警戒すべきはお化けか、それとも
明治という時代に何の因果か迷い込んで初めて知った事は多い。 例えば舗装された道路ってすごい、とか携帯電話ってミラクル過ぎるとか。 でも一番思い知ったのは・・・・。 「・・・・・・・・・・・・・・・電気って素晴らしいよね。」 ぽつり、と呻くように言った言葉が、暗い廊下に反響して、思わず葵は己の腕を抱いた。 そう、今葵の目の前に続いているのは現代では考えられないような暗い廊下だった。 それもそのはずで、只今の時刻は草木も眠る丑三つ時。 電気がおよそ隅々まで行き渡って、スイッチ一つで明かりが付けられる現代と違い、明治六年のこの時代において明かりはせいぜい行灯なのだ。 最近では銀座や横浜といったハイカラな街にはガス灯というものが出来たらしいが、庶民はまだまだお日様基準で生活しているのが普通だ。 というわけで、いくら客商売の宿とはいえ、夜中の廊下が暗いのは当たり前というのは理解出来る。 理解出来るが ―― 平たく言えば、普通に怖い。 だったら大人しく寝ていればいいと言われそうだが、人間にはのっぴきならない事情というものが存在する。 それは・・・・。 (うう、なんでこんな時間にトイレに行きたくなっちゃったかなあ・・・・) いわゆる生理的欲求という奴だ。 それでも明治にやってきた割と初期の頃に、夜中の真っ暗廊下の怖さを体感してから、葵は極力夜中にトイレに行くような事態にならないように気は遣って来た。 おかげでこれまでは事なきを得ていたのだが、今日に限ってその努力は残念ながら実らなかった。 しかも間の悪いことに。 『・・・・伴蔵が板塀の影に隠れて様子を見ておりますと、暗い夜道の向こうにぽつん、と小さな明かりが現れまして・・・・』 「〜〜〜っっ!」 脳内で自動再生されたいかにもおどろおどろしい語り口にぞわっと葵の背筋が粟立つ。 (ホ、ホウセンさんのばかあ。) 葵座にお得意さんの依頼を手伝ってもらったからとお礼がてら宝船が披露してくれた怪談話は、さすがにそれが十八番と名乗るだけあって、それは見事なものだった。 そして見事だからこそ、生々しく想像した場面は脳裏に焼き付いていて。 (ううう、怖いよ〜〜〜。) もう、葵の頭は完全にその一語に埋め尽くされていた。 目が覚めてしまってから暗闇をちらつく幽霊の持った灯籠の幻想と戦い、布団をでる決断をするまでに十数分。 ぶっちゃけ、トイレまで辿り着いて用を足せた事だけでも奇蹟に近い。 背後にあるトイレの扉は怖すぎて振り返る事もできない。 しかし夜中のトイレは帰りが怖いと言う事を、今、葵は実地で思い出していた。 行きにあったのっぴきならない危機感が解消されてしまっただけに、頭に妙な余裕ができて思い出さなければいいことまで思い出してしまうのだ。 匂い対策の為、トイレは宿の中でも端にあるので目の前には長く暗い廊下が横たわっている。 「でも、いつまでもここにいるわけにいかないし・・・・。」 覚悟を決めて一歩二歩と歩き出せば、キイッと床板が細い悲鳴をあげて、ただでさえ縮み上がっている葵の心臓にさらなる負担をかけた。 (これでもお寺育ちなのに・・・・!) 一般家庭ならともかく、お寺という特殊環境に生まれ育った葵はそれでもこういう事態には慣れているつもりだった。 しかしいざと言うときにはスイッチを探せば電気がつく、という安心感があるのとないのでは相当違いがあったらしい。 『・・・・遠くの方にぽつん、と現れました明かりは風にそよいでいるかのように右へ左へ揺れながら、少しずつ少しずつこちらへ近づいてきました・・・・』 (ひっ!だから、頭の中でしゃべらないで〜!) 怖い話というのは不思議もので、思い出さなければ怖くないと思うのだが、そう思った時点で思い出す事をやめられるものではない。 もちろん、葵も例外ではなく、脳内の宝船に文句を言ったところで残念ながら記憶はとまってくれなかった。 それどころか、ただ宝船の語る姿ではなく、彼の語りで想像した光景が生々しく蘇ってきてしまう。 ―― 暗い道の向こうから、ゆらりゆらりと明かりがやってくる。 ・・・・キィ、キィ、と足下の床板が上げる微かな悲鳴が勝手に想像の映像と結びついていく。 ―― 極上の墨を流したような、とろりとした闇から近づいてきた明かりがぼんやりと。 ・・・・見すえる廊下の先はまだ見えてこない。ただ広がっているのは、漆黒と呼ぶに相応しい闇だけ。 ―― 板塀の影に隠れていた男は息を詰めて、その光と言うには不穏な明かりを見つめる。 ・・・・キィ、キィ。襖がならぶ廊下を息を詰めて歩く葵に聞こえるのは心臓が、どくどくと脈打つ音ばかり。 ―― そして ・・・・そして ―― 禍々しい牡丹灯籠を持つ手が闇の中からすう・・・っと 「おい?」 「っっっっ!??!??!?」 ぽん、と肩に誰かの手が触れた瞬間、葵が絶叫しないですんだのは別に彼女に夜中だから騒いじゃいけないとかいう理性があったわけではけしてない。 ただ単に、声を出すことすらできないぐらい驚いて腰が抜けただけだった。 「うおっ!?」 そのまま為す術もなくひっくり返りそうになった葵だったが、幸いな事に葵を死ぬほどビックリさせた腕がなんとかその体を抱き留めてくれた。 しかし今の葵にとって予想外の腕などはっきり言って恐怖の対象でしかなく。 (おおおおおお、おばけ〜〜〜〜〜!?!?) 「〜〜〜っっっっっっ!!!!」 「ちょ!お、おい?落ち着け!?」 半狂乱に陥って全力でジタバタする葵に焦ったような腕の主らしき人の声がした。 「い、やだやだやだっ!むぐぐぐっっ」 「落ち着けって。今、夜中だから!な?」 「〜〜〜〜〜〜〜・・・・・・・・・むぅ?」 思わず叫び出しそうになった葵の口元を押さえた腕の主の宥めるような声が耳元で何度か聞こえて・・・・やっと、葵はあれ、と動きを止めた。 (このおばけ・・・・知ってる?) 自分でそう考えて瞬時にそんなわけない、と否定した。 お化けに知り合いがいた覚えはない。 ということは。 淋あたりが聞いたら心の底から呆れたように「ばかか?」と言われそうではあるけれど、自らにつっこみを入れる事で跳ね回っていた心臓が少し落ち着きを取り戻した葵は自分を抑えている腕をまず見下ろした。 それはさっき想像で再生されていた牡丹灯籠をもつ青白い女の腕ではなく・・・・明らかにがっしりした男性のそれ。 そしてさっきから呼びかけられているこの低めで癖のある声は・・・・。 「・・・・・・・・・ひゅけはん?」 「やっと落ち着いたか。」 口を押さえられたままもごもごと名前を呼んだら、口を押さえていた手が外れた。 慌てて振り返れば、予想通り些か疲れた顔の葵座座長、神鳴剣助が苦笑と共にこちらを見下ろしていた。 「〜〜〜、び、びっくりしたあ・・・・。」 「そりゃこっちの台詞だな。なんだか妖しげな足音が聞こえたと思って起きてきてみりゃ、危うく夜中に大騒動だったな。」 「あ〜う〜・・・・」 確かに剣助に声をかけられた時点で大絶叫でもしてれいば、宿ごと大騒ぎになっただろう。 「でも行き成り肩叩かなくても・・・・。」 「いや?俺はその前からアオイって呼んでたぜ?」 「へ?」 「それが振り向きもしないでふらあふらあって歩いてくから心配になって肩を叩いたんだよ。」 「あー・・・・・」 つまり怖い想像に脳内を占拠されるあまり、現実の事がどこかへいっていたらしい。 「・・・・誠に申し訳ありませんでした・・・・。」 「ははっ。大方、ホウセンの話を思い出しちまってたんだろ?」 「うん。」 「まあ、ホウセンの十八番だけあって、俺達でも怖かったからな。アオイが怖いのも当然だよな。」 そう言って剣助はぽんぽんと葵の頭を撫でる。 色気のあるものではなく、子どもにするような仕草がかえって葵を安心させた。 「スケさぁん〜。」 「よしよし、怖かったな?」 思わず剣助の浴衣を握りしめて縋ってしまう葵に、剣助はそんなことを言いながら頭を撫でる。 「だって灯籠思い出すし廊下暗いし〜。」 ふえ〜ん、とばかりにさっきまでの怖さを訴える葵に剣助はうんうんと頷きながら、不意に視線を逸らすとぼそっと呟いた。 「・・・・しかし、この体制は結構くるよな。」 「?何か言った?」 「いや。なんでも。ところでアオイ?」 「?」 「お前部屋まで戻れるか?」 「え・・・・あ。」 何かを切り替えるように剣助に問われて葵は頷こうとして、はたと自分の状況を思い出した。 念のため腕に力を入れてみるものの・・・・。 「ダメかも。立てない。」 完全に腰が抜けてしまって立ち上がるに至らなかった葵に、剣助は小さく笑って言った。 「やっぱりな。じゃあここは一つ、姫御前の従者の出番だな。」 「へ?、うわあっ!?」 剣助が言い終わるやいなや、背中と膝裏に何か感じたと思うなりひょいっと視界が上がって葵は思わず悲鳴を上げる。 「こら、夜中だぞ?」 「え?だ、だって、お姫様抱っこっ!?」 そう、今の葵の格好は俗に言うお姫様抱っこという体勢に違いない。 ついでにいうなら、現代の高校生してきた葵にとってはまるで馴染みのない状況だ。 しかし慌ててジタバタする葵のことなどおかまいなしに、剣助はくくっと笑った。 「お姫様抱っこね。良い名称だな、それ。アオイは葵座のお姫様なわけだし?間違ってないんじゃない?」 「間違ってる!多いに間違ってるよ!」 「・・・・ところで、アオイ。今、夜中。」 「むぐっ!」 剣助の指摘に慌てて口を押さえる葵に剣助は再び笑う。 そして、少し悪戯っぽく葵の耳元に唇を寄せて囁いた。 「大人しくしてなよ?お姫様。」 「〜〜〜っ!」 少し低めた声が耳から直接心臓に届いたように感じて、葵は否応なしに赤くなる頬を隠すように俯いた。 葵が大人しくなったのを見計らって剣助は葵を抱えたまま、廊下を歩き出す。 さっきまでひどく気になったはずの床の軋みが、今は全然聞こえなかった。 ただどきどきと脈打つ鼓動だけがやたらと耳に付く。 恐怖でどきどきしていたのとは違う。 同じくらいうるさいのに。 (あ・・・・でも嫌じゃない。) どきどきするけど、落ち着かないけど、触れたところから感じる剣助の体温が妙に心地よくて、ゆるゆるとさっきまで恐怖で強ばっていた体がゆるんでいくのがわかった。 酷く怖かった廊下の暗闇も、もう怖いとは思わなかった。 護られている、というのはまさにこういう感じなんだろう、とぼんやり思った。 不定期なゆれとそんな空気が心地よくて、いつの間にか葵は剣助の肩に頭を寄せるように預ける。 だから。 「ほら、着いたぞ。」 「え、もう?」 足を止めて剣助がそう言った時、思わずそんな答えをしてしまったのだ。 もちろん、言った瞬間に自分が言った言葉の意味を理解して葵は赤くなった。 (なに言ってるの、私!!) これじゃまるでずっとお姫様抱っこしていて欲しかったみたいに聞こえてしまう。 慌てて否定しようと葵が顔を上げた瞬間、ふわっと頭の天辺に何かが触れた。 「?」 「お前ね、こんな夜中にそんな事言うと危ないよ?」 「え?え?」 苦笑気味に言う剣助に?を量産していると、そっと床に下ろされた。 「大丈夫か?」 「あ、うん。」 幸いな事に今度はしっかりと立てた葵は、とりあえず部屋の襖を開ける。 そして数十分前に悲壮な決意と共に飛び出した部屋を見て、ほっと息をつくと剣助を振り返った。 「ありがとう、スケさん。」 「なに、どういたしまして。・・・・それより、アオイ?」 葵の礼には何でもないように肩をすくめて、けれどふと何か思いついたように、剣助は襖の縁に手をつくと、葵に内緒話でもするように顔を寄せる。 思わぬ近さにどきっとしながらも、葵は首をかしげて剣助を見上げた。 「?」 「ホウセンの怪談がそんなに怖かったんなら、さ。」 意味深に言葉を切って、剣助の手が葵の頬を撫でた。 下ろした髪を梳くように指先をとおして、その指先が頬をなぞる。 「っ」 その仕草はさっき頭を撫でた時とは真逆で、恐ろしく色気のあるそれに、恐怖とは別の震えが葵の背中を駆けた。 「ス、スケさん、何・・・・」 「なあ、アオイ?」 「っっ!」 思わず引き離そうとした言葉は、耳元に唇を寄せて囁かれた事で飲み込まれてしまった。 それを見越していたように、剣助はつっと口角を上げて。 「怖くないように、俺が一緒に寝てやろうか?」 「っっっ!!!」 本日二度目の声に鳴らない悲鳴を上げて、葵は咄嗟に耳を押さえて部屋の中へ飛び退った。 その素早い動きに剣助がきょとんっとしていたが、構っている余裕は葵にはなかった。 襖に手をかけて一息に言う。 「お、お化けより危なそうなんで遠慮しますっっ!!」 「そりゃ残念。」 「おやすみ!!」 言葉ほどには残念そうでもなく言う剣助に構わず葵はとっとと襖を閉める。 そしてその襖に背中を付けて・・・・ずるずると沈み込んだ。 (うううう〜・・・・ど、どきどきする。) 今更ながらくり返すようだが、今は丑三つ時。 そんなに心臓が激しく活動する予定の時間ではない時間にこんなにどきどきしていいものだろうか。 (いや、良くないよ。絶対良くない。) ・・・・とりあえず、今度は確実にさっきの剣助の声が耳の中に残って当分寝られそうにない。 「ス、スケさんのばか〜。」 ああ、今夜はどうあってもやっぱり、眠れない夜になるようだ。 ―― 同じ頃、襖の向こうで葵の頬に触れた手を握った剣助が 「・・・・あながち冗談でもないんだけど。」 と呟いて、うっすらと赤くなった頬を覆ったことを、葵は知るよしも無かった。 〜 終 〜 |