江戸の庶民は意外と神様が好きだ。 その証拠に江戸の町には多種多様な神社があり、そこは江戸っ子達に愛されると同時に一種の観光名所にもなったものだ。 そんな神社の一つが上野は湯島にある。 天神を祀ったこの神社の高名さは時代が江戸から明治に変わろうとも変わる事はないらしく、天神の縁日にあたる今日もたいした人出だった。 「ほんとに賑やかなんだね。」 縁日で賑わう境内を歩きながら、水戸葵はほう、と感心したようにため息を一つついた。 昨年から身を寄せている葵座の活動拠点「みよしの」の人達に、湯島の天神様の賑わいについては聞いていたものの聞くと見るとは大違いとはよく言ったものだ。 うっかりすると背の小さい葵などは人に埋まってしまいそうになる。 (でも・・・・) 大丈夫、と葵が見上げた先には。 「姫、お疲れではないですか?」 さっきの葵のため息に反応したのか、頭一つ分人混みから飛び出した長身の青年が葵を見下ろしていた。 少し色素の薄めな髪が特徴的な青年、寿鬼格が。 この長身の鬼格が葵を護るように歩いてくれるから、混み合った殿舎にも無事に参ることができたのだが。 しかしその問いかけに、葵はむっと眉を寄せた。 「カクさん。」 「何でしょ・・・・あ」 首を捻って問いかけて、鬼格は自らの失言に気が付いたらしく、しまったという顔をする。 その顔があまりにもわかりやすく動揺しているものだから、葵は思わず吹き出してしまう。 「ひ、あ、葵。」 「ごめん、だって。」 途端に困った顔を向けられても葵の笑いは止まらなかった。 「カクさんってばほんとに困った顔するんだもん。」 普段は落ち着いているのに、と言外に含ませてそう言えば、鬼格はどこか落ち着かなさげに髪をかき上げて答えた。 「どうにもまだ慣れないんです。」 「結構長い間、姫って呼ばれてたもんね。」 くすくす笑いながら葵も頷いた。 考えてみれば、昨年の3月も末にこの明治の世に下りたって以来、鬼格はほぼずっと葵の事を「姫」と呼んでいた。 まあ、彼にしてみればそれまでの人生ずっと護り続けていた葵座の要石である双葉葵が人に転じた姿、という事で葵を「姫」扱いしていたのだが、元の世ではごく普通の女子高生だった葵にしてみれば随分とむず痒い思いをしたものだ。 でも、と葵は念を押すように鬼格を見上げる。 「今はもう姫じゃないんだからね?」 昨年の末、裏紋を己の力として手に入れようとしていた福澤諭吉との対決の最中、双葉葵は砕けてしまった。 本来であればそこで葵の役目は終わりで、騒動が収まった後は元の時代へ帰るだけだったのだが、結局葵はこの時代に残った。 それは何か役目があったからではなく、ただ・・・・鬼格の、好きな人の側にいたかったから。 ぎこちないながらも恋を育んでいた鬼格に引き留められ、その手を取って、二人は晴れて引き離されることのない恋人同士になったのだ。 だから、「姫」ではなく「葵」なのだ、と強調した葵に、鬼格は嬉しそうな、でもほんの少し情けないような微妙な表情を浮かべた。 そしてすぐに片手で口元を覆って目をそらせてしまう。 その行動を不思議に思って葵は首をかしげた。 「カクさん?」 「・・・・違うんです。」 「え?」 「その、葵を姫と呼んでしまうのは・・・・呼び慣れていないというせいではなく」 「?」 てっきりそうだと思っていた事に否定がきて、思わず葵は違うの?とさらに首を捻ってしまう。 そんな葵の反応を横目で見ながら鬼格は言った。 「未だに葵が隣にいてくださるという現実があまり信じられないんです。」 「へ?」 きょとんっとした葵に鬼格はぽつりぽつりと言う。 「俺はあまり・・・・こういう言い方は変かもしれませんが、幸せというものになれていないんです。ああ、葵座で過ごしている時が幸せでないとは言いませんが、その・・・・」 普段は寡黙な方に入る鬼格が一生懸命言葉を探して伝えようとしている事が葵にはなんとなくわかる気がした。 鬼格は幼い頃にかなり辛い思いをしてきていることはもう知っている。 葵座のみんなや村の人たちがいたとはいえ、己が望む幸せをその手につかんだ事はほとんど無いといっていい人生を送ってきたはずだ。 だから。 「姫があの夜、俺の望みに応えてこの時代に残ってくださってからずっと、なんだか夢の中にいるような気がするんです。」 ふう、と溜息をつくようにそう言った鬼格に、葵は少しだけ苦笑した。 「もしかしてカクさん、さっきすごく熱心にお参りしてたのって夢が覚めませんように〜、みたいな事思ってた?」 「うっ!」 のぞき込むようにして葵に言われて嘘のつけない鬼格が呻く。 あまりにも思った通りの図星っぷりに、葵は苦笑を深くしてしまった。 好きな人が自分が側にいてくれる今が、夢のように幸せだと思ってくれるのは嬉しい。 けれど、同時に少し切ない。 (なんていうのかな、こういうの。) 何より大切に想われているとわかるのに、越えられない距離を感じるような、そんな切なさ。 自然、口数の減った葵と鬼格の間に天神様の縁日の喧噪が入り込む。 こういう時、賑やかな場所はありがたい。 無意味に気まずくならなくてすむから。 なんとなくそのまま境内を抜けて、鳥居をくぐると街へと降りる階段へさしかかる。 湯島天神は上野の街か見ると少し小高い丘の上にたっているから、街と境内の間には必ず階段があった。 行きも上った階段を、今度は下る。 歩いている時と一緒で少しだけ前を歩く鬼格は自然と葵より前に階段を下り始めて・・・・。 「あ・・・・」 数段下ったところで、葵は小さく声を上げて立ち止まった。 その声に、鬼格も足を止めて振り返る。 見れば、数段前に足を止めていたのか、葵が少し見上げる位置で足を止めていた。 「どうかしましたか?」 何かあっただろうか、と問いかけた鬼格に葵はさっきまで曇り気味だった顔に笑顔を浮かべて頷いた。 「うん、ほら、カクさん、気がつかない?」 「?」 「ほら!」 葵の表情が明るくなったのはいいが、何を問いかけられているかわからずに首をかしげる鬼格に、もどかしげに葵は階段を数段下りてきた。 それを鬼格は目で追う。 高く結った髪を楽しげに揺らして階段を下りてくる葵の可愛らしい仕草に心をざわめかせながら見つめていると、同じ段まで下りてくるかと思いきや葵は足を止めて。 「ね?」 「え・・・・・・あ。」 得意げな顔で首をかしげる葵に一瞬目を奪われた後、はたと鬼格は葵の言わんとしていることに気がついた。 いつもは少し下にある葵の目線が今は。 「同じですね。」 「そう!ね、こうすると目線が一緒なんだね。」 なんだかとても嬉しそうに笑う葵に、鬼格の鼓動がとくとくと早くなっていく。 いつもと違う高さにあるからだろうか。 葵の笑顔がいつもより輝いて見える・・・・などと思っていたら、葵がふといたずらっぽい顔をした。 そして。 「ね、カクさん。もうちょっとこっちへこれる?」 「は?」 「あ、階段は上がらないでね。そのままもう少しこっち。」 「は、はい。」 言われるがままに鬼格は体を前に倒すように葵へ近づいた。 すると、葵の手が鬼格の肩へ伸びて、両肩にかかったと思ったと同時に ―― ちゅっ 「!!!????!?」 額に感じた柔らかい感触に鬼格は声なき声を上げてのけぞった。 「ひ、ひ、ひ、姫!?」 「・・・・そんなに驚かなくても。」 「お、お、お・・・・!」 驚くとか驚かないとかそういう問題ではない。 (い、今のはっっっ!?) たぶん、おそらく、間違いなく、額に触れたのは葵の唇だった。 「っっ!!」 途端にかああっと熱くなる顔を隠すように慌てて鬼格は口元を覆う。 下手したら心臓が口から飛び出しそうなほどに跳ね回っている。 けれど、そんな鬼格を見た葵のほうは、至極満足そうににっこり笑って。 「同じ目線だとこういう事ができるんだね!」 などと言ってくれるものだから。 「〜〜〜〜〜姫。」 「姫じゃないよ。葵。」 「あ・・・・」 あまりに混乱しすぎて完全に姫呼びに戻っていた鬼格はそのことを指摘されて、一瞬、また怒らせてしまうかと焦ったものの、葵はほんのわずか苦笑しただけで言った。 「でも・・・・今はまだ、姫でもいいよ。」 「え?」 「カクさんにとって今が夢みたいっていうなら、こんなの当たり前にしちゃえばいいんだもんね。」 まるで謎かけのような事をいって、葵はとんとんっと階段を下りてくる。 そして同じ段にたつといつも通りの身長差でくりっとした黒い瞳で鬼格を見上げた。 「今はまだちょっと距離があるけど・・・・」 そう言ってまたとんとんっと階段を上がる。 ほんの数段で同じになる目線。 まっすぐに目をのぞき込める場所で、葵はにっこり笑って言った。 「そのうち、こんな距離が当たり前ってぐらいに私がカクさんを幸せにしてみせるからね!」 ―― 終わらない夢を、あなたに 〜 終 〜 |