舞台の上で艶やかな一人の娘が舞っている。 地方の鳴らす三味線と謡いに合わせて、というよりはまるで娘が舞うその光景を音が追いかけずにはいられなかったかのように、それは一人の役者のための舞台だった。 袂を返す所作につられ観客は否応なしに視線を惹き付けられていく。 打ち掛けの裾一つ乱さぬまま、くるりくるりと回ってみせるその様は今まさに女盛りの白拍子が舞っているという瑞々しい印象を深く刻みつけられる。 美しく気高く、それでいて妖艶・・・・そんな役所を舞台上の舞手は見事に演じて見せていた。 女形は本物の女性以上に女らしい。 そんな話を聞いた事はあったけれど・・・・。 「・・・・うわぁ・・・・」 ―― 今初めて、葵はその意味を実感していた。 女形の恋人の苦悩と葛藤 ―― 明治も開けて早二桁を前にした東京の片隅で芝居をかける葵座は知る人ぞ知る面白一座だ。 芝居、演舞、手妻、舞踊なんでもござれというさながらなんでも屋のような舞台をかけながらも、それぞれの演目でけして中途半端なものを見せることはない。 もともと男所帯でなかなかの良い男揃いだったから、ご婦人方には人気もあったし、そんな風に色々な演目をやる一座だったからそれなりの常連も多かったのだが、近年、女優が入った事でも評判になった。 巷で人気の噺家、三遊亭宝船の講談『葵座漫遊記』の痛快なお話しとも相まって、双葉葵の姫御前とはどんな娘や、と足を運ぶ人も増えているらしい。 もっとも、その女優が実は百四十年先の未来からやってきたという経歴を本当に持っていると知っている人はほとんどいないが。 そんなわけで、目下注目度花丸急上昇中の葵座の本日の演目は、歌舞伎舞踊。 舞台上で舞う美しい娘は、最近話題の葵座女優・・・・ではなく、葵座きっての男前女形、荒銀淋であった。 そして女優の方はというと。 「・・・・はあぁ・・・・」 現在、客席でぽかーんと口を開けて完全に舞台上の淋に見入っていた。 (なんか、すごい。) 当の淋に聞かれたなら、なんだその気の抜けた感想はと突っ込まれそうな呟きを心の中で呟いて、葵は小さく息を吐いた。 本日の演目では葵は出番がないため観客席で客の整理にあたっていたのだが、幕が開いて以降、あっという間に淋の舞に目を奪われた葵は、かろうじて邪魔にならない客席の一番後ろまできたものの、突っ立ったままほとんど役に立っていなかった。 しかしそれをあまり責めないでもらいたい。 というのも、なにせ初めてなのだ。 淋が女形として舞台に立つのを見るのは。 葵が明治の世にやってきてからやった舞台では当たり前のように女性役は葵に振られていたからだ。 そしてその当時、完全に素人だった葵に女性の演技を教えたのが淋だった。 確かにその時なんども、「俺は葵座きっての女形だ」と淋が言っていたのは聞いていたけれど。 (・・・・こんなにすごかったんだ。) そうため息をつかずにはいられなかった。 舞台上で鳴り物を手にして舞い始めた淋を見つめて、葵はため息をついた。 しな一つ、視線の一つ、一瞬一瞬の所作を流れるようにこなしていながら、そこには隙がまるで見あたらない。 ふわりと帯をなびかせて背を向けられてしまうと、今、『彼女』がどんな表情をしているのだろうか、と思わず追いたくなってしまうような気にさせられる。 そしてまた振り返り、顔を観客の方へ向けるそのタイミングと視線・・・・。 「・・・・色っぽい。」 まさにそれ。 しかしその色気にはある種の清廉さが含まれているのは、情念を胸に秘めた役だからだろう。 (これは・・・・怒られたわけだよね。) 明治の世に来て淋と出会ったばかりの頃、散々「女らしくない」「女の所作がわかってない」と叱られて喧嘩になったことを思い出して葵は苦笑してしまった。 確かにこれだけの『女』を表現できる淋にとっては、相当目に付いた事だろう。 もちろん、まさか日常生活からこんなハイレベルを求めてはいなかっただろうが。 (・・・・そう考えると、ほんとリンはよく私なんか好きになったよね。) 今更ながら思わずそんな事を考えてしまう。 これだけの演技が出来るのに、ただ性別が『女』だというだけで今まで自分が演じていたような役に葵が当てられるようになる、というだけだって結構癪に触りそうなものだ。 まあ、それに関してはかつて淋自身が「女がいれば普通に男の役をやるだろ」と言っていたからあまりこだわりはなかったのかもしれないが。 それにしても恋人(男)の方が断然色っぽいというのはどうだろう。 (自分の方が綺麗だし色っぽい、って思ったりしなかったのかな。) そう考えた所で、自分でもちょっとずしっときた。 もし本当に淋がそう思ったとしたら、と想像したらちょっと・・・・否、結構へこむ。 ふっと葵は視線を舞台上から自分の身体へ落とした。 いつもと変わらぬ矢絣袴姿の自分はよく言えば元気で可愛らしいと言えなくもないのだろうけれど、自分的には色気の「い」の字も感じられない。 万が一、今の淋の役所を振られて舞ったとしても、あんな色気を出すのはきっと不可能だ。 けれど、色っぽくはなれなくても少しでも好きな人に良く思って欲しいと願うのは恋する者の宿命のようなものだから。 (リンがそう言うのとは別のところで好きになってくれたと思うしかないよね。) 「・・・・はあ。」 やや情けない結論を出して、なんだかとても敗北感を感じて深いため息をついた、その時、わっと観客が盛り上がった。 はっとして顔を上げれば、ちょうど舞台上の淋の衣装早替えが行われたところで、白い打ち掛けに替わった淋が大きく袂を翻して白拍子から大蛇へと転じた娘を演じていた。 ここからはじょじょに地方の音楽も盛り上がって踊りもクライマックスにはいっていく。 そのさらに凄みを増した淋を気持ち遠い目で見つめてしまった、その時。 「こーら。何暗い顔してんだ?」 こつん、と軽く後頭部に拳を当てられた感覚に、葵はビックリして肩をすくめて振り返った。 見れば、いつの間に来たのか、剣助とついでに七巳まで葵の横に立っていた。 「スケさん、ナナミ。あれ、二人ともどうしたの?」 今回は出番がないからと同じく客席整理に当たっていたはずの二人に、葵はきょとんとしてそう問う。 それに対して剣助は軽く笑って言った。 「幕が開いちまえば客席なんて舞台にひかれちまうだろ。それより、俺としては」 と、そこで言葉を切った剣助はおもむろに葵のほっぺたに手を伸ばすとむにっと軽く潰した。 「!?何するの〜?」 「いやあ?元双葉葵ちゃんが冴えない顔してるからね。そっちが気になってきちまったよ。」 「え?」 意外な事を言われて目を丸くする葵に、横から七巳が面倒くさそうに付け足した。 「さっき。菩薩殿が舞台を見てたと思ったら急に俯いたりするから気になったんだと。」 まるで剣助に引っぱられてきたかのような言いぐさだったが、剣助が苦笑したところをみると、七巳も冴えない顔の葵を心配して来てくれたのだろう。 思いの外面倒見のいい二人の言葉に、ふわっと心の内が暖かくなって葵は少し笑った。 「えっと、ありがと。でもそんなに大したことじゃないよ?」 「うん?」 「・・・・・」 「本当に大したことじゃなくて・・・・その、ね。リンがあんまり・・・・えっと、色っぽいから、私、負けてるなあって思ったって言うか・・・・」 たどたどしく言葉を紡いで、なんとなく自ら情けなくなってへにょっと眉を下げてしまった。 冷静に考えたら自分でも馬鹿みたいと思うかもしれないが、淋が大好きだからこそそんな馬鹿みたいな事さえも気になってしまう。 自然と、はあ、とため息をついて「ね?たいしたことないでしょ?」と無理矢理作った苦笑いを浮かべて顔を上げた葵の目に映ったのは。 「・・・・・・」 「・・・・・・」 「・・・・ねえ、なんで二人とも笑いを堪えてるの?」 やや剣呑な口調になったのはしかたないだろう。 なにせ、人がちょっとばかり切なくなりながら告白したというのに、剣助と七巳ときたら二人揃って口元を押さえてあらぬ方向を向いて肩を振るわせていたのだから。 (笑わなくてもいいのに!) さすがにこれには少しばかり腹が立ってむうっと二人を睨み付ける葵に、剣助は「悪い悪い」と軽くてを振りながら言った。 「いや、なんていうか、リンも報われないって思って。」 「え?」 この展開でなんでそんな発言が出てくるんだろう?ときょとんとする葵に、今度は七巳がにやにや笑いながら頷く。 「ああ。親の心子知らずならぬ、男心恋人知らずだねえ。」 「???」 「実は、さ。」 訳が分からず首を捻る葵の頭をぽんぽんと撫でて剣助が言った。 「今回の演目、お前にやらせようって話もあったんだ。」 「え?私が?」 「そ。元双葉葵ちゃんは今やうちの花形だからね。アオイが舞った方がいいんじゃないかって最初は言ってたんだよ。」 「寿なんかは大乗り気だったしな。」 自分の知らぬ間にそんな話があったのか、と目を丸くした葵はすぐに「あれ?」と疑問を覚える。 「私にやらせようって話しがあったなら、なんで私が何も知らないうちにリンになったの?」 「そりゃもう、当のリンがお前を出すぐらいなら自分がやるって聞かなくてさ。」 「え・・・・」 剣助の言葉に、葵は軽く衝撃を受けた。 (私じゃ駄目ってリンが言ったって事だよね?) 確かに今回の演目を自分でやるのはかなり難しいと思いつつも、何も知らないうちに駄目だと思われたのはさすがに悲しい。 そう思ったのが丸ごと顔に出てしまっていたのだろう。 剣助と七巳は顔を見合わせて、意味ありげににやっと笑うと言った。 「そこが荒銀の報われないところだな。」 「え?」 「なあ、アオイ。最近、お前目当てで葵座の芝居を見に来る奴が増えてるって知ってたか?」 「へ!?」 思わぬ指摘に葵は目をまん丸くした。 「確かにお客さんは多いけど、それはみんなが格好いいからで・・・・」 そうだとばっかり思っていた事を口にすると、剣助も七巳も苦笑いで手を横に振った。 「菩薩殿はセンの講談でも有名になったしねえ。」 「本物を見て見ようって輩が実際にアオイを見て贔屓になった、なんて話が最近増えてるんだよ。」 「ええええ・・・・?」 (うそお?) 照れよりも先に驚きがきてしまった葵がぽかんっとしていると、剣助と七巳が重ねて言う。 「まあ、センの噺を聞いて妖怪変化をばったばったと成敗する姫御前とはどんな女だと思って来てみたら、実際には可愛らしい女の子がいるわけだ。」 「しかも元気で笑顔も可愛い、とくりゃ人気が出るのもわかるよな。葵座としては嬉しい限りだねえ。うちの看板女優が愛される、客も入る、良いことづくめだ。」 「だが、まあ・・・・」 と、そこで言葉を切って七巳は意味ありげに笑った。 「一人だけ気が気じゃない奴がいるわけだ。」 「気が気じゃない?」 それは葵が人気が出ると困るということだろうか。 一瞬頭が回らず疑問系で言った葵の言葉を受けて、七巳はおもむろに視線を ―― 舞台に向けた。 そこでは今も美しく苛烈な大蛇の娘を演じる目を奪われずにはいられない女形・・・・もとい、淋がいるわけで。 「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・え?」 最近、葵目当てで葵座の芝居を見に来る人がいるらしい。 そういう人が増えると淋が困るらしい。 その結果、今回の演目は淋がやると言い張ったらしい。 ―― それは、つまり。 「〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!?」 (ま、まさか!?) 方程式のように二人に与えられた内容を整理した葵の頭が導き出した答えに、葵は一気に顔が熱くなった。 いや、でも、まさか、と思いつつも、そうとしか思えない。 ついでに、淋に引き留められて明治の世に残った葵は、もう淋が意外と情熱的な考えや行動に走る事を知っている。 ゆえに、顔を赤くしてぱくぱくと口を開け閉めする葵に、剣助はにっこり笑って決定的な回答をくれたのだった。 「リンの奴、姫さんがやった方がいいって言い張るハチに、「これ以上あいつに悪い虫がついたらどうするんだっっ!!」って叫んでたんだぜ?」 「〜〜〜〜〜!!」 ぽんぽんぽんっと地方の鳴らす鼓に合わせてますます大蛇の娘の踊りは激しくなっていく。 袂を翻し、踊るその所作は見事なまでに美しい。 しかしその麗しい・・・・実は心配性のやきもちやきだの女形の恋人が終演後、どうすればいいだろうと赤い頬を押さえている事を観客達は知るよしもなかった。 〜 終 〜 |