夏の夜の月見酒
時は明治の上野の片隅。 芝居小屋の横に位置する料理屋「みよしの」は夜半をすぎて暖簾を下ろしていたが、その店にはまだ小さな明かりが灯っていた。 明日の仕込みを行う厨房ではなく、店の座敷に残った行灯に照らされながら白磁の杯を傾けているのは葵座の座長、神鳴剣助だった。 薄く開いた格子窓の横に背をもたせかけて夏の夜風にその漆黒の髪をそよがせる姿は、さながら芝居の一場面のようだ。 しかしその表に芝居の時見せるような表情はない。 ぼんやりと格子窓越しに浮かぶ月を眺めながら時折思い出したように杯を口元へ運ぶ。 と、その時。 「珍しいねえ。」 どこか気の抜けたような声が無人だったはずの「みよしの」の店に響いて、剣助は目線だけ声の方へ滑らせた。 とはいっても、少し前から足音は聞こえていたからただの確認程度だったが。 「ナナミか。」 「随分しけた顔で呑んでるじゃねえか。」 興味があるのかないのかわからないような気怠げな調子で言いながら、諏訪七巳は剣助の了解を得るでもなく座敷にあがりこんだ。 そしてどこから調達してきたのか自分の杯を出してお銚子から勝手に酒を注ぐ姿に、剣助は苦笑した。 「お前、明かりに惹かれる虫か。」 「ご名答。俺は酒に惹かれる虫なんだ。」 飄々とそんな答えを返して七巳は杯を傾ける。 もっとも酒の虫という割にはさして美味そうな顔をするわけでもないが。 「いい酒じゃねえか。」 「あ・・・・ああ、まあな。」 頷く言葉が僅かに濁ったのは、いわれるまで酒の銘柄も忘れていたせいだ。 その一瞬を葵座の中でもずば抜けて鋭い七巳が見逃さなかったはずもないが、彼は何も言わず、ただ気怠げに煙管の紫煙をはき出した。 ふわり、と白い残映が舞い上がり夜の気配の中へ溶けていく。 その様を剣助はぼんやりと見やった。 確かにそこにあったはずの煙は何もなかったかのように消える。 それがいつになく何かの符号のように感じるのは、多分。 (・・・・あの子の、せいか。) ―― 双葉葵ちゃん。 自分が戯れにそう呼ぶ少女の面影が脳裏に浮かんだ。 しっぽのように結い上げた黒髪を元気よく跳ねさせて笑う少女。 難なく思い出せたその姿が瞼の裏で煌めくより先に、剣助は手に持っていた杯を煽った。 人を模しているだけだというのに、飲み干した液体は熱く喉を焼く。 ・・・・その感覚が焼いたのは喉だけではない事に気づいていたが。 剣助はそれ以上の思考を放棄するようにお銚子から、また自分の杯に酒を満たした。 向かいで七巳も同じ様に酒を注いでいる。 互いに手酌で好き勝手呑む。 光景だけ見ていれば、えらくつまらない酒飲みの男達に見えるだろう。 けれど、剣助は諏訪七巳という男をよく知っていた。 だからこそ、くすり、と小さな笑みがこぼれる。 「相変わらず、お前は良い奴だな。」 「・・・・なんのことだ?」 明後日の方を向いて煙管をくゆらせる七巳はつまらなそうに言葉をはき出す。 「いや・・・・俺はそんなにおかしく見えたかい?」 先の言葉には応えず問いで返すと、七巳は加えていた煙管を手に取ってちらりと剣助を見てきた。 その視線が応の答えを伝えてきて剣助は「そうか」と呟いた。 剣助がこんな風に酒を呑む事は珍しいことではない。 にもかかわらず、今日に限って七巳が声をかけてきたということはよほどいつもとは違う顔で呑んでいたのだろう。 (やれやれ、装うのは何より俺の十八番のはずなんだがね。) 幾多の人、幾多の事柄を装い誤魔化してきたかわからないほど年期の入った自分でも、装えない事というものはあるらしい。 (・・・・本当に何もかも予想外だ。) あの子に関する事となると。 押し込んだはずの面影がまた浮き上がってきて剣助は一瞬、杯を口元に持って行きかけて、諦めたようにため息をついた。 代わりに、ぽつりと口を開く。 「なあ。」 「ん?」 相変わらず明後日の方を向いた七巳が、返事を返す。 今の葵座の年若い者にはできないその気遣いをありがたく思いながら、剣助は昼間からずっと・・・・それこそいくら杯を重ねても消せない言葉を口にした。 「道具に心はある・・・・いや、いると思うか。」 「・・・・何のことかねえ。」 「ちょっとな。」 剣助の答えに、七巳はちらりとそちらを見てふうっと紫煙をはき出す。 宙に産まれて、また宙にそれが消えていく。 「菩薩殿、か。」 「・・・・・」 察しの良い七巳の言葉に、剣助はあえて無言で返した。 正確には、違う。 彼女が、葵が言ったのは。 「いや、違うか。あの子なら「ある」とは言っても「いる」とは言わない。」 「・・・・お前、どっかで見てたのかよ。」 そんなことはないとわかっていながら、そう言ってしまったのは七巳がまさに葵の言ったことを言い当てたからだ。 もっとも葵は「道具」ではなく「神器」の話をしていたのだが。 裏紋に墜ちる神器を、可哀想だと言った葵。 あのくるくると良く変わる表情を哀しそうに曇らせて、神器だってあんな風に人を害したら辛いんじゃないかと語った言葉が、どれほど剣助に衝撃を与えたのか、きっと彼女はわかっていないに違いない。 (道具は・・・・何処まで行っても人にはなれない。) どれだけ人と過ごしても、どれだけ人を模しても、人にはなれない。 その理由は道具には人のような心がないからだ、と剣助はずっと思ってきた。 それなのに、葵は道具にも、神器にも心があると言った。 辛い、哀しいと感じる・・・・人と同じ心がある、と。 その瞬間、彼女は取り払ってしまったのだ。 剣助がずっと己の中に置いていた一線を。 神器で・・・・道具である自分は、人とは違う。 心がないから、人とは違う。 どれだけ人と過ごして、どれだけ人を模して、どれだけ人に焦がれようとも、その一線は越えることはできない。 だから人より一歩引いた目線で、家紋の力を持つ人を見守っていくのだと、200年かけて剣助が築いた人との距離を、たった一言で超えてしまった。 ―― だってもし、神器に人と同じ心があるなら、模しただけのはずのこの胸に燻る想いは・・・・。 ちりちりと焼けるような思いに、剣助は酒をあおった。 どれほど酒を過ごそうと神器である剣助は酔うということはない。 けれど、せめて自覚せずともわいてくるこの感覚だけは誤魔化したかった。 杯を空けるまで一気に傾けて、僅かばかり感覚を消して剣助はわざとらしく方をすくめた。 「すまん。ちょっと言ってみただけ」 「いいんじゃないか。」 言いかけた言葉は、被せられた七巳の声に消された。 「は?」 思わず問い返したのは、いまいち七巳の意図がわらなかったからだ。 そんな剣助を横目に、七巳は己の杯をちびり、と傾けて世間話をするような調子で付け足した。 「道具が欲すれば心が宿ることもあるだろうさ。」 「ナナミ・・・・」 「ただ」 そう呟いて、七巳は手の中の杯を緩く回した。 ぴしゃんっと酒が杯の中で跳ねる。 今にも零れ落ちそうで零れないそれは、何の符号だろうか。 「・・・・面倒な話だが。」 「・・・・ああ。」 言葉通りというよりは、どこか寂しそうな響きをもって言われた言葉に、剣助は静かに頷いた。 まさに、その通りだ。 ―― 例え、神器に人と同じ心があるとして、それが何になる? いくら同じ心で想おうとも、人は人、神器は神器。 在り方がそもそも違う。 だというのに・・・・。 剣助は七巳から視線を格子窓の方へ向けた。 細い格子の間から見える夜空には、煌々と照る月が見える。 この暗い夜にあって、けして無視できぬその輝きは、剣助の中に、もう消しようもなく焼き付いた少女の姿を思い出させた。 きしり、と「心」が痛む。 これが人と同じ「心」だというなら、なんと厄介なものなのだろう。 どうあっても共に未来を歩むことができないとわかっているのに、人が・・・・葵が欲しいと恋うる、この「心」は。 月を見上げたまま、剣助は杯を口元に運ぶ。 喉を通る液体は変わらず熱く感じたが、それはもう大きくなりすぎた心の疼きを焼き尽くす力はもたない。 どうすることもできなくなったその「心」を持てあますように、剣助は大きく息を吐いて。 ただ月だけに聞かせるように、呟いた。 「本当に・・・・面倒だ。」 〜 終 〜 |