『狐』 ―― それは得体の知れない物の代名詞。

人を煙に巻くのも、化かすのも、惑わすのもお手の物、という反面、時には神の使いだったりもする。

愛嬌のある小悪党の事もあれば、人の世を脅かすような化け物に変化する時もある。

人の生活に近い存在だからか、その伝説やお伽噺には事欠かず、それが転じて人の例えとしても使われるようになった。

『狐』 ―― それは。















狐の面















「ホウセンさんって狐みたいだよね。」

「はい?」

のほほんっと自室の文机を前にお茶を啜っていた三遊亭宝船は、しみじみと呟く声に湯飲みをもったまま、きょとんとした返事を返してしまった。

我ながら間の抜けた反応だと思ったが、目の前にちょこんっと座った呟きの主・・・・宝船の想い人である水戸葵はあまり気にした様子もなく自分の湯飲みからお茶を啜った。

あ、念のため補足しておくと想い人といっても別に片恋というわけではない。

一言では語り尽くせないような紆余曲折を経て、今現在は葵は宝船の恋人なのだから。

(・・・・本当に一言では語り尽くせないんですよねえ。)

なにせ、葵からしてこの時代の生まれではないという奇想天外な経歴をもつのだから。

おおよそ140年は先の時代からやってきた、葵に家紋の力という未知の力に興味を抱いた福澤の依頼で近づいたのは、一年ほど前の話。

当初は情報源に他ならなかった葵に、気が付けば心底惚れこんで福澤と対決してまで彼女を引き留めたのも、こうして向き合ってお茶など飲んでいるとまるで夢物語のようだ。

閑話休題。

そんなわけで、紆余曲折を経て無事に恋人の地位を勝ち得た宝船は、最近では葵座のお姫様をかっさらった後ろめたさもあり、しょっちゅう葵座の台本の仕事を受けるようになっていた。

今日も次の公演のために既存の台本に手を入れていたところだったのだが、そこへ陣中見舞いと称して葵が訪ねてきてくれたのだ。

おすすめのお団子を手に恋人が訪ねてきたら、そりゃそのまま仕事を続けろと言う方が酷というもの。

さっそく葵が張り切って入れてくれたお茶で、お団子を頂きましょう・・・・と、ここで何故か冒頭の台詞だったわけである。

(回想してみても前後の脈絡が全然ないですよ、葵。)

思わず宝船がそう思ってしまうのも無理はないとご理解いただきたい。

ついでにいうと、冒頭の台詞の一言前は、「はい、ホウセンさん。お茶。」だった。

「また、随分唐突ですね。」

驚いた気持ちをそのまま込めてそう言うと、葵は一瞬きょとんっとした顔をして、すぐに「あ」っと呟いた。

「ごめんなさい。口から出てた?」

「出てました。」

「あはは〜・・・・」

誤魔化すように乾いた笑いを零して目線を逸らす葵に、宝船は簡単に答えを得た。

「つまり、口に出すつもりはなかったけれど、思っていたと。」

「えーっと・・・・はい。」

気まずそうに頷く葵を見ながら、宝船はずずっとお茶を啜った。

(狐・・・・ねえ。)

「まあ、あたしは確かによくそう言われますね。」

噺家、三遊亭宝船は口八丁手八丁。

舌先三寸で人の事を煙にまき、裏の顔は情報屋となれば、『狐』の称号は与えられてしかるべきだろう。

そんな含みに気づいたのか、葵は開き直ったようにうんっと頷いた。

「だってホウセンさん、狐のお面なんか被って現れるし。」

去年の五月に銀座で再会した時の事だ、と宝船は笑った。

「驚いたでしょう?」

「そりゃ驚いたよ!振り返ったら狐のお面被った人がいたんだよ!?」

「そうですねえ、あの時の葵は目をまん丸くして可愛かったですねえ。」

「なっ!」

びっくり、と書いてあるような顔をした葵の事を思いだして思わずそう言うと、葵は喉に詰まらせたような声を出した。

そしてすぐに頬が赤く染まるのがまた可愛らしい。

(言葉を惜しんでるつもりはないんですけど、いつまでたっても慣れないんだから。)

初々しい反応を楽しんでいると、それがばれたのか、葵がむうっと眉を寄せて睨んでくる。

「またそうやってからかう。」

「からかってなんざいません。あんたが可愛いなあと思うのはもうあたしのくせみたいなもんです。」

「あううう・・・・」

堂々と肯定してやればさらに墓穴を掘ったというように葵が赤くなった。

「ま、また、煙に巻く。そうやってあの時驚かせた事、誤魔化そうとしてるでしょ?」

(そういうわけじゃないですけど、そういう事にしておきますか。)

さすがにこれ以上今追い詰めると機嫌を損ねられそうなので、宝船は何食わぬ顔で「おや」と笑った。

「ばれましたか。」

「ううう〜、本当にホウセンさんは煙に巻くのが上手いよね。」

「そりゃあ、『狐』ですから。」

すました顔でそう答えてお茶を啜る。

と、じいっと見つめる視線を感じて、宝船は葵に目を向けた。

自分とは違う、まんまるくて大きな瞳が真っ直ぐに自分を映しているのに、満足と少しの落ちつかなさを感じながら、宝船は細い眼をますます細くする。

「なんです?」

まだ言い足りない文句でもあるのだろうか、と単純に問いかけた宝船に、葵は一瞬、考えた後言った。

「・・・・あのさ、ホウセンさんがあの時、狐のお面かぶってたのって、これから騙しますよって教えてくれてた?」

「え・・・・」

思わぬ言葉に宝船は絶句した。

まさか。

(まさか・・・・)

―― 葵に気づかれるとは思っていなかったから。

けれど、その宝船らしくない一瞬の動揺から、葵はあっさり答えを見つけてしまったらしく、疑問を投げかけていた顔が、満足げなそれに変わる。

「やっぱりそうだったんだ。」

確信を得たと言わんばかりの葵の言葉に、宝船はふう、とため息をついた。

これで下手に隠し立てをするのは返って格好がつかない。

「・・・・今更ですけど、よくわかりましたね。」

そう白旗を上げた宝船に、葵は「偶然だけどね」と笑った。

「今日ね、このお団子を買いに行った時に、近くの神社でお祭りをやってたの。それで小さい子達がお面をつけて遊んでるのを見てね。」

買ってきたお団子を見ながらそう話す葵に、宝船も相づちを打つ。

「そしたらそこへ、ちょうど今来たばっかりみたいな子がそのお面の子達を見て誰だかわからないって泣いちゃって。その時に、気が付いたんだ。・・・・お面は隠すものなんだなって。」

「隠す?」

「うん。そう思ったら急にホウセンさんと会った時の事を思いだしたんだ。ホウセンさん、狐のお面被ってたなって。」

人を煙に巻く『狐』。

顔を覆い隠す『面』。

「よく考えたら、これから本心を隠して騙しますよって宣言されてたみたいだよね。」

まさにその通り。

心の底を引っ掻くような記憶に、宝船は少し口元をゆがめた。

「・・・・あの時にはもう、あたしは福澤先生からあんたに近づくように指示を受けてましたからね。」

葵座に唐突に現れた少女は、あきらかに何か秘密があると思わせるだけの異質さがあった。

そんな少女をあの福澤諭吉が見逃すはずもない。

情報屋として福澤の指示を受ける立場だった宝船が、葵の情報を得てくるようにと言われたのは必然の話だ。

「あたし自身、興味はありましたしね。」

もともと好奇心は人並み外れて強いと自覚している。

葵に近づいて探るのに否やはなかった。

ただ・・・・。

「ただ、四月に上野で会った時のあんたは、びっくりするぐらい普通のお嬢さんだったから。」

少しだけ騙して近づく事に罪悪感が湧いた。

だからなんとなく、目についた『狐の面』を被ってみたのだ。

もちろん、驚かせて警戒心を誤魔化そうという意図がなかったわけではないけれど。

「もっとも、あの時はあんたは全然気が付きませんでしたけどね。」

「うっ。」

宝船の指摘はその通りでまんまと騙された葵は、その後、未来から来たことまでしゃべってしまったわけだ。

痛いところをつかれて呻く葵に、宝船は苦笑する。

「それが今になって気が付かれるとは思いませんでしたよ。」

正直、気が付かないでくれればよかったのに、と思う気持ちもないではない。

(結局は騙したのに、中途半端に誤魔化そうとしたなんて。)

いかにも『狐』な小悪党のようだ。

(・・・・まあ、葵には散々なところばかり見せていますけど、ね。)

騙して情報を横流ししていたり、腕っ節ではさっぱり役に立たないから舌先三寸ではったりをしてみたり。

「返す返すも、どうしてあんたがこんな『狐』の恋人になったのか不思議ですよ。」

そう言って笑った笑みが、やや自嘲的になったのはしかたがないだろう。

そんな気まずさを誤魔化すように、宝船が自分のお茶を啜ろうとした時、葵がことん、と湯飲みを置いた。

そうしてその手で、ぎゅっと宝船の袂を掴む。

「・・・・」

それはまだ葵が神器で唯人である宝船が直接触れることが出来なかったころから、葵が何か伝えようとする時にする仕草で。

「あのね」

いつもは明るくて元気のいい声が、今は芯を感じさせる響きをしていることに、宝船の心の臓がとくっと揺らぐ。

何も言えずに葵を見つめていると、葵は真っ直ぐに宝船を見つめてきた。

鏡のように美しいそれに映る自分の姿はやけに不安げで、思わず眉を寄せる宝船とは対象的に、何故か葵はすました顔で言った。

「『狐』でもう一つ思い出した事があるんだ。」

「もう一つ?」

「うん。昔、さくらお祖母ちゃんが聞かせてくれた話。ちょうどその時、話してくれた昔話に出て来た狐が悪役だったの。だから、私が「狐って悪者なの?」って聞いたんだ。そうしたらさくらお祖母ちゃんが「まあ、そういう奴もいるね」って言って、それから「でもね」って」

そこで言葉を切った葵は、まるで悪戯が成功した子どものようににっこりと笑って。















「『狐』は情が深いから、一度懐に入れた相手にはとことん尽くしてしまったりもするんだって。」















ほら、まるでホウセンさんみたいでしょ?

声に出されずとも、そんな葵の声が聞こえた。

そして、その意味をゆっくりと頭が理解した瞬間 ―― 初めて宝船は取り繕う間もなく、自分の顔が赤くなっていく音を聞いた。

(〜〜〜〜、これだから、この人はっ!)

もう隠しようもなく赤くなっているだろう顔を隠すように手を口元にあてがいながら、宝船は呻いた。

三遊亭宝船といえば、口八丁手八丁。

本心は隠して、人の秘密を簡単に探り出していく食えない『狐』・・・・自分でさえも気が付かぬほどにしっかりと張りついた『面』を、葵はこんなにも簡単に暴いてしまうのだ。

しかも。

「違ってないよね?」

例え宝船が否定しようとも、自分はそう思っていると確信さえ感じさせる笑顔でそう見上げてくるのだから、たまらない。

「・・・・あんたを菩薩というナナミの気持ちが少しわかりましたよ。」

「へ?」

きっとこの少女はどれほど汚れた人間でも、きっと綺麗な物を見つけてしまうのだ。

そう思った事は告げずに、宝船は未だに持ったままになっていた湯飲みを置くと、きょとんとしている葵の手を引っぱった。

「わっ!」

自分の袂を掴んでいた手をそのまま引っぱれば、驚いたような声とともに、葵の体が転がり込んでくる。

以前のように触れても痛みははしらない。

かわりに、柔らかさと心地良い重さを腕の中に受け止めて宝船はその顔を覗き込んだ。

額が触れそうな距離にぱっと葵の目が丸くなって、すぐに頬が赤くなる。

「葵。」

意識しなかったのに、名前を呼ぶ声に甘さが滲んだ。

「っ!」

やっと恋人としての触れあいに慣れてきた葵が慌てて目を閉じる様が、胸が軋むほど愛おしい。

・・・・けれど、いつもなら躊躇いもなくその柔らかい唇を塞ぐ宝船は、そうしようとして、一瞬動きを止め。

―――――――――― ぱく。

「ぎゃっっ!?」

葵の可愛らしい鼻に軽くはんだら、ものすごく色気のない声とともに、葵が跳び上がった。

「ぷ、あはははっっ!」

あまりにも良い反応に宝船は吹き出す。

「な、な、な、なっっっ!?」

よほど驚いたのか、半涙目でぱくぱくと口を開け閉めしている葵に宝船は確信犯的ににんまり笑ってみせた。

「あたしはあんたに夢中の『狐』ですからね。たまに噛みつかれないように用心しといてくださいな。」

「〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!?」















『狐』 ―― それは、ずる賢くてつかみ所がなくて油断がならない、寂しがり屋なのだ。















                                               〜 終 〜





















― あとがき ―
宝船の狐のお面に意味づけをしてみたらこうなった的な創作でした。