綺麗と可愛いの定義
感嘆でため息をこぼす、というのはけして悪い事ではない。 そりゃあ人間、美しいものや素晴らしいものを見れば、思わずため息をつきたくなる瞬間もあるだろう。 実際、荒銀淋は自分がそういう対象になった経験は人より豊富な方だ。 葵座唯一の女形として、忍びの里で培った変装技術も取り入れ絶世の美女と呼ばれる役をいくつもこなしてきた。 仕草ひとつ、化粧ひとつで男達の感嘆のため息を己の物にするなどお手の物だったのだ。 しかし。 「はあー・・・・」 また一つ、目の前でこぼれたため息に、淋は引きつる口元をなんとか押さえた。 (・・・・こんなに複雑なのは初めてだぜ。) 芝居を見に来た客のため息ならば、それはすなわち淋への評価だ。 だから、それはかまわない。 しかし、今は開演直前とはいえ、まだ楽屋。 しかも目の前でさっきからため息をつきっぱなしの少女は。 「・・・・アオイ。」 かなり引きつった感じで名を呼ばれた、アオイこと水戸葵はいかにもうっとりとした表情を慌てて引き締めた。 「えっと、何?」 「何、じゃないだろ・・・・。なんでお前、こんなところにいるんだよ。」 淋としては、まずそこに突っ込みたい。 今日の舞台は葵が体調を崩して出られなかった舞台の再演なので、葵はそのまま会場整理に回っているはずだ。 だから、本来なら開演前のこの時間に楽屋にいるはずがないのだが。 「あ、会場の方はだいたいお客さんが入ったから、みんなの様子を見に行って良いよってオトヒメとキノヒメが。」 (あいつら〜〜〜!) 今回は上野での公演ということもあって、珍しく手伝いに来ているくの一姉妹のにまにまとした笑顔が頭に浮かんで淋は思わず呻いた。 「絶対面白がってるな。」 「何が?」 「なんでもない!」 「??ま、いっか。それにしても・・・・」 淋の苦悩についてはそれ以上突っ込むのをやめたらしい葵は、さらにもう一度しみじみと淋を見つめた。 そして。 「ほんとに綺麗だねえ。」 ほう・・・・。 まさにうっとり、としたため息をつかれてさすがの淋も盛大に口元が引きつってしまった。 そう、『綺麗』 ―― 確かにそう言われるにふさわしい恰好はしているだろう。 なぜなら、今日の淋の役所はまさしく絶世の美女役で、これでもかと女形として培った経験や技術を総動員しているのだから。 しかし、他の誰でもない葵・・・・恋人からこんなにうっとりとした視線を向けられようとは。 (いや、でも間違ってはいないし、良いこと・・・・だよな?) これがなんとも言えない微妙な表情とかいうなら、役者として大問題だが、見とれられるというのは合格点以上のでき、ということになるのだから。 (でも、なあ・・・・) ちらっと葵に目を目を向ければ、しゃらんっと簪があでやかな音を立てる。 その淋と視線が合うと葵ははっとしたように軽く目を見開いて、またうっとり。 (・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・) これは想像していた以上に複雑だ。 葵が明治に来てからこちら、女性役はもっぱら葵がこなしていたので、淋が葵の前できちんっと女形の恰好をするのが今回が初めてのことになる。 だからこれまで葵を指導しながら「俺が演ったらお前なんて足下にもおよばない」と言ってきたのが嘘ではないと証明できたことにはなるのだが。 「リンは女装すると大人っぽくなるんだね。」 「・・・・今回はそういう役だからな。」 はあ、と何度目かになるため息と共に言う葵から微妙に視線を外しつつ淋は律儀に答える。 「うん、そうなんだけど、女子校だったらお姉様って呼ばれそうな感じ。」 「・・・・・・」 葵の言葉の半分も意味はわからなかったが、なんとなく想像はできてしまって淋はさらに顔を顰める。 いや、これはほめ言葉だ。 どこをどうとってもほめ言葉には違いない。 ただ。 (・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・くそ、なんだこの負けた気分はっ!) 葵が明治に来てからこちら、すでにいくつかの舞台で様々な役所の恰好をみせてきたが、これほど素直に葵が見とれたことはなかった。 少し赤くなったり居心地悪そうになったり、という可愛らしい姿も見せてくれなかったわけではないが、それでもこんなにうっとりしてくれた記憶はない。 要するに、『女形・荒銀淋』に男として負けた気がする、淋なのだ。 「はあ・・・・。」 ここまで認めてしまったところで、とうとう淋は深々とため息をついた。 しゃらしゃらと簪の揺れる音さえも、ちょっとばかり憎らしい。 「どうしたの?」 淋の複雑な胸の内など知るよしもない葵が、きょとんっとのぞき込んでくるのもやっぱりちょっと憎らしくて、淋は胡乱な目を彼女に向けた。 「お前、さ。」 「うん?」 「・・・・女形の姿のほうが、いいのかよ。」 「へ?」 思わずぽろり、と本音がこぼれてしまった瞬間、葵の目がくるっと見開いた。 その目があんまりにも驚いたようにまん丸く開いて淋を映したので、自分がどれだけ間抜けな事を問いかけたか自覚してしまって、淋の顔に血が上った。 「いや、ちがっ!・・・ちが、わなくはない、けどな!お前が、やけに今の姿に見とれてため息ばっかりついてるからっっ!」 「え?あ、うん??」 言っていることが大概意味不明になりかかりながらも、淋は言葉をつなげる。 「だから、その!お前は男の俺の姿より、こっちのがいいのかって・・・それだけだ!!」 以上、終了!と強引に言葉を打ち切って淋は葵から顔を背けた。 途端に落ちる沈黙に、舞台の方からがやがやと喧噪が聞こえてくる。 (何言ってんだろうな、俺。) 現実的な音に一瞬冷えた頭で考えれば、馬鹿な事を言ったという自覚が出てくる。 けれど、葵に恋してからはどうもこういう事が多い気がしてならない。 第三者からみれば、本当にくだらないと笑い飛ばせそうなことでも、ちょっと不安になったり自信をなくしたり。 (結局全部、こいつが好きだからってことなんだろうけど。) さすがに、これ以上恰好悪いところは見せたくない。 そう思って、少しばかり早いけれど舞台袖に待機しにいくか、と淋が腰を上げかかった、その時。 ―― つん、と袖が引っ張られる感触に淋は動きを止めた。 そして振り向けば、葵がきゅっと淋の衣装の袖をつかんでいた。 けれど、さっきまであっけにとられたような表情をのせていた葵の顔は下向きに伏せられていて、今は表情が見えない。 「?アオイ?」 なんだよ、という意味を込めて名を呼ぶと、いつも元気の良い葵にしては珍しく、おずおずと顔を上げた。 そして見えたその表情に、どきんっと淋の胸が大きく跳ねた。 うっすらと頬を赤く染めて、どこか困ったような顔をした葵は、思わず目を奪われてしまうぐらいには、可愛かったから。 「お前・・・・」 「あの、えっと、違うの!」 「は?」 今度は淋がきょとんとする番だった。 「違うって。」 「その、リンに見とれてたっていうのは本当なんだけど。だって、リン、ほんとに綺麗だし、すごいし、キラキラしてるし!」 「あ、ああ。」 ぎゅっと衣装の袖を握りしめて力説する葵の勢いに、ちょっとばかり気圧されながら淋が頷くと、「でも」と葵はへにゃっと眉を下げた。 「でも、ね、ため息の半分は・・・・私、負けてるなあって。」 「負けてる?」 何のことだ、と首を捻る淋に葵はものすごく言いずらそうに言った。 「女の子としてリンの方が綺麗だから。こんなに綺麗だと・・・・なかなかリンには私を綺麗とか可愛いって思ってもらえないだろうなあって思ったら、その・・・・ちょっと悔しくて。」 ―― あっけにとられる、とはまさにこのことだと淋は本気で思った。 今の言葉で葵の思考はわかった。 淋の女形姿が綺麗だから、自分と引き比べてしまったと、そういうことなのだろうと。 けれど。 (俺がアオイと綺麗とか可愛いと思わない?) そんなわけないだろうが!とここが舞台裏でなかったら絶対に声を大にして叫んでいただろう。 今まさに、そうやっている葵が可愛くてしかたないっていうのに。 いつもは元気よく笑っている葵の表情が頼りなく揺れるのも、第三者から見たらしょうもないと笑われそうなことを真剣に考えてため息をこぼしていたのだということも、何もかも全部自分のせいだと知って淋が可愛く思わないはずがない。 ああ、本当に、恋は人を愚かにするとはよく言ったものだ。 でも、同時に。 「・・・・葵。」 名前を呼ぶと自信なさげに向けられる視線が愛おしくて、淋は心のむくままに手を伸ばそうとした。 けれど、ちょうどその時。 「おーい!おリンに姫さーん。もうすぐ始まるぜー!」 「「あ」」 楽屋の外から聞こえてきた陽太の声に、淋と葵は同時に声を上げた。 そして夢から覚めたように顔を見合わせて、思わずばつが悪そうに笑い合ってしまった。 「そうだったよな、開演前だった。」 そう言いながら裾を裁いて立ち上がると、葵も同じように立ち上がって言った。 「うん。リン、がんばってね!」 「ああ。客全員を虜にするような美女を演じてやるから、お前もよく見て勉強しろよ。」 「はーい、先生!」 自信たっぷりを装った淋の言葉に、葵もくすくす笑いながら頷いた。 こういうところで、いつまでも引きずらないのは葵の美徳だ。 そんな事を考えながら淋は楽屋口まで来て、くるり、と振り返った。 「どうしたの?忘れ物?」 急に振り返った淋に驚いたのか、首をかしげる葵に淋はにっと笑いかける。 そして。 「一応、言っとくけどな、俺は美女を演じるからそう見えるぐらいには綺麗だろうけど。でも」 淋はそこで言葉を切って自分の唇に軽く指を押し当てた。 紅が崩れてしまわなければ、一番したい行動がちゃんと伝わるように。 そうして、何を言うのだろう、という顔をしている葵の唇に、その指を押し当てる。 「!」 目をまん丸くした葵の表情は可愛いし、指先から伝わる柔らかい感触に、理性がぐらりと揺れるけれど、それは持ち前の忍耐力でやりすごして、なんでもない顔をして笑って言った。 「俺にとっては、葵が一番・・・・綺麗で可愛いって事、ちゃんと覚えとけよ。」 続きは終演後、な。 耳元にそう囁いて、今度こそ舞台へ向かい踵をかえした淋の視界の端に、耳まで真っ赤にして唇を押さえた葵の姿がちらりと映った。 (ほらな、やっぱり) ―― 一番、可愛いと満足げに舞台袖に向かった淋が、座長から「お前、男の顔してるぞ」と言われて慌てて表情を引き締めるのは、このすぐ後のちょっとした蛇足である。 〜 終 〜 |