『あ、葵座の人でしょう ―― 』 まだ自分が何をすればいいのか、これから何が起こるのか、右も左もわかっていなかった五月の銀座で思いがけずかけられた、軽快な声。 今思えば、あの偶然の出会いがすべての始まりだった・・・・と、半年以上すぎた頃、何気なく回想していた葵の脳裏にふと、疑問がよぎった。 果たして ―― あれは本当に偶然の出会いだったんだろうか? 好機で後悔で幸福な出会い 「・・・・今頃、気が付いたんですか?」 宝船が書き物をしていた文机に横からずずいっと詰め寄るような格好で、心から真剣に投げかけた問いへの答えは実にあっけらかんとした、というかむしろ少し驚いたようなそれだった。 「え、今頃って・・・・」 その、当たり前の事を知らなかったのかと逆に問い返すような言葉に、葵は戸惑った。 (しかも今頃っていうことは、やっぱり偶然じゃなかったってことなんだ。) そう、葵が宝船に投げかけた問いとは『五月に銀座で声をかけてきたのは偶然だったのか、否か』。 それは葵が出会いの偶然に疑問を抱いたから生まれた問いであって、その答えがこれということはイコール、否という事に繋がる。 そんな風に頭を整理していると、問いかけられた時のまま動きを止めていた宝船がややあって、小さく苦笑すると、硯に筆を戻した。 「あたし、あんたのお人好しぶりを甘く見ていたかも知れません。」 「え、ええ?」 「だってそうでしょう?日光で言ったじゃないですか。あたしは福澤先生に言われて葵座を探っていたって。」 口調だけはなんでもない風に。 けれど、どこかやるせない後悔をにじませて笑う宝船に葵の胸が小さく痛む。 今でこそ、葵座の裏も表も知り尽くして一座の一員になっている宝船だが、晩秋の日光で福澤と袂を分かつまでは確かに密偵という立場だったのだ。 なんと返したらいいか分からず眉を寄せた葵の眉間を、ひょいっと伸ばされた宝船の指先が軽くつついた。 「ほらほら、そんな顔しないでくださいな。可愛い顔が台無しです。」 「っ!もう、からかわないでよ〜。」 「からかってなんざいませんよ。嘘偽りない、あたしの本心です。」 「胸張って言わないで−!」 妙に自信たっぷりに言われて、恥ずかしさに思わず葵が叫ぶと、宝船は楽しそうに笑った。 「ま、それはそうと。あの日光であたしがしてきた所行について告白した時に、あんた、今までずっと過ごしてきた時間は嘘だったのかって言ったじゃないですか。」 「あ・・・・うん。」 葵が沈んでる時も楽しい時も宝船が気遣って一緒にいてくれる事が嬉しかったから、それが裏切られていたのかも知れないと思った時、確かに葵はそう言った。 自分がかつて宝船に向けた言葉を思い出して、また顔が曇る葵に宝船は少し困ったように眦を下げる。 「あんたはそんな顔しなくっていいんですよ。葵はもっとあたしを責めてもいいぐらいだったんだ。」 「そんなこと・・・・すぐにハッチが殴っちゃったし。」 「あ〜、そうでしたね。あれはききました。」 苦笑とともに痛みの記憶でも思い出したのか、頬を押さえる宝船がちょっと滑稽めいていて、葵はくすっと笑った。 「でも、正直殴ってもらってすっきりはしましたけどね。優しい葵は殴ったりはできないだろうと思ってましたし。でもとにかくあたしがしてきた事は全部、嘘だったって葵に思われただろうって思ったんですよ。」 「嘘・・・・」 「そう。というか、普通あそこまで言ったら出会いだって偶然じゃないって思うでしょ?」 「うっ。」 (た、確かに・・・・) むしろ少し呆れたようにそう言われて、葵は思わず呻いた。 そんな葵を見て、宝船はため息を一つついた。 「そんなお人好しだから、こんな胡散臭い男につけ込まれるんですよ、葵は。」 「つけ込まれるって!」 「つけ込まれたでしょう?確かに銀座の街をあんた一人でうろうろとしているのを見た時は、千載一遇の好機と思って声をかけましたが、ぽろっと百四十年前の未来からきた、なんてことを言っちまたのにはびっくりしたもんですよ。」 「ううっ。」 痛いところを突かれて葵は再び呻く。 その様子に宝船はますます渋い顔をして続けた。 「まして舞台にたつ自信がないなんて、あたしが葵座に入り込むのに絶好の口実までくれちまうんだから。あんまりにもあたしに都合がよすぎて、逆にケンスケさんあたりがしかけた罠なんじゃないかと思っちまったぐらいでしたよ。」 「うううう〜。」 (返す言葉がないかも・・・・) 幸いな事に、今があるからこんな風に話していられるが、万が一あの時声をかけてきたのが宝船ではなく、土岐のように福澤に心酔していた人物だったら、きっと葵の不用意な言動が葵座を危機にさらしていただろう。 それぐらいあっさりと、宝船はあの出会いをきっかけに葵座に入り込んだのだから。 「・・・・まあ、ケンスケさんやナナミはあたしの企みぐらいは見抜いていたでしょうが、ね。」 「え?」 「あんたのとこの座長さんは侮れないって話ですよ。まあ」 そこで言葉を切って、宝船は悪戯っぽく目を細めて葵を覗き込む。 「こんな風にあたしが葵に骨抜きになるとまでは、予想してなかったでしょうけど。」 「っ!」 「あははっ。見事に赤くなりますねえ。」 「ホウセンさんっ!」 「あははははっ!」 頬を膨らませる葵に、ひとしきり笑ってから、軽く息をついて「まあ、でも」と宝船は話を継いだ。 「今にして思えば、あの出会いは情報屋としては失敗でしたねえ。」 「失敗?」 「ええ。失敗も失敗。大失敗でしたよ。」 「そ、そこまで。」 あまりにも「失敗」を連呼されて、葵はにわかに心が沈むのを感じた。 (それはまあ、良い出会いだったかっていわれればそうじゃないけど・・・・) あの時の葵は、宝船と出会ったことよりも、目の前に突きつけられた初舞台という大きな壁に目を奪われていて、正直それどころではなかった。 けれど、やっぱり大好きな人に自分との出会いが失敗だったと言われるのはちょっと凹む。 (・・・・それに考えてみたら、私に出会ったから、ホウセンさんは大変な想いをしたわけだし・・・・) それまでは何かに捕らわれることなく、噺家としても情報屋としても自由にやってきた宝船。 それが去年の騒動に巻き込まれる中で、葵と恋に落ち、そのせいで色々苦しんだ事を知っているだけに、葵の胸の中で不安がどんどん膨らんだ。 (もしかして、出会わなければ良かったとか思ってたり・・・・?) そんな思考に胸がひやりとした時。 「・・・・すっかりくせになっちまいましたねえ。」 「・・・・え?」 どこか感慨深そうな声に、葵は不思議に思って顔を上げた。 と、目の前の宝船が膝にのせていた手を上に持ち上げる。 「?・・・・あ。」 最初、その動作に首をかしげた葵は、次の瞬間、自分の手が上に引っぱられた感覚に、宝船が何を教えようとしたのか気が付いた。 というのも、葵の手はいつの間にか、しっかりと宝船の着物の袖を握っていたのだ。 それは、福澤と初めて対峙した時から、いつの間にか葵のくせになった動作。 その意味をもちろんわかっているのだろう、宝船は今まで文机の方を向いていた体を葵の方へ向けて、袖を握った手をそっと自分の手で握って言った。 「それで?何が不安になったんです?」 「だって・・・・ホウセンさんが失敗って言うから・・・・」 「ああ、やっぱりですか。」 消え入るような声で訴える葵に、宝船はやや大袈裟に声を上げた。 「?」 その反応に、何か含みを感じて葵は顔を上げた。 そしてぶつかったのは・・・・愛おしげに葵を見つめる、宝船の視線で。 「何て顔をしてるんです?『情報屋』としてはって言ったでしょ?」 「え?情報屋?それってホウセンさんの事でしょ?」 「まあそうですけど、でもちょっと意味合いが違います。あんたとの出会いが『情報屋』として大失敗だったのは・・・・葵と出会って、あたしはただの『情報屋』ではいられなくなっちまったからですよ。」 「え・・・・?」 きょとんっとした顔で見返してくる葵に、宝船は小さな悪戯が成功したような気持ちで言葉を継ぐ。 「最初はお人好しで興味深いお嬢さんが本当に良いきっかけをくれたと思いましたよ。未来の話も聞けて、福澤先生のご要望にも応えられる。それぐらいにしか思っちゃいなかった。 なのに、葵ときたら本当にあっという間にあたしを虜にしちまった。」 「そ、そんなつもりないよ!?」 「ええ。そうでしょうとも。あんたはいつも通り笑って怒って元気に過ごしてただけだ。でもそんな姿があたしにはたまらなく魅力的に映ったんですよ。 そして気が付けば、葵の一挙手一投足に目を奪われるただの男になっちまったってわけです。 情報屋が情報を引き出す相手に虜にされたなんて、滑稽噺もいいところですからね。おかげであたしは情報屋として情報を売ることができなくなっちまった。」 そこで言葉を切って、宝船は葵の頬へ手を伸ばした。 挟むように触れられて、一瞬、口づけをされるのかと葵は目を閉じたけれど、予想外にこつんと当たったのは額で。 「葵に不利になるような情報は流せない。情報を流していた事を知られて、あんたに嫌われるのが怖い・・・・そんなどうしようもない感情で雁字搦めになっている自分に気が付いた時には、出会ったことさえ後悔したもんだ。いっそあの時、あんたに声をかけさえしなけりゃ、こんな苦しい恋をすることもなかったのにってね。」 「ごめ・・・・っ!」 どこか苦しげな告白に思わず謝りそうになった葵の唇に、その言葉を封じるかのように軽く、宝船のそれが重なる。 「ここで謝っちまうのはお人好しを通り越して、野暮ってもんですよ?」 「でも・・・・」 好きな人を苦しめていたと知るのは辛い。 そう訴えてくるような葵の表情が、宝船にどれほど幸福感をもたらすか、きっと彼女は分かっていないのだろう。 だから、やっと触れる事が出来るようになった指先から、この想いが伝わればいいと願いながら、そっと頬を撫でて宝船は言った。 「さて、話をもどしますよ。そんなわけで『情報屋』三遊亭宝船としては、あんたとの出会いは大失敗だったわけです。」 「・・・・うん。」 「でも、ね?」 「うん?」 仕切り直した声が、少し変わったことに気が付いたのだろう。 ぱちくりと目をしばたかせて見上げてくる葵の、大きな瞳を見下ろして、宝船は言った。 「あたし、なんでもないただの三遊亭宝船としては、あの出会いは一生で一番の大手柄でしたよ。あそこであんたに声をかけなけりゃ、今の幸せはなかったんですからね。」 ―― 最初は打算、そして後悔・・・・その先に待っていた幸せの真っ只中で。 役立たずになった情報屋と、元双葉葵の姫御前はそれはそれは幸せそうに微笑みあったのだった。 〜 終 〜 |