かな虫の音と、自分と月だけ、そんな水底のような密やかな世界も居心地はよかった。 でも。 「・・・・アオイ。」 「またどうせ子どもっぽいって思ってるでしょ?」 「いや?全然?」 堪えきれなくなった笑みをそのままに、剣助は葵の頭に手を伸ばす。 触れた髪は、頭は、嬉しくなるほど剣助にぴったりで。 「今は、もう一人で月見はしないよ。」 引き寄せられて戸惑ったような顔を見せる葵に、剣助はそう囁く。 「・・・・ほんとに?」 どこか不安そうに眉を寄せるその仕草に剣助は頷いて。 唇が触れる直前、どうか伝われと願いを込めて、そっと告げた。 「今は、俺を振り回してくれる俺だけの地上の菩薩殿で手一杯だから、さ。」 ―― 月と杯を酌み交わす秋の夜も嫌いじゃなかった・・・・でも。 (こんなに愛しい秋は初めてだ。) 〜 終 〜 |